2022年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

写真史家・金子隆一の軌跡

会期:2022/06/28~2022/07/31

MEM[東京都]

昨年逝去した金子隆一(1948~2021年)の1周忌を迎え、彼の2万点以上といわれる蔵書を引き継ぐことになった東京・恵比寿のMEMで記念展が開催された。日蓮宗の僧侶を本業としながら、その立ち上げの時期から東京都写真美術館の専門調査員を務め、キュレーター、写真史家として多大な貢献をした彼の業績を、あらためて振り返ろうという企画である。1967年に立正大学に入学し、写真部に入部して全日本学生写真連盟の活動に参加した時期から、フォト・ギャラリー プリズム(1976~78年)の運営、『camera works tokyo』(1979~1984年)の刊行などの活動を経て、日本の写真を出版、講演、展覧会企画などを通じて支えていくようになる金子の軌跡が、豊富な資料で多面的に紹介されている。金子自身による学生時代のオリジナル・プリント、島尾伸三撮影の若き日のポートレート、潮田登久子撮影の金子の蔵書の書架を撮影した写真なども出品されており、感慨深い内容の展示だった。

写真集の収集と書誌研究を軸とした彼の仕事は、むろんこれまでもいくつかの書籍の形で上梓されているのだが、こうしてその全体像を概観すると、まだ多くの可能性をもつものであることがよくわかる。幸い、蔵書の整理やリスト化の作業も進行中ということなので、今後その成果が少しずつ形になっていくことを期待したい。彼がさまざまな媒体に発表した文章も、書籍としてまとめる必要があるだろう。展覧会に合わせて、カタログを兼ねた同名の冊子(発行・エムイーエム、2022)が出版されている。関係者による追悼の文章、金子の講演「写真の歴史 一九六〇~一九七〇年と世界の写真の潮流」(2017年)の採録、詳細な年譜などを含む、160ページの充実した内容の写真・文集である。

2022/06/29(水)(飯沢耕太郎)

地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

会期:2022/06/29~2022/11/06

森美術館[東京都]

「地球の曲/地球がまわる音を聴く。/1963年春」

展覧会の冒頭に掲げられたのは、同展のタイトルにも使われたオノ・ヨーコのインストラクション集『グレープフルーツ』からの言葉だ。さらに、

「鼓動の曲/心臓の鼓動を聞く。/1963年秋」

と続く(原作はどちらも英語で表記されている)。世界に耳を澄ませ、自分に耳を澄ます。このふたつの行為が同展の方向性を指し示しているように思える。2020年に始まった新型コロナウイルスの世界的流行(パンデミック)により、いきなり世界が別のステージに移り、これまでとは違う時間が流れ始めたかのような錯覚を覚えた人も多いだろう。この2年半、自分はどのように生きていけばいいのか、世界に対して自分はなにができるのか、これまであまり考える必要のなかった問いに向き合わざるをえなくなった。この展覧会はそんな問いになにかヒントを与えてくれるかもしれない。とはいえ、16人の出品作家は国も違えば、考え方も使うメディアも表現スタイルも異なり、多様としかいえない。むしろ多様であることがひとつの答えであるといってもいい。

そんななかで目が釘付けになったのが、エレン・アルトフェストの作品。身の回りの風景や静物を緻密に描写したいわゆる写実絵画なのだが、手っ取り早く写真を用いることはせず、長時間を費やして実物を観察し、木の幹の凸凹した表面やカボチャの複雑な色合いや肌触りまで克明に再現していく。たとえば《木々》(2022)と題された絵画は、A4サイズ程度の小品にもかかわらず1年以上かけて制作したという。そこには写真からただ転写したようなインスタント絵画にはない濃密な時間が蓄積されている。それはすべての時間がスローダウンしたパンデミックゆえに可能だったに違いない。

