artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

アニッシュ・カプーア in 松川ボックス

会期:2023/09/20~2024/03/29

松川ボックス[東京都]

西早稲田の住宅街の一角に建つ松川ボックスは、コンクリート製の箱=ボックスに木組の住宅を嵌め込んだ和洋折衷というか、和魂洋才みたいな建築。宮脇檀の設計で1971年に竣工し、1979年には建築学会作品賞を受賞した(同時受賞したのは安藤忠雄の「住吉の長屋」)。インディペンデントキュレーターの清水敏男氏は10年以上前からそのA棟をオフィスとして使っていたが、コロナ禍によりオフィスを整理し、吹き抜けを含む一部をギャラリーとして公開することにしたという(ただし日時限定予約制)。その最初の展示がアニッシュ・カプーアだ。

作品は1階の吹き抜けと2階の部屋に絵画が1点ずつ、1階の座敷に彫刻が1点の3点のみ。絵画は赤と黒を基調とした表現主義風で、1点は画面中央に赤い溶岩を噴出する火山のような三角形が屹立し、下のほうには余白が残されている。激しいタッチで描かれているが、奥行きも陰影もあるので風景にも見える。もう1点は中央に赤い割れ目のようなものが描かれ、それを囲むように赤と黒の絵具が塗られている。まるでロールシャッハ・テストで使う図像のようだ。これがなにに見えるか問われれば、真っ先に思い浮かぶのは女陰だなあ。だとすれば先の1点は「屹立する火山」から男根を連想するしかない。そういう作品なのか?



アニッシュ・カプーア《PK100641》[筆者撮影]


畳部屋に鎮座する彫刻は、上半分が半球状で下半分がハの字型に広がった形状をしている。タコがスカートを履いたような、あるいはオバQみたいなかたちといえばわかりやすいか。余計わかりにくいか。表面が鏡面仕立てなので見ている自分が映るのだが、なめらかな凹凸のある曲面なので動くと伸びたり縮んだりするし、座ってみるとちょうど死角に入って自分の姿が見えなくなる。本人が映らないので写真撮影にはもってこいだが、これだけは売り物ではなく借り物なので撮影禁止という。絵画からの連想で、これも男根か陰核に見えてきたぞ。

※毎週水曜、木曜、金曜のみ開廊。彫刻作品は11月24日(金)まで展示。


アニッシュ・カプーア in 松川ボックス:https://coubic.com/themirror/4453019#pageContent

2023/11/06(月)(村田真)

倉敷安耶「あなたの髪のひとつ(だった)」

会期:2023/10/27~2023/11/12

haku[京都府]

男性中心主義的な視線によって付けられてきた傷を、表象のレベルと物質的なメディウムのレベルの双方においてどう回復し、ケアすることができるか。東西の宗教や美術史とジェンダーの関係を問い直し、ジェンダー化されたケア役割を、シスターフッド的な関係性として戦略的にどう反転させることが可能か。本展はこうした実践に貫かれている。そのために倉敷安耶が用いるのが、デジタルコラージュと転写という2つの技法/操作だ。

本展で倉敷がモチーフとするのは、マグダラのマリアと小野小町。「髪」を共通項とし、キリスト教と仏教の教義や死生観を描いた絵画において、「宗教」「道徳」を口実に、男性の性的な視線の対象物として表象されてきた2人の女性像である。マグダラのマリアは、磔刑に処されたイエスの遺体に香油を塗るために墓を訪れ、イエスの復活に最初に立ち会った人物とされる。キリスト教の教義の体系化の過程で、「罪深い女」(イエスの足を涙で濡らし、自身の髪の毛でぬぐい、接吻して高価な香油を塗り、イエスに罪を赦された娼婦)と同一視された。そのため、西洋古典絵画では、「洞窟に隠遁し、自身の罪を悔いる元娼婦」という図像で描かれることが多い。だが「隠遁した聖者」であるにもかかわらず、「胸や肩をはだけ、白い肌を露にし、恍惚の表情を浮かべる若く美しい女」として描かれてきた。「洞窟」という閉鎖空間もまた、覗き見的な消費の視線を示唆する。

