artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

《聖プラクセディス》

会期:常設展

国立西洋美術館[東京都]

フェルメールの《聖プラクセディス》を見に行く。この作品は2000年の大阪市立美術館で開かれた「フェルメール展」にも出ていたが、現在「フェルメール作」ではなく「フェルメールに帰属」になっているのは異論が多いからだ。しかしサインと年記(Meer 1655)が入ってるうえ、使われてる絵具がフェルメールの初期作品ときわめて近いらしい。でも同名の画家は17世紀オランダに複数いたことがわかってるので、決定打にならない。しかも、仮にフェルメールの真作だとしても、まだフェルメールらしさが表われてない初期の作品で、おまけにイタリアの画家フィケレッリの模写というから、ありがたみは薄い。そんな作品がなんで西洋美術館にあるかというと、もちろん美術館が購入したからではなく、だれか日本人が昨年オークションで10億円超で競り落とし、美術館に寄託したからだそうだ。でもまあフェルメールらしきものがあるというだけでも客は来るかも。

2015/05/17(日)(村田真)

山口小夜子 未来を着る人

会期:2015/04/11~2015/06/28

東京都現代美術館[東京都]

むかし、一龍斎貞水の講談を演芸場で見たとき、不思議な体験をした。演目は「徂徠豆腐」で、貞水が御用学者の徂徠と彼の貧しい時代の恩人である豆腐屋の男を演じ分けていたところ、ふと貞水の口元を見やると、どういうわけか歯が欠けているように見えたのだ。先ほどまではしっかりとした歯並びだったのに、いつのまにか上の歯が一本抜けている。あるいは、単なる眼の錯覚だったのかもしれない。けれども、豆腐屋の男が貞水を乗っ取ってしまったのではないかと勘ぐるほど、その日の貞水の講談は確かに熱を帯びていた。あれはいったい何だったのか、いまだに解決しがたい謎として、いまも心の奥底に残されている。
本展とまったく関係のない講談の話から始めたのは、ほかでもない。本展で発表された山川冬樹の映像作品が、まさしくそのような謎を喚起する作品だったからだ。映像に映されているのは、被災地である福島。そこを、白い仮面を被って小夜子に扮した山川がさまよい歩く。むろん、仮面であるから、じっさいの顔の輪郭と正確に重なっているわけではなく、不自然な印象は禁じえない。にもかかわらず、人影の見当たらない海岸や森のなかを彷徨するその姿を見ていると、山口小夜子本人なのではないかと直感する瞬間が幾度となくあった。
鑑賞者の心を撃つ、その瞬間はいったい何なのか。仮面は緻密な再現性を追究して造形化されているわけではないので、外形的な印象に由来しているわけではあるまい。山口小夜子本人を知っているわけでもないので、記憶の重力がイメージを引きつけたわけでもなかろう。あるいは貞水の豆腐屋のように、物語という明確な輪郭のなかに挟まれていれば、その一貫性のある前後関係が鑑賞者の視覚を偏らせることもあるのかもしれない。だが山川の作品は、全編にわたってモノローグが映像に重ねられていたように、定型をもたない散文詩のような構成である。物語の構造がイメージを実体のように見せたとは到底考えられない。
むろん、降霊現象のようなオカルトめいた話に落ち着かせたいわけではない。しかし、山川のパフォーマンスは、少なくとも、あの一龍斎貞水と同じ水準まで熱が入っていたことは間違いない。その熱の入れ方は異なるはずだが、鑑賞者の視線をさらうほどの熱量を投入することは、おそらく芸能であれ芸術であれ、優れた芸の基本的な条件だったはずだ。視線のアブダクションを体験できるパフォーマンスである。

2015/05/17(日)(福住廉)

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岡崎和郎展「御物補遺」

会期:2015/04/27~2015/06/14

ギャラリーあしやシューレ[兵庫県]