もう1点、金沢寿美の《新聞紙のドローイング》(2021)も瞠目に値する。日々の新聞をひたすら濃い鉛筆で塗りつぶし、目に止まった文字や画像だけ残す。それを数百枚つなげて高さ5メートル、幅20メートル以上のカーテン状にして吊るしてみると、ところどころ星々が輝く漆黒の宇宙に見える。このシリーズを始めたのは2008年だが、本格的に取り組むようになったのは、社会との断絶を感じ始めた出産後の2017年からで、このコロナ禍によりますます加速したようだ。彼女は新聞を読むのではなく、塗りつぶすことによって世界とつながり、宇宙に開かれたといえるだろう。

美術館がこういう現在進行形の出来事に絡めてテーマを設定するのは難しいし、とても勇気がいることだ。ともすれば時流におもねっているとか災厄を利用しているとかいわれかねないし、ようやく実現したと思ったらすでに時代遅れになっていたというほど世の中の動きが早いからだ。実際、同展を企画したのは2020年以降のはずだが、今年に入ってからロシアがウクライナに侵攻し、安倍元首相が暗殺されるなど激震が続き、第7波がきているにもかかわらずもはやコロナへの関心は薄れきっている(というより、みんなうんざりしている)ように見える。身も蓋もないことをいえば、どんなテーマの展覧会だろうが、テーマに関係なく人を感動させる作品は変わらないということだ。

2022/06/28(火)(村田真)

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地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

会期:2022/06/29~2022/11/06

森美術館[東京都]

Listen to the Sound of the Earth Turning.

これは1964年にオノ・ヨーコが書き下ろし出版した本『グレープフルーツ』の一節である。本展テーマは、この一節を発端に組み立てられたという。「パンデミック以降のウェルビーイング」とは、いま、誰もがもっとも関心のあるテーマのひとつではないか。世界的なパンデミックを経て、我々はこれからの生き方や地球のあり方について立ち止まって考えざるを得ない時が来た。そんな折に、50年以上前に書かれた彼女の言葉が改めて響いてこようとは……。

オノ・ヨーコはジョン・レノンとの結婚前、前衛芸術運動のフルクサスに参加していたアーティストとして知られるが、その後もことに言葉を用いたアートに長けていたように思う。ヨーコの作品に初めて出合った際に、ジョンが心に深く残ったという《天井の絵》では「YES」の文字を記しており、ジョンと一緒に発表した楽曲「Happy Xmas」では「WAR IS OVER “IF YOU WANT IT”」という反戦メッセージを歌い上げた。言葉はシンプルで強く、人々の心に真っ直ぐ届きやすい。「地球がまわる音を聴く」とは実に壮大で、神の領域に当たる行為ではあるけれど、頭の中で想像するだけで、この地球上で自分がいかにちっぽけな存在であるかを同時に思い知らされる。


展示風景 ヴォルフガング・ライプ《ヘーゼルナッツの花粉》(2015-18)森美術館


本展ではそうした「五感を研ぎ澄まし、想像力を働かせる」16人のアーティストによる作品が集結した。オノ・ヨーコの『グレープフルーツ』からの抜粋作品の次に登場するのが、ヴォルフガング・ライプの作品だ。展示空間に入ると、辺り一面に甘い香りが漂う。それが《ヘーゼルナッツの花粉》から放たれていることに、キャプションを見て気づく。さらに奥には牛乳や蜜蝋を固めた作品が展示されているのだが、造形がミニマムゆえに、その予想もしない香りにハッとさせられる。いずれも人々にとっては食を連想させる香りだが、生物にとっては生命をつなぐための大事な要素だ。我々はそのエッセンスをいただいて生きている。五感のなかでも嗅覚を刺激されたことで、そうした生物の循環に思いを巡らせざるを得なかった。果たして、本展がパンデミック後の世界を生きる我々のよすがとなるか……。


公式サイト:https://www.mori.art.museum/

2022/06/28(火)(杉江あこ)

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越境─収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座

会期:2022/06/17~2022/07/23

京都精華大学ギャラリーTerra-S[京都府]