一方、小野小町は伝説的な絶世の美女とされるが、晩年は容貌が衰え、野ざらしになって死んだとされ、「九相図」のモデルとして描かれた。「九相図」とは、「どんな美女でも死ねば肉体は朽ち果て、骨と化す」という無常観や肉体の不浄さを、肉体の腐敗の9段階に分けて描写した仏教絵画である。若い女性の死体が徐々に腐敗し、ガスで膨らみ、体液が流れ出し、ウジがわき、鳥獣に食い荒らされ、骨だけになる。煩悩を払い、肉体の不浄さや無常さを説く絵画だが、なぜ女性の身体だけが「不浄」とされるのか。そこには同時に、「美女の死体」を視姦するポルノグラフィックな欲望もあるのではないか。



倉敷安耶 ドローイング《発酵の九相図》(2023)水彩用紙、アクリルメディウム転写、ワイン[撮影:久保田智広]


倉敷は、引用画像のコラージュによって、マグダラのマリアと小野小町を同一平面上で出会わせる。《祝福と喪葬のための香油塗り》では、西洋古典絵画に描かれたマグダラのマリアと、絵巻物や日本画から引用された小野小町が、互いに香油をかけ合う。それは祝福を表わすと同時に、弔いの行為としてのケアでもある。《九相図》で引用されたのは左右2人の人物ともマグダラのマリアだが、裸体で横たわる右側のマリアは髪を黒に、かつ長く加筆され、野ざらしの死体となった小野小町のようにも見える。この2つの引用画像はエロティックな欲望が顕著な例であり、左側のマリア(ピーテル・パウル・ルーベンス)は肩と胸元を大きくはだけ、右側のマリア(19世紀フランスの官展画家ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル)は全裸でなまめかしいポーズをとり、あからさまにポルノグラフィックな図像だ。



倉敷安耶《祝福と喪葬のための香油塗り》(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]




倉敷安耶《九相図》(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]


だが、倉敷の作品では、ひざまずいたマグダラのマリアが接吻して香油を塗るのはイエスの足ではなく、小野小町/マリア自身である。イエスの遺体を清めて弔うというケア役割は、(男性ばかりの12使徒ではなく)マグダラのマリアすなわち女性の役割としてジェンダー化されつつ、男性の性的視線の対象物として表象されてきた。倉敷は、「男性をケアする」という奉仕的役割を、女性どうしが互いをケアし合うものとして、シスターフッド的に反転させる。

そして、男性の視線によって一方的に表象・消費されてきた「傷」をまさに可視化するのが、転写による画面のテクスチャである。ボロボロになった皮膚のように表面が剥がれ、こすれ落ち、亀裂が走り、穴のあいた傷口から支持体の内部が露出する。倉敷は、通常は下絵として用いられる転写技法をあえてそのまま見せることで、イメージに物質的な層をまとわせ、文字通り受肉させる。本展出品作では「メディウム転写」の技法が用いられている。転写したいイメージを紙にインクで印刷し、アクリルメディウム樹脂を塗った支持体の表面にその紙を貼り付け、乾燥させてインクが定着した後に、水で濡らして紙の部分をこそぎ落として転写させる。その際に生じる亀裂やスクラッチを、倉敷は積極的に表現技法として活用している。



倉敷安耶《九相図》(部分)(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]


「視線」の暴力性は、性的な視線はもちろん、好奇や侮蔑の視線を向けられた相手を「物理的には傷つけない」ことによって巧妙に覆い隠されている。だが目に見えなくとも、そこに確かに傷は存在する。マグダラのマリアや小野小町の九相図の絵画に向けられ続けてきた性的な視線が、もし本当に物理的に画面を暴力的に貫いたら、このようにボロボロに傷ついていたのではないか。倉敷は、歴史的絵画が何百年も視線の暴力に晒され続けてきた傷を可視化・物質化したうえで、「その痛みをケアし合う」シスターフッド的な関係性を描くことで、表象のレベルにおいて傷の回復を試みる。そして物理的なレベルでは、「画面の傷」を実際に糸で縫い合わせて「修復」を施す。倉敷の絵画は、痛みの可視化であるとともに、そうした二重のケアと修復の行為なのだ。



