artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA

会期:2023/09/12~2023/11/26

三井記念美術館[東京都]

まさに超絶技巧! とにかく驚くべき工芸作品の数々が展示されていた。例えば一木造という一本の木材からスルメを彫り上げた、前原冬樹の作品《『一刻』スルメに茶碗》。干からびたスルメの質感や色、全身のうねりをリアルに表現しただけでなく、それを挟んで吊るしていたのだろうと想像が膨らむ、汚れて錆びたクリップとチェーンまでも再現していた。後からパーツを組み合わせたのではなく、すべて一本の木材でできているのだ。また立体木象嵌という独自の嵌め込み技法で、木材がもつ自然の色を組み合わせて美しいアゲハ蝶を生き生きと表現した、福田亨の作品《吸水》。アゲハ蝶が吸水している艶やかな水滴も、実はその台座と共に一木造で彫られたのだという。こうした木彫以外にも金属、陶磁、漆、ガラス、紙などの素材を使い、伝統技法をベースにしながら独自に培った方法で、さまざまな技巧や表現に挑んだ作家たちの工芸作品をたっぷり観ることができた。


前原冬樹《『一刻』スルメに茶碗》(2022)


日本の工芸では、皿や壺など、基本的に用を成す作品をつくる。それに対し、用を成さない抽象的なオブジェは現代美術の範疇となる。本展を観て気づいたのは、そのどちらでもない作品が多いということだ。オブジェではあるが、抽象的ではなく具象的。つまり見立ての作品である。前者も一目でスルメとわかる作品だが、本物のスルメではなく、木彫のスルメもどきである。しかも本物と見分けがつかないほど精巧にできている。後者も本物にしか見えない木彫のアゲハ蝶だ。ほかに鉄鍛金でカラスを、銀で梱包材のプチプチに包まれた箱を、漆工で工具箱やモンキーレンチ、ねじを表現するなど、暮らしに身近なものを題材に選び、異素材で見立てた作品が多く並んでいた。


福田亨《吸水》(部分/2022)


それは、なぜなのだろうか。日本には伝統的に見立ての文化があることは確かだが、それだけではないはずだ。おそらく用を成す作品にしないのは伝統工芸から離れたいからであり、かと言って抽象的なオブジェに振り切らないのは評価が分かれる分野だからではないか。超絶技巧をきわめる作家たちにとって、もっともアピールしたいのは自身の技巧や表現力だ。作品を通して多くの鑑賞者にすごいと思ってもらうには、判断基準が明確である方が容易い。そのため誰もがわかる身近なものを題材とすることで、技巧により焦点が当たるようにしたのではないか。そこに異素材ゆえのギャップがあればあるほど感嘆は大きい。現に私自身も、本展を観ながらすごいなぁと溜め息ばかり漏れていたのである。


本郷真也《Visible 01 境界》(2021)



超絶技巧、未来へ! 明治工芸とそのDNA :https://www.mitsui-museum.jp/exhibition/

2023/10/29(日)(杉江あこ)

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東京近郊の展覧会(会場構成、インスタレーションの側面から)

[東京都]

10月から11月にかけて、建築家による注目すべき会場構成やインスタレーションが重なった。

西澤徹夫の「偶然は用意のあるところに」展(TOTOギャラリー・間)では、彼が数多く手がける美術展の会場構成のうちのいくつかも紹介されていた。筆者はそれらをすべて訪れていたので、もう存在しない空間を思い出しながら、上から鑑賞する不思議な体験だった。また既存のモノに手を加えるプロジェクト(京セラ美術館の増改築や一連の会場構成)や共同設計(八戸美術館)が多いことに加え、建築家の個展としては希有なことに、現代アート作品(曽根裕など)も同じ空間に展示されるなど、さまざまなレベルで他者が介入している。そして二つずつ作品を並べる分類の方法と類似したキャプションの文章も興味深い。ギャラリー・間は、必ずキュレーターが存在する美術展とは違い、建築家がセルフ・キュレーションを行ない展示をつくり上げるという独自の文化をもつが、ここまで第三者のような手つきで自作を再構成した展覧会は初めてである。


「西澤徹夫 偶然は用意のあるところに」展示風景(TOTOギャラリー・間、上階)


「西澤徹夫 偶然は用意のあるところに」展示風景(TOTOギャラリー・間、下階)