京都精華大学の学内ギャラリーのリニューアルオープン記念展。前身のギャラリーフロールは変則的な間取りで古さも感じる空間だったが、建て替えられた新校舎内に、床面積630㎡の大型ギャラリーとして生まれ変わった。新校舎自体、ガラス張りで開放感のある今どきの建築だが、ギャラリー名に「テラス」とあるように、池を臨むガラスの壁面からは明るい光が差し込む。本展では、大学が収蔵するシュウゾウ・アヅチ・ガリバー、今井憲一、ローリー・トビー・エディソン、塩田千春、嶋田美子、富山妙子の作品と、若手~中堅の5名のゲストアーティスト(いちむらみさこ、下道基行、谷澤紗和子、津村侑希、潘逸舟)の作品を展示。「ジェンダー/歴史」「身体/アイデンティティ」「土地/記憶」といったキーワードを軸に、作品群がバトンを受け渡すようにゆるやかに結びつく。

「戦争とジェンダー」の問題を問うのが、富山妙子と嶋田美子。富山の「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」シリーズは、少女時代を満州で過ごした記憶と帝国の植民地支配を図像的に描いたものだ。出品作の《祝 出征》では、出征直前に軍服姿で式を挙げる青年と花嫁が、狐に擬人化して描かれる。日章旗と旭日旗を手に「出征」と「結婚」を祝うのは、親族に加え、白い割烹着に「大日本愛国婦人会」のたすきがけをした女性たちだ。割烹着すなわち「母・妻」という家庭内での女性の役割を示すユニフォームにより、「結婚」とは「男児=次代の兵士の補充」であり、「女性の戦争動員の一形態」「国家による性と生殖の管理」にほかならないことが示される。同様に、戦時下の写真を元にした嶋田美子のエッチング作品では、白い割烹着に「満州国防婦人会」のたすきがけをした女性の奉仕活動や、「健康優良児コンテスト」で幼児(もちろん男児である)を抱きかかえて笑顔を見せる母親たちが提示される。写真画像の引用に際し、例えばシルクスクリーンではなく、エッチングを選択した理由は、「版に直接ニードルで刻む」この技法が、「傷」を文字通り想起させるからだろう。



富山妙子《祝 出征(「20世紀へのレクイエム・ハルビン駅」から)》(1995)、京都精華大学蔵


表現メディアとジェンダーの関係を問うのが、谷澤紗和子の切り絵作品である。谷澤は、晩年に精神を病んだ高村智恵子が制作した「紙絵」作品の引用に、智恵子への手紙や「うちなるこゑ」「NO」といった言葉の切り抜きを重ねた。「絵画」/手工芸的要素の強い「切り絵」というヒエラルキーや、美術史における女性作家の周縁化に対して「NO」を突きつけると同時に、「手紙」という親密な文体を借りて、「応答する智恵子の声」への希求を示す。作品は「古い家屋の廃材」でつくった額縁に囲まれるが、古い家制度の解体/なおも残存する強固なフレームの双方を示し、両義的だ。



谷澤紗和子《はいけい ちえこ さま》(2021)


そして、女性への抑圧を、「貧困」「肥満」といった差別構造の交差の視点から問うのが、いちむらみさことローリー・トビー・エディソン。自身も東京の公園のテント村に暮らし、ホームレスの女性の支援活動を行なういちむらは、シェルター/暴力の再生産の場所でもある「家」、炎、墓など暴力を暗示するモチーフを赤い絵具で描き、映像を重ねたインスタレーションを展示。一方、ファット・フェミニズム(肥満受容)運動に関わるローリー・トビー・エディソンは、代表作の「Women En Large」シリーズを展示。堂々と自信に満ちた太った女性たちのポートレートに彼女たちの自己肯定的な言葉を添え、「肥満=醜」とする画一的な美の基準にアンチを突きつける。



