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美術に関するレビュー/プレビュー

国立人類学博物館、フメックス美術館、ソウマヤ美術館

[メキシコ、メキシコシティ]

久しぶりぶりの海外旅行は初訪問のメキシコと、ついでに32年ぶりに寄るロサンゼルス(LA)。なぜメキシコかというと、まだ行ったことがなくて死ぬまでに訪れたい国のひとつだから。特に息子がメキシコを舞台にしたピクサーのアニメ「リメンバー・ミー」を見て気に入っていたし、ぼくも壁画運動に関心をもっていたし。今回は取材でも視察でもなく私的な家族旅行なので、見る場所も時間も限られていたためあまり深堀りはしていない。まあいつものことだが。

LA経由でメキシコシティに到着し、翌朝さっそく訪れたのが国立人類学博物館。噴水のある広い中庭を20を超す展示室が囲むメキシコ最大のミュージアムで、スペインに征服される16世紀以前の古代文明の遺物の多くが収められているという。ところが、入館しても館内マップがないので途方に暮れる。最近は紙ではなくネットで調べろということなのか。後でわかったことだが、メキシコのミュージアムはおおむねマップや展示情報などの紙媒体を用意していないのだ。仕方なく、片っ端から展示室を見ていく。

紀元前1200年ごろからメキシコ湾岸に興った、巨大な頭部だけの石像で知られるオルメカ文明をはじめ、現在のメキシコシティ近郊に栄えたテオティワカン文明、紀元前後にメキシコ南東部で盛衰を繰り返したマヤ文明、そして15世紀に中央高地で繁栄し、16世紀にはスペインに滅ぼされたアステカ文明などの石像、レリーフ、工芸品がうんざりするほど並んでいる。興味深いのは、これらの文明が時期的にも場所的にもあまり重なっておらず、線的に連続していないこと。その割に建築も彫刻も大雑把に見れば似たり寄ったりだし、モチーフもケツァルコアトルという鳥をはじめ、ジャガー、ヘビ、頭蓋骨とほぼ共通しているので、やはり文化的にはつながっていたのだろう。現在日本を巡回中の「古代メキシコ」展にもここから多くのコレクションが貸し出されているが、そんなことは微塵も感じさせないほど充実した展示だった。



国立人類学博物館中庭 [筆者撮影]



国立人類学博物館展示風景 [筆者撮影]


Uberで高級住宅地のヌエボポランコにあるフメックス美術館へ。ここは食品会社を経営する実業家が集めた現代美術コレクションを公開する私設の美術館で、ギザギザ屋根の建物はデイヴィッド・チッパーフィールドの設計。欧米の現代美術を中心に、3分の1くらいはメキシコのアーティストの作品を混ぜている。前庭には人工的に滝が流れているが、これはオラファー・エリアソンのインスタレーション。



フメックス美術館 手前はオラファー・エリアソンの作品 [筆者撮影]


その隣にはなんと形容したらいいのか、中央がすぼんだ銀色のスツールか金床みたいな建築が建っていて、これがソウマヤ美術館。実業家カルロス・スリムのコレクションを公開するために建てられたもので、ソウマヤとはカルロスの亡き妻の名前だそうだ。設計はメキシコの建築家フェルナンド・ロメロ。その外観とは裏腹に、展示は植民地時代から近代までのメキシコ美術および近世・近代のヨーロッパ美術と、オーソドックスな品揃えだ。両館とも裕福な実業家のコレクションを公開するもので、どちらも入場無料というのがありがたい。



ソウマヤ美術館 [筆者撮影]



ソウマヤ美術館 展示室 [筆者撮影]


国立人類学博物館(Museo Nacional de Antropología):https://www.mna.inah.gob.mx/
フメックス美術館(Museo Jumex):https://www.fundacionjumex.org/en
ソウマヤ美術館(Museo Soumaya):http://www.museosoumaya.org/

2023/12/19(火)(村田真)

上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす —菌類、植物、動物、人間

会期:2023/11/16~2024/01/08

東京都美術館[東京都]