これと同時期に近くで開催されていた「Material, or 」展(21_21 DESIGN SIGHT)は、もっとハイテク系の素材が多いかと思いきや、自然の教えにインスパイアされたような内容が多い。安藤忠雄の個性的な空間に対し、別の建築を重ねたような中村竜治の会場構成が印象的だった。おそらく、展示物のほとんどが床置きになることを踏まえ(実際、壁や台はほとんど使われていない)、既存の高い天井を感じさせないよう、低い壁を走らせたのではないか。


中村竜治が会場構成を手掛けた「Material, or 」展示風景(21_21 DESIGN SIGHT)


「第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界 “ただ、いま、ここ”」(資生堂ギャラリー)でも、空間に対して、中村は奇妙な介入を試みている。会場に入って何か違和感があると思ったら、彼が作品として制作した2本の柱が増えていた。筆者が企画した「ほそくて、ふくらんだ柱の群れ」展(OPEN FIELD)でも、中村は円柱をテーマとしていたが、資生堂ギャラリーでは、いわば展示空間を偽装する角柱であり、きわめて不穏である。ほかにも杉戸洋や目[mé]の作品は、空間の使い方がユニークだった。


「第八次椿会」展示風景(資生堂ギャラリー)


アートウィーク東京では、山田紗子による二つの空間構成を楽しむことができた。保坂健二朗のキュレーションによる「平衡世界 日本のアート、戦後から今日まで」展(大倉集古館)は、12のテーマによって日本の戦後美術を紹介するものだが、伊東忠太の強いクセがある空間に対し、いかに現代アートを馴染ませるかが課題となる。そこで山田は、装飾的な肘木や円柱に呼応するように丸みを帯びた造形の白い什器を設計していた。


山田紗子が空間設計を手掛けた「平衡世界」展示風景(大倉集古館)


彼女のもうひとつのプロジェクトは、大倉集古館とまったく違うデザインの「AWT BAR」である。ホワイトキューブにおいて、直径13ミリメートルの細いスチールバーが縦横無尽に踊る線となって出現していた。抽象的なインスタレーションのようだが、小さいホルダーによってアーティストが提案したオリジナル・カクテルが宙に浮く。


同じく山田による空間設計の「AWT BAR」


中村や西澤の師匠でもある青木淳の退任記念展「雲と息つぎ ─テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編─」(東京藝術大学大学美術館陳列館)は、青木の自作は一切展示されていない。大学の研究室メンバーや中村らも参加し、建築家として会場となった岡田信一郎の設計による陳列館(1929)を丁寧に読み込み、建築家としてそれといかに向き合うかという態度が示されたインスタレーションである。それゆえ、改めて陳列館そのものをじっくりと観察する機会になった。


「雲と息つぎ」展示風景(東京藝術大学大学美術館陳列館)


ちなみに、「仮設的なリノベーション」は、筆者が芸術監督を務めたあいちトリエンナーレ2013における名古屋市美術館で彼に依頼したテーマでもある。新築をつくるだけが建築家の仕事ではない。ここで取り上げた展覧会は、既存の空間に対して介入することも、高度に建築的なデザインになりうることを示唆するだろう。


西澤徹夫 偶然は用意のあるところに:https://jp.toto.com/gallerma/ex230914/index.htm
Material, or :https://www.2121designsight.jp/program/material/
第八次椿会 ツバキカイ 8 このあたらしい世界 “ただ、いま、ここ”:https://gallery.shiseido.com/jp/tsubaki-kai/
平衡世界 日本のアート、戦後から今日まで(アートウィーク東京):https://www.artweektokyo.com/focus/
AWT BAR(アートウィーク東京):https://www.artweektokyo.com/bar/
青木淳退任記念展 雲と息つぎ ─テンポラリーなリノベーションとしての展覧会 番外編─:https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2023/11/clouds-and-breaths.html

2023/10/27(金)〜11/30(木)(五十嵐太郎)

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後藤元洋「横断的表現行為ー東京綜合写真専門学校で学んだことー」

会期:2023/10/20~2023/10/28

Gallery Forest[神奈川県]