ローリー・トビー・エディソン《デビー・ノトキン(「ウィメン・エン・ラージ」シリーズより)》(1994)、京都精華大学蔵


一方、「自身の体重を同じ重さの物体へ還元・置換する」という手法の共通性を示すのが、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーと潘逸舟。コンセプチュアルな手法で自己の存在や身体を扱うガリバーは、体重と同じ重量のステンレス製の球体を長椅子に乗せた《重量(人間ボール)》を展示。潘逸舟もまた、体重を「同じ重さの石」に置換するが、より有機的だ。映像の画面いっぱいを占める「巨大な石」がわずかに上下に動き、それを腹に乗せて横たわる潘の「呼吸=生の証」を伝える。この「石」を、神戸港から出身地の上海に向かうフェリーに載せて「旅」をさせた映像では、石を不安定に揺動させるのは、個人の肉体ではなく、国境を超える船すなわち「移民」という社会的様態だ。そして、秤の上に置いた食器を箸やスプーンでつなぎ、円環状に配置した《あなたと私の間にある重さ─京都》では、「重さ」とは何を指すのか(身体?記憶や精神?)、それは計測可能なのか、他者と交換可能なのかと問いかける。さらに、「食器」が危うい均衡を保って円環状につながる様は、気候変動や軍事侵攻がもたらす食料危機も想起させ、「本当に平等に分配されているのか?」という問いをも喚起する。



左:シュウゾウ・アヅチ・ガリバー《重量(人間ボール)》(1979)、京都精華大学蔵
右:潘逸舟《呼吸_蘇州号》(2013)




潘逸舟《あなたと私の間にある重さ―京都》(2022)


「芸術大学の学内ギャラリー」というと、学生や卒業生、教職員の展示という「学内向け」の役割をイメージしがちだ。だが、質の高いコレクションをもっていること、そしてそれを指針として、若い世代の作家の作品と対話的な関係を構築していく姿勢を示していた本展は、「学内コレクションの活用」という点でも示唆的だった。

関連レビュー

谷澤紗和子「Emotionally Sweet Mood─情緒本位な甘い気分─」|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年05月15日号)

2022/06/25(土)(高嶋慈)

TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか

会期:2022/06/17~2022/09/25

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

定期的に開催されている「TOPコレクション展」は、いわば、東京都写真美術館の常設展に当たる展覧会企画である。だが、第一次開館(1990年)から30年以上が過ぎた現在では、毎回新たな方向性を打ち出すのがむずかしくなってきているのではないだろうか。担当学芸員の苦心を感じることが多いのだが、今回の「TOPコレクション メメント・モリと写真 死は何を照らし出すのか」展は、館外から借用した作品(たとえば青森県立美術館が所蔵する小島一郎の作品)も含めて、企画意図と内容がうまく噛み合った展示になっていた。

それは、「写真と死」というテーマ設定に、動かしがたい必然性があるからだろう。以前「すべての写真は死者の写真である」と書いたことがある。そこに写っている風景、人物が、もはや無くなった(亡くなった)ものである場合はもちろんだが、たとえ被写体が現存していたとしても、それらがいつかは無くなる(亡くなる)ものであることを、われわれはよく知っているからだ。あらゆる写真には、死が二重映しに写り込んでおり、その意味で「メメント・モリ(死を想え)」という格言は、写真という表現媒体の本質的なあり方をさし示すものといえる。

その意味では、今回の展示作品のなかでは、たとえばマリオ・ジャコメッリのホスピスを撮影した写真、あるいはロバート・キャパ、澤田教一らの戦争写真のような、直接的に死を扱った写真よりも、荒木経惟、牛腸茂雄、ロバート・フランク、リー・フリードランダー、ウィリアム・エグルストンらのような、日常に顔を覗かせる死を絡めとるように提示した写真群の方が、より興味深かった。写真家たちがその繊細なセンサーを働かせて、スナップ写真のなかに「メメント・モリ」を呼び込むような営みがずっと続いてきたことを、あらためて見直すことができたからだ。

2022/06/22(水)(飯沢耕太郎)

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