artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
学芸員を展示する
会期:2016/01/09~2016/03/21
栃木県立美術館[栃木県]
美術館が「美術館建築」や「学芸員の仕事」や「コレクション」といった自己言及的テーマを、常設展ではなく企画展として取り上げるようになったのは90年代からだろう。それは80年代から美術館自体が急増したこと(しかも奇抜なデザインの建築が多かった)、それに伴い学芸員(キュレーター)の仕事が注目され始めたことのほか、バブル崩壊により予算が削減され、身近な素材で安上がりに展覧会を企画しなければならなくなった事情もあるに違いない。この「学芸員を展示する」も、基本的に自館のコレクションを素材にした「舞台裏まで見せちゃいます」的な企画展だ。構成は「コレクションができるまで」「作品を守り伝える」「調査研究」「展覧会を創る」「つなぐ美術館」の5部。地元画家の清水登之をはじめ、高橋由一、川上澄生、トロワイヨン、ターナー、ゴールズワージーらの作品のほか、版木、輸送用の箱、来歴を示すラベル、箱書きなども併せて紹介している。パネル展示の「美術館すごろく」では展覧会ができるまでを双六形式で見せているが、これを見ると、「企画会議でプレゼン」からスタートし、予算要求や助成金申請、文献調査、出品候補リスト作成、出品交渉、作品撮影、ディスプレイ業者と打ち合わせ、カタログ制作、論文執筆、広報、作品借用、展示、「展覧会オープン」でゴールするまでじつに雑多で、しばしば「雑芸員」と自嘲気味に語られるのも理解できる。途中「まさかの予算大幅削減!」のコマがあり「振り出しに戻る」となっていて、学芸員も楽じゃないと訴えている。
2016/01/09(土)(村田真)
ビアズリーと日本
会期:2015/12/06~2016/01/31
宇都宮美術館[東京都]
世紀末を彩るイギリスのイラストレーター、ビアズリーの展覧会はこれまで何度か開かれてきたが、ビアズリーと日本美術の接点を探る展示は初めてお目にかかる。ビアズリーというと繊細な曲線と大胆な構図、白黒の明快なコントラストから日本美術の影響を受けたジャポニスムの画家、という見方もあるが、同展を見る限りビアズリーが受けた日本美術の影響より、ビアズリーが与えた日本美術への影響のほうがはるかに大きいように思われる。展覧会の初めのほうでは北斎や英泉らの浮世絵、植物装飾の型紙など、ビアズリーが影響を受けた日本美術が展示されているが、彼自身「ちょっとばかし日本的なやつだが、でもまったくのジャポネスクではないんだ」と述べてるように、影響は限定的だったようだ。中盤では、ビアズリーの代表作にとどまらず世紀末芸術を代表するといっても過言ではない《サロメ》、雑誌『イエロー・ブック』や『サヴォイ』に掲載されたイラストなどを展示。後半では、ビアズリーの早逝後『白樺』などで作品や論文が掲載され、大正期にブームを巻き起こした様子が紹介される。高畠華宵や竹中英太郎らは「サロメ」を描いてるし、恩地孝四郎、田中恭吉、蕗谷虹児、山名文夫など影響を受けた画家は数知れない。ひょっとしたら、ビアズリーの絵を見たときに感じる親近感は、彼が日本美術の影響を受けたからというより、彼の影響を受けた大正・昭和のデザイナーやイラストレーターの作品に目がなじんでいたからかもしれない。ちなみにビアズリーの影響を受けた日本人の多くは日本画出身だ。
2016/01/09(土)(村田真)
野村浩「Invisible Ink」
会期:2015/12/16~2016/02/06
POETIC SCAPE[東京都]
「青い魔法のインク」という異名を持つ「Invisible Ink」とは、「イギリスArgletonに住むWilliam Louisが、銀塩の技術が衰退し、デジタル化が進む今日に、写真の魔法を取り戻すことをねらって再製品化したインク」だという。会場のガラス戸棚には、Louis氏の祖父が開発したという、そのインクの製品見本や使用説明書、プリントのサンプルなどが並べられていた。
正体を明かせば、この「Invisible Ink」なるものは、野村浩の創作物である。野村はこのところ、フィクションとノンフィクションの境界を行ったり来たりする作品を発表し続けているが、今回もその延長上の仕事といえる。いつもながら手の込んだ仕掛けで、写真史の知識がないとつい騙されてしまうこともありそうだ。
だが、問題はむしろその仕掛けよりも、「Invisible Ink」(実際にはサイアノタイプ)の技法によって定着されたイメージのほうではないだろうか。野村はかつて、街中でゴッホの自画像が印刷されたチラシを目にして「生身のゴッホが立ちあらわれたようで、ゾッとした」ことがあるという。その体験を再現するために、ゴッホの画集に収録された自画像を全部複写し、そのいくつかをサイアノタイプでプリントした。それら、ぼんやりと心霊写真のように浮かび上がる、異様に歪んだ顔のイメージは、たしかに強烈な喚起力を備えている。それだけでも充分と思えるほどだが、「Invisible Ink」というフィクショナルな要素を重ね合わせることで、画像のリアリティが逆に強化されているように見えるのが興味深い。それにしても、野村の奇妙なアイディアを次々に思いつく才能には、いつも驚かされる。
2016/01/09(土)(飯沢耕太郎)
渡辺眸「『旅の扉』~猿・天竺~」
会期:2016/01/08~2016/01/24
アツコバルー[東京都]