1958年、神奈川県生まれの後藤元洋は、東京綜合写真専門学校在学中の1980年代から、パフォーマンスと写真撮影を結びつけた「横断的表現行為」を続けてきた。今回、同校4FのGallery Forestで開催した個展では、イタリア人アーティストのジーン・ピゴッジの作品に触発されて制作したという、不特定多数の他者と肩を組み合ったセルフポートレート「Jean Piggoziに捧ぐ」(1980年)から、近作の、放射線防護のタイベック・スーツを身に纏った「絶対安全ーunder control」(2011年〜)まで、彼の代表的な作品が展示されていた。

特に興味深いのは、1990年から集中して制作された「ちくわ」を口に咥えたセルフポートレートのシリーズだろう。1989年に、スーパーマーケットで焼きちくわとの「運命的な出会い」を果たした後藤は、以後、おかしさとエロさとが微妙に交錯する「ちくわ」の連作を発表するようになっていった。同作は、彼の長身・痩躯の特異な風貌と、「ちくわ」のオブジェとしての奇妙なたたずまいとが絶妙にブレンドして、味わい深いシリーズとなった。さらに1993年からは、「竹輪乃木乃伊」(串刺しして乾燥した焼きちくわ)を、写真作品とともに5年ごとに「御開帳」するという儀式も続けている。

パフォーマンスの記録を写真作品として発表する作家は後藤以外にもいる。だが、彼の40年を超える作家活動は、その長さと揺るぎのない姿勢において、日本ではかなり例外的なものといえそうだ。まだまだ創作意欲は衰えていないようなので、この展示をひとつのきっかけとして、新たな表現領域を開拓していってほしいものだ。


後藤元洋展「横断的表現行為─東京綜合写真専門学校で学んだこと─」:https://gallery.tcp.ac.jp/goto/

関連レビュー

後藤元洋「竹輪之木乃伊御開帳」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年06月15日号)

2023/10/23(月)(飯沢耕太郎)

銀座の小さな春画展

会期:2023/10/21~2023/12/17

ギャラリーアートハウス[東京都]

春画をめぐる映画『春画先生』と『春の画 SHUNGA』が相次いで公開される記念として、シネスイッチ銀座の隣のギャラリーアートハウスで春画展が開かれている。点数は50点ほどと小規模だが(展示替えあり)、天和4(1684)年ごろから天保9(1838)年まで、つまり江戸時代のほぼ全期にわたる春画を集めている。

その最初期の杉村治兵衛による春画(欠題組物)は、まだモノクロームの簡素な線描画だが、描かれているのは少年の穴に一物を挿入する場面で、現代の芸能界を予言するかのようだ。かと思ったら、歌川国貞による《恋のやつふぢ》(1837)では、オス犬が後背位で女に挿入しているではないか。北斎の《喜能会之故真通》(1814)に至ってはタコが相手ですからね。もうフリーセックスにもほどがある。また、国貞の《吾妻源氏》(1837)には陰茎や内股を伝う愛汁まで描かれていたり、歌川派の《扇面男女図》(19世紀)には丸められたちり紙が男女の周りを囲んでいたり、生々しいったらありゃしない。

さすがと感心したのは、春画の代名詞ともいわれた歌麿。《絵本笑上戸》(1803)では、騎乗位で上にいる女が三味線を弾いていたり、後背位でつながった下の女が読書していたり、余裕を見せている。同じく歌麿の《願ひの糸ぐち》(1799)には、画面端に置いた丸鏡に女のつま先だけが映し出されていて、粋だねえ。歌川国虎の《センリキヤウ》(1824)は2点あって、1点には大きな屋敷のなかにいる数十人の男女を細かく描き、もう1点にはまぐわう男女のみを描いている。実は後者のまぐわう男女は前者の屋敷内の一部を拡大した図だというのだ。探してみたら、確かにあった。これはクイズのように遊んだんだろうか。まさか子供には見せなかっただろうね。

春画のおもしろさは、西洋絵画にはなかった線描によるデフォルメされた表現にあるだろう。遠近法も陰影もないから平面的で、しかも素っ裸ならまだしも柄のついた着物を着たまま下半身だけ露出して絡むから、いったいどこがどうつながっているのかわかりにくい。この春画における着物の存在は、やまと絵における槍霞と似て、難しい空間表現をバッサリ覆ってごまかす役割を果たしていたのではないかとにらんでいる。また、局部だけ拡大図のようにバカでかく描いているうえ、毛の1本1本まで彫り込むという異常さにも驚く。しかも毛は線的に彫るのではなく、毛以外の面を彫って線を残しているのだ。外国人もタマゲただろうなあ。