[撮影:久保田智広]


2023/11/05(日)(高嶋慈)

CET23 OPEN START

会期:2023/10/23~2023/11/05

東日本橋・馬喰町エリア各所[東京都]

そういえば東京ビエンナーレは今日までだったな。会場があっちこっちに散らばっているから、どこか無料でたくさん見られるところはないかと調べたら、東日本橋・馬喰町エリアに集中していた。エトワール海渡リビング館という会場は有料だったのでパスし、それ以外の10カ所ほどを回ったのだが、後でよく見直したらエトワール海渡だけが東京ビエンナーレの企画で、それ以外はCET(セントラルイースト・トーキョー)によるイベントだった。CETは空洞化していたこのエリアを活性化するために20年ほど前から始めた「アート・デザイン・建築の複合イベント」で、2010年にいったん終了したが、東京ビエンナーレの開催を機に再起動させたという。つまりCETが東京ビエンナーレの企画に乗ったかたちらしい。まあ見る側にとってはどっちでもいいんだけど。

期待に違わぬ力作を見せてくれたのが宇治野宗輝だ。廃屋となった3階建ての一軒家を丸ごと使い、「建築物一棟をグルーヴボックスにするプロジェクト」を展開している。各階ごとに廃車や机や照明などを用いて、動いたり光ったり音が出たりするインスタレーションを構築し、それぞれを垂直に連動させているのだ。これは見ていて飽きない。その近くの古いビルの側壁にドローイングしたのは小川敦生。渦巻きや曲線に雪の結晶のような枝葉がついたパターンで、昔流行ったフラクタル図形を思わせる。工事用蓄光チョークを使っでいるので、夜見たほうがきれいかも。こういうグラフィティやストリートアートはもっとあってもいい。



宇治野宗輝《dormbeat》[筆者撮影]


その向かいのビルでは委細昌嗣と渦波大祐の《Silent City》(2020)を上映。人ひとりいない東京の繁華街を写した映像作品で、おそらくコロナ禍の早朝にでも撮影したのだろう、見事に人も車も写っていない。思い出したのは、台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)による《日常演習》(2017)という映像。だれもいない静まり返った台北の街をドローンで撮影したもので、CGかと思ったら、年にいちど行なわれる防空演習日の外出禁止時間に撮影したのだという。戦争やパンデミックにはこうした非現実的な無人の都市が出現するのだ。でも最近ではCGやAIでいくらでも人を消せるから、だれも驚かなくなるかもしれない。いま「人を消せる」と書いたけど、映像とはいえ簡単に人を消せるというのもどうなんだろ。ともあれ映像に限らず、これからの芸術表現にはAIに負けないリアリティが必要となるだろう。



小川敦生《測量標》[筆者撮影]


CET23 OPEN START:https://centraleasttokyo.com

2023/11/05(日)(村田真)

生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ

会期:2023/10/06~2023/12/03

東京国立近代美術館[東京都]

棟方志功といえば、版木にスレスレまで顔を近づけてものすごい勢いで一心不乱に彫刻刀を動かす姿や、太い丸眼鏡にもしゃもしゃの髪、子供のように無邪気な笑顔の人物を思い浮かべる人は多いのではないか。そうしたキャラクターが立っている点で、彼は唯一無二の版画家であるように思う。年老いてなおあのような笑顔の持ち主だったということは、周りからずいぶん愛されていたのではないかと想像する。少なくとも東京で交流していた、柳宗悦をはじめとする民藝運動の人々は彼をとても可愛がり、重用していたことで知られる。


棟方志功ポートレート[撮影:原田忠茂]


本展は棟方が生まれ育った青森、版画家として才能を広げた東京、戦時中に疎開していた富山と、縁のある三つの地域に焦点を当てている。それぞれの地域がいかに「世界のムナカタ」をつくり上げたのかという観点から、「メイキング・オブ・ムナカタ」のタイトルがある。私個人的には、前述したとおり、彼は民藝運動のなかで活躍した版画家というイメージが強かったのだが、今回、新たな見方を得た。それは青森という地域性だ。彼が幼い頃、青森ねぶた祭りの人形灯籠「ねぶた」に影響を受けたという解説を見て納得が行った。そもそも青森は世界遺産にもなった縄文遺跡群があることで知られ、縄文人のDNAが色濃く残る地である。青森ねぶた祭りの迫力や情熱はまさに縄文の血によるものだと言える。実際に棟方の家系がどうだったのかはわからないが、そうした縄文人の感性に感化されて育ったことには違いない。だからこそあの伸びやかで、大らかで、虚心な心持ちの作風が生まれたのではないか。