面白い展覧会だった。出品作家は小林路子、辻永、内山春雄、今井壽惠、冨田美穂、阿部知暁の6名。それぞれジャンルは違うが、菌類、植物、動物、鳥などの生きものの姿を、細部まで緻密に写しとる作風のアーティストたちだ。小林路子の精密なきのこたちの博物画や、内山春雄の鳥たちの色彩やフォルムがリアルに再現されたバードカービングが代表的なのだが、どの作品にも単なる「うつし」ではない力が備わっているように感じた。

タイトルにある「いのち」をどう捉えるのかというのが眼目かもしれない。「いのち」は移ろいやすく、刻々とかたちを変えていくので、それを定着するのはむずかしい。むしろ、対象物に成り切る/憑依するようなプロセスが必要になるのかもしれないと感じた。例えば今井壽惠の馬の写真や、冨田美穂の牛、阿部知暁のゴリラの絵の場合、アーティストは対象と同化しつつ写真や絵の制作に没入しているように見える。「いのち」というレベルでは、菌類も植物も動物も、そして人間もまた、同じ生命循環のプロセスのなかに組み込まれているということだろう。

なお、隣接するギャラリーBでは、関連企画として「動物園にて──東京都コレクションを中心に」が開催されていた。こちらは上野動物園関係の資料を中心として、動物園という場所に関連する写真、絵画などの作品が展示されている。特に写真部門は充実していて、東京都写真美術館が収蔵する東松照明、長野重一、富山治夫、林隆喜、児玉房子らのプリントが出品されていた。「エピローグ」として展示された、酒航太の「ZOO ANIMALS」シリーズ21点も見応えがあった。ただ、「いのちをうつす」と「動物園にて」のパートとの相互的なつながりがうまく見えてこない。会場構成、リーフレットなどに少し工夫が必要だったのではないだろうか。


上野アーティストプロジェクト2023 いのちをうつす —菌類、植物、動物、人間:https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_uenoartistproject.html

2023/12/19(火)(飯沢耕太郎)

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梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ(1期)

会期:2023/12/01~2024/01/14

ワタリウム美術館[東京都]

既存の建築物を舞台に、バックヤードや屋上、裏階段などを順路に組み込み、通常とは異なる導線で建築の裏/表を巡るツアー・パフォーマンスという手法は、近年の梅田哲也の代表的スタイルである。美術館での初個展「梅田哲也 うたの起源」(2019-2020、福岡市美術館)で試みられたこの手法は、埼玉、高槻、京都と続き、老朽化などで役目を終えた建築物の記憶にも触れながら、音や光の仕掛け、空間の開閉によって建築物を有機的に再活性化させた。埼玉の旧区役所を舞台とした展示作品『O階』(2020)、閉館した高槻の劇場を巡る『9月0才』(2022)、元銀行を舞台とした『リバーウォーク』(2022)である。

現役の美術館を舞台にツアー形式で巡る本展では、「三角形の敷地」という空間の特異性を、「過去の記憶を再演する」という反復構造にうまく組み込み、忘れがたい経験をもたらした。ツアーは20分ごとにスタート。少人数の観客はガイド役のキャストに導かれ、4階の真っ暗な展示室からツアーが始まる。実験器具のようなガラス容器と蝋燭のついた棒が振り子のように揺れ、懐中電灯に照らされた影が壁に揺らぎ、ガラス容器に入れられた小さな粒が蝋燭に熱されて高く澄んだ音を立てる。音や光の仕掛けによって鑑賞者を日常から切り離し、感覚を研ぎ澄ませる静かなオープニングだ。



[撮影:後藤秀二]


その後、オフィスを通り抜け、3階の展示室へ。ガラス壁越しの吹き抜け空間には、工事現場のように足場が組まれ、美術館の建築計画のパネルを掲げるキャストが佇む。足場を下りた先は手すりの付いた台車になっており、汽笛の合図とともにキャストに押され、「船」となって「出航」する。「船」が大きなガラス窓に近づくと、窓が開けられ、建物正面が面する大通りの物音が流れ込んでくる。視覚よりも「音」で一気に感覚がひらける。そして道の向こう側の小さな三角形の空き地には、手を振る人たちが見える。



[撮影:後藤秀二]



[撮影:後藤秀二]



[撮影:後藤秀二]