銀座の小さな春画展:https://artsticker.app/events/16073?utm_source=art_event&utm_medium&utm_campaign=web

関連記事

春の画 SHUNGA|村田真:artscapeレビュー(2023年10月01日号)

2023/10/20(金)(内覧会)(村田真)

君島彩子監修「万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?」/「陶の仏─近代常滑の陶彫」

会期:2023/08/05〜2023/12/25
髙島屋史料館[大阪府]

会期:2023/09/16〜2024/02/25
髙島屋史料館TOKYO[東京都]


宗教学者であり、アーティストの君島彩子が、東西の髙島屋史料館で同時に展覧会を監修していたので、両方の会場を訪れた。新宗教の建築を題材に博士論文を書いた筆者にとって、近代の宗教美術に注目した企画ゆえに、大きな関心を抱いた。また昨年の山形ビエンナーレ2022でも、大きな地図を用いて山形の地蔵調査を展示していた君島の作品が印象に残っている。


山形ビエンナーレ2022「現代山形考 ~藻が湖伝説~」での君島彩子による作品


山形ビエンナーレ2022「現代山形考 ~藻が湖伝説~」での君島彩子による作品


さて、大阪の髙島屋史料館で開催された「万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?」展は、万博において仏教がいかに表象されてきたかを辿るものだ。乃村工藝社蔵の資料などを活用し、詳細な年表とともに、両者の関係を網羅的に探求する、圧巻の内容である。もちろん筆者も、シカゴ万博(1893)における日本館など、東洋風のパビリオンを通じ、断片的に建築の事例は確認していたが、さすがに内部に展示されたモノまではほとんど知らず、また会場のほとんどが撮影禁止だったため、本展覧会の書籍化を強く希望したい。1970年の大阪万博においてFRPで複製された仏像が展示されていたことや、全日本仏教会が議論した挙げ句、無料休憩所の法輪閣を建てたこと、あるいはパビリオンや仏教展示の再利用なども興味深い。実際、この展示を見た翌週に奈良の元興寺を訪れたとき、目立たない場所にネパール館の窓が移植されていることを現地で確認した。前回の万博はアジア初の開催だったため、オリエンタリズムとしての仏教の紹介はなくなったが、はたして2025年の関西万博ではどのような仏教表象があるのだろうか? と考えさせられた。現時点では仏教的なものが展示されるという話はほとんど聞こえてこない。


「万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?」展示風景


大阪万博(1970)後、ネパール館の窓が移植された元興寺


「万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?」展示風景


「万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?」展示風景。ラオス館の木鐘


もうひとつの会場は、髙島屋史料館TOKYOにおける「陶の仏」展である。明治時代を迎え、西洋の彫刻技術が入ってくるかたわら、常滑で花開いた陶を素材とする仏像制作の近代史を掘り起こすという、きわめてユニークな視点の展示だった。また展示の後半は、常滑陶器学校で学んだ柴山清風に注目し、彼が手がけた千体観音のプロジェクト、戦時下の弾除け観音、巨大な陶像、戦後の仕事などを追う。そして百貨店の屋上では、大阪でも何点か展示していた万博に出品された陶製のベンチを22点設置し(座ることも可能)、二つの会場をつなぐ役割を果たす。

ところで、展示を鑑賞中、「従来の型にはまった仏像は素材や技術だけで、新しい形がないのは無意味な芸術だ」と、スタッフに長々と説教するおじさんの声が聞こえ、呆れかえった。ここは「美術館」でもないし、凄いアートを紹介するという主旨の展示でもないし、的外れの批判である。むしろ、型にはまった見方をずらすことが、企画の醍醐味だろう。また展示で紹介されていたものは単純に近代以前の仏像を模倣したわけでなく、西洋の彫刻技術の影響も入っているはずだ。


万博と仏教─オリエンタリズムか、それとも祈りか?:https://www.takashimaya.co.jp/shiryokan/exhibition/
陶の仏─近代常滑の陶彫:https://www.takashimaya.co.jp/shiryokan/tokyo/exhibition/

2023/10/20(金)、11/01(水)(五十嵐太郎)

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