渡辺眸は1968年に東京綜合写真専門学校を卒業後、東大全共闘や新宿のアングラ・ムーブメントを撮影したあと、1972年からアジア各地を旅しはじめる。今回のアツコバルーでの展覧会では、1970年代から90年代にかけてインド・ネパールで撮影された「天竺」と、ネパールのモンキーテンプルで猿たちと出会ったことで、日本各地でも撮影するようになった「猿」の2シリーズが展示されていた。
渡辺の「天竺」には、不思議な時間が流れているように見える。普通、旅の途上で撮影された写真には、ある種の寄る辺のなさを含み込んだ「通過者の視線」があらわれてくるのではないだろうか。移動のあいだにふと目にとめた事象が、一瞬ののちには消え失せてしまうような儚さがつきまとうということだ。ところが、渡辺の写真に写っている人も動物も風景も、「永遠」といいたくなるような長い時間、そこに留まり続けているように見える。渡辺と被写体との無言の対話の時間が、そこに封じ込められているように思えてくるのだ。それは「猿」シリーズでも同じことで、ネパールや日本各地で撮影された猿たちも、明らかに「永遠」の相を身に纏っているようだ。
今回の展示には、1998年にプリントされたという大伸ばしのデジタル・プリント13点も展示されていた。会場構成のアクセントとしてうまく効いていたのだが、現在のデジタル・プリントと比較するとかなり画像の精度が落ちる。ただ、そのモアレ状になってしまったドットが、逆に面白い視覚的効果を生んでいた。20年近く前のデジタル・プリントが、すでヴィンテージ・プリントとして機能し始めているというのが興味深い。
2016/01/08(金)(飯沢耕太郎)
旅と芸術─発見・驚異・夢想
会期:2015/11/14~2016/01/31
埼玉県立近代美術館[埼玉県]
「旅」をキーワードにしながら西洋の近代美術を振り返った企画展。ローマの都市風景を描いたピラネージの銅版画をはじめ、ターナー、モネ、ルソー、クールベらが描いた風景画など200点あまりが展示された。人類の移動というダイナミズムによって美術史を再編成しようとする野心的な展覧会である。
よく知られているように、人類の移動と想像力は同伴しながら発展してきた。ハルトマン・シェーデルの『年代記』(1493)やヤン・ヨンストンの『動物図説:四足獣篇』(1649-57)には、頭がなく胸に顔がある怪物や一角獣のような空想的な動物が描かれている。それらは単に神話的な図像というより、まさしく人の移動によって得られた発見と驚異、夢想の現われなのだろう。近代地理学が確立されるまで、人は未知の土地を想像力によって把握していたのだ。
近代はそのような人類の想像力を許さなかったが、その反面、移動の範囲を飛躍的に拡大することで想像力を別の局面に押し上げた。産業革命により鉄道交通網が拡張すると、人は都市と都市、あるいは都市と郊外を頻繁に往来するようになり、新たな視覚芸術を生産するようになった。クロード・モネの《貨物列車》(1872)が端的に示しているように、人は鉄道で移動することによって都市近郊の田園を「風景」として再発見したのであり、19世紀後半にスフィンクスを撮影したイポリット・アルヌーの写真が如実に物語っているように、観光産業と写真の流通が異郷へのエキゾティシズムを増幅したのである。事ほど左様に、旅と芸術は分かちがたく結びついているというわけだ。
しかし、疑問がないわけではない。「空想の旅・超現実の旅」と題された第5室で、ブルトンやマックス・エルンスト、ポール・デルヴォー、ルイス・キャロルらの作品が展示されていたからだ。すなわち、本展はシュルレアリスムによる無意識の探究や児童文学による空想世界への憧憬もまた、「旅」として考え含めていたのである。むろん心の深淵に想像力を飛躍させることを意識の移動としてみなすことはできなくはない。けれども、物理的な移動も心理的なそれも「旅」だとすれば、たとえ自宅から一歩も外出しなくても「旅」をすることが可能となり、であれば何が「旅」で何が「旅」ではないのか判然としなくなってしまう。本展が明示しているように、「旅」とは「日常生活を離れて別の土地へと移動し、そこで出会うものに驚き、感動を覚え、世界の多様性を感じ取ること」だとすれば、それはおのずと空間的・物理的な制約を前提とした移動概念ではないのか。
ここには日本の一部の美術館が抱えている根深い問題がある。それは、意識的にか無意識的にかはともかく、概念規定が著しく脆弱であるがゆえに展覧会の構成が漫然としてしまうという問題だ。例えば昨年開館した大分県立美術館は、坂茂が設計したことで大きな話題を集めたが、その開館記念として「モダン百花繚乱『大分世界美術館』」展を催した。展示されたのはウォーホルやピカソ、マティスのほかにイサム・ノグチやアンリ・ルソー、さらには尾形乾山や与謝蕪村、三宅一生、松本陽子、横山大観まで、まさしく百花繚乱といえば百花繚乱ではあったが、しかし展示会場を実見してみても、それらのいったいどこが「モダン」なのか、到底理解に苦しむ構成だったと言わねばなるまい。多少の皮肉を込めて言い換えれば、モダンを標榜しながらも、そのキュレーションは無責任で野放図な、すなわちきわめて悪質なポストモダン的なものだったと言ってもいい。
「モダン」にせよ「旅」にせよ、必要なのは指示対象を厳密に限定した明快な言葉を設定することである。このようなごくごく基本的な仕事が疎かにされている現状こそ、驚異をもって発見してもらいたいものだ。
2016/01/08(金)(福住廉)