本展では「板画」や「倭画」などの作品以外に、本の装丁や挿絵、包装紙、浴衣の図案など、意外にたくさん手掛けていた商業デザインの仕事も展示されている。当時、棟方は人気作家だったにもかかわらず、頼まれた仕事をあまり断らなかったからだそうだ。いまもなお唯一無二の版画家であり続けるムナカタの魅力を再認識できる展覧会である。


展示風景 東京国立近代美術館


展示風景 東京国立近代美術館


展示風景 東京国立近代美術館



生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ:https://www.munakata-shiko2023.jp/


関連レビュー

棟方志功と柳宗悦|杉江あこ:artscapeレビュー(2018年03月01日号)

2023/11/03(金)(杉江あこ)

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「鹿児島陸 まいにち」展

会期:2023/10/07~2024/01/08

PLAY! MUSEUM[東京都]

鹿児島陸の名前や作品はメディアやプレスリリースなどを通してこれまで目にしたことはあったが、実物を見るのは初めてだった。皿や鉢の見込みいっぱいに描かれた愛らしい花や草木、動物たちを眺めていると、心がほんわりと和んでくる。毎日の暮らしに寄り添うようにと、本展は朝に始まり夜に終わるというユニークな趣旨から「あさごはん」「さんぽ」「おやすみなさい」など一日のシーンごとで構成されていた。おかげですっかり彼の作品に魅了されてしまった。

鹿児島の作品は、いわゆる日本の伝統工芸とは表現方法が異なる。技法の説明を読むと、素地にさまざまな色の顔料で下絵付けした後に線彫りを施し、図案のアウトラインを際立たせているのだという。そもそも下絵付けでこれほどカラフルに発色させられるのかという驚きもあったが、彼の作品を特徴付けているのは多分アウトラインの明瞭さだろう。これによってパッチワーク作品のような温かみを感じるのだ。しかも絵付けした後に線彫りする手順であるため、絵が線からわずかにはみ出ていたり足りなかったりする。そこにハンドメイドらしい伸びやかさを感じる。


展示風景「鹿児島睦 まいにち」展 PLAY! MUSEUM[撮影:植本一子]


こうした技法だけでなく、まるで童話の世界から飛び出したかのような愛嬌たっぷりの動物たちも魅力のひとつだ。本展で秀逸だったのは、児童文学作家の梨木香歩が鹿児島の作品を見て物語を書き下ろしたという絵本『蛇の棲む水たまり』の展示である。器と言葉で物語を観賞できるようになっていて、その世界観を十分に体験できた。陶芸家のなかには初めに物語を書いて、それに基づいて器を製作する人がいるが、逆の手順とはいえ、絵に物語を感じるというのも彼の作品の特徴なのだろう。


展示風景「鹿児島睦 まいにち」展 PLAY! MUSEUM[撮影:植本一子]


また陶芸以外に、鹿児島はほかの職人やメーカーに図案を提供して協働でプロダクトを製作することにも積極的だ。プロフィールを読んで、その理由がよくわかった。美術大学を卒業後、インテリアショップ2社に勤め、そこでビジネスとクリエイティブを結び付ける方法を学び、さらに大量の入荷商品を見ることで品質を見極める目を養ったのだという。独創的な作品づくりとビジネスを両輪で進める力に長けていることも彼の強みである。それはどの工芸作家やクリエイターにも、いまの時代、とても必要な力だと感じる。


展示風景「鹿児島睦 まいにち」展 PLAY! MUSEUM[撮影:植本一子]



鹿児島陸 まいにち:https://play2020.jp/article/makoto-kagoshima/

2023/11/03(金)(杉江あこ)

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