「御物補遺(ぎょぶつほい)」とは、岡崎和郎が1960年代に提唱した造形概念。英語表記の「supplements」(補足、補遺、付録)が表わすように、「従来の美術表現で見落とされてきたことを補う」を意味し、日常的な物体の表と裏、内と外を反転させてつくられているオブジェ作品が多い。
今回の個展で数点展示された《HISASHI》はその代表例。《HISASHI》は、日本家屋の外壁に取り付けられる庇をモチーフにしたオブジェを、ギャラリーの内側の壁に取り付け、「風雨をしのぐ」という本来の機能を剥ぎ取ることで、空間の内と外を鮮やかに反転させる。他にも、キューピー人形や招き猫の表と裏を反転させることで、輪郭が曖昧に溶けかけているようなオブジェも展示された。デュシャンのレディ・メイドやマン・レイのオブジェの系譜に連なりつつ、反転という操作によって外側から内側へ、取るに足りない部分から全体へと、侵入を企て、境界線を撹乱させ、区分を突き崩すような岡崎の作品群は、掌に収まるような小さく愛らしい見かけのなかに、空間に対する既存の概念や美術の制度に対する攻撃性を秘めている。小規模ながらも、岡崎のオブジェ作品をまとまって見ることができた良い機会だった。

2015/05/16(土)(高嶋慈)

土田ヒロミ「砂を数える」

会期:2015/04/25~2015/06/07

Gallery TANTO TEMPO[兵庫県]

Gallery TANTO TEMPO開設7周年記念として開催された土田ヒロミの写真展。1976年~89年にわたって国内各地で撮影されたモノクロの「砂を数える」シリーズが展示された。
被写体となるのは、海水浴場や観光地、お花見や初詣などの行事に集う人々。序盤の展示作品では、20~30名ほどであった群れ集う人々は、次第に数と密度を増していき、文字通り砂粒のように画面をびっしりと埋め尽くす。「集団」というほど統制されているわけでもなく、(学校や企業、家族の集合写真のように)アイデンティティの一貫性が明確にあるわけでもない。視線や身体の向きはバラバラで、身体を密着させつつもお互いへの関心は薄く、心理的な距離は隔てられている。何らかのイベントのために一時的に集まった群衆は、目的や欲望は共有しつつも、中心や連帯を欠いた「群れ」として蠢く運動体を成している。個々の輪郭は、オールオーヴァーに画面を覆い尽くす抽象的なパターンへと還元される手前で、ギリギリ踏みとどまっているように見える。
ここでは、固有の顔貌や名前を欠いた等価な存在として平均化・数値化されていく過程と、個人として辛うじて認識可能な輪郭とが瀬戸際でせめぎ合っている。シリーズ全体を通して見えてくるのは、均質な「国民」の出現だ。1976~89年という撮影期間も社会史的な役割を果たしている。つまりこの期間は、高度経済成長の終了から、昭和天皇崩御による昭和という一つの時代の終わりを指す。観光地や海水浴場に群れ集う人々の姿は、余暇や娯楽が「レジャー」として商品化された社会を写し出し、皇居の新年一般参賀や広島の平和記念式典に集う人々の姿は、「国民」という幻想の集合体を形成する。
一方、カラーで撮影された近年の「新・砂を数える」シリーズでは、群衆の密集性やダイナミズムは薄れて後退し、鮮やかだがどこか空虚な風景の中、互いに距離を取って点在する人々が写し出される。デジタル技術の使用も相まって、ミニチュアの人形が置かれたセットのように、人工的で模型的なイメージだ。ここでは、「群衆の形成が風景を変え、凌駕し、それ自体が一つの蠢く運動体としての風景を現出させる」のではなく、人々は風景の「中に」置かれた存在として、モノと等価になったかのようだ。2つのシリーズの対照のなかには、日本社会の変質が確実に刻み込まれている。

2015/05/16(土)(高嶋慈)

狂転体 展

会期:2015/05/09~2015/05/23

CAS[大阪府]

「シュルレアリスムの再認識」を目的に、1977年に結成されたグループ「狂転体」。メンバーは、美術家、デザイナー、音楽家、TVプロデューサーなどで、常時7名前後のメンバーが入れ替わりながら、1983年まで活動を続けた。本展では、彼らの過去のイベント(現在のパフォーマンスに近いニュアンス)の遺物を展示した他、メンバー数名で共作した新作オブジェ、記録写真などが展示された。一部とはいえ、よくも作品が残っていたものだと感心したが、それ以上に重要なのが記録写真の存在である。筆者は「狂転体」の存在を知らなかった。研究者でも、よほど精通した人でなければ知らないだろう。関西の現代美術では、こうした活動の数多くが埋もれたままになっている。早急なアーカイブが必要だが、体制が整っておらず残念でならない。当事者たちが資料を整理してウェブを立ち上げるだけでも随分違うと思うのだが、いかがだろう。

2015/05/16(土)(小吹隆文)