その後、裏階段や暗室のような小部屋を通り抜け、横断歩道を渡って、先ほど見た三角形の空き地へ。組まれた足場に上ると、美術館正面の窓が開き、ひとつ後の回のツアー参加者たちを乗せた「船の出航」が見え、互いに手を振り合う。汽笛の音が聴こえた気もするが、車のクラクションだったのかもしれない。作為と偶然性、内側と外側、見る/見られる、鑑賞者/出演者、過去と現在の境目が溶け合い、「現在地」が一瞬宙に浮く。



[撮影:後藤秀二]


「時間差の構造により、鑑賞者が目撃した光景が、鑑賞者自身によって“再演”される」という手法は、高槻の元劇場での『9月0才』と共通する。高槻の場合は、初めは客席に座る観客として眺め、2度目は「舞台上の出演者」として反復される「カーテンコール」の仕掛けが、市民に長年愛された劇場へのリスペクトとなっていた。一方、本作では、「美術館の敷地と相似形を描く三角形の空き地」が鍵となる。建設現場のように空き地を囲う仮設壁には、美術館建設工事の前の更地の写真が用いられている。「記憶を再演する舞台」としての空き地が、「美術館が建つ前の更地」と重なり、二重に過去を反復する。また、古い写真、建築模型、美術館の前身のギャラリーの看板といった「建築物の記憶」を示す物品があちこちに仕掛けられ、「記憶を再演する舞台」への無言の案内人となる。

こうした時間差の反復と反転の構造は、さまざまなメタ的な仕掛けで示唆されている。4階の暗い部屋から3階の吹き抜け空間に移動後、ガラス越しのキャストがタイムラインについてマイクで語る台詞がある。「さっき、暗い部屋でお会いした私は、今から1分後の私です」「今ここで話しかけている私は、暗い部屋に入る1分前の私です」。また、オフィスで流れるインタビュー音声では、寺山修司の演劇作品『観客席』(1978年初演)についての思い出話が語られており、観客/出演者という区分に対する問いを予告する。

最も直接的な示唆が、ミヤギフトシの映像作品《The Ocean View Resort》(2013)から引用した個展タイトルである。同性の友人Yに淡い恋心を寄せる主人公と、戦争捕虜だったYの祖父と米兵。ベートーヴェンの楽曲を聴きながら交わされる2組の会話が、「wait this is my favorite part/待ってここ好きなとこなんだ」という同じ台詞で中断され、親密さと絶対的な隔たりが溶け合った沈黙のうちに、荘厳な音楽が繰り返される。「同じ主題を反復する」楽曲の構造とナラティブをリンクさせつつ、アメリカと日本、日本と沖縄、沖縄戦の記憶と寂れたリゾート地の現在、ホモセクシュアル男性/へテロ男性といったさまざまな差異や政治的な力学が重ねられる。

そうした記憶の残響/残像を、本作はパフォーマンスのレベルと美術館建築の物理的なレベルで共振させた。また、梅田のパフォーマンス作品は、常に舞台芸術に対するメタ批評を胚胎させているが、本作では音楽の反復構造への言及を通して、「タイムライン」という舞台作品の基底の可視化がさらに重なり合う。

こうした三層構造を鮮やかに示す点で秀逸だったが、個人的には一種の臨死体験に近かったことも興味深かった。私が体験したのは日没後の夕方だったこともあり、暗い空き地から道路を隔てた明るい室内を見ていると、死者の世界から(かつて自分のいた)対岸の生者の世界を見ているような感覚を覚えた。「船の出航」や、道路=川を渡るという仕掛けの作用もある。見知らぬ観客どうしが互いに手を振り合うが、見送っているのか、見送られているのか。死んだとき、顔は定かではないが、誰かが向こう岸で手を振って見送っているのだろうか。計算されたさまざまな反転とともに、生者と死者の世界も一瞬溶け合うような体験だった。

なお、本展は、内容を変えた「2期」が2024年1月16日〜28日に予定されている。


梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ:http://www.watarium.co.jp/jp/exhibition/202312/

関連レビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022 梅田哲也『リバーウォーク』|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年12月01日号)
高槻芸術時間「インタールード」 梅田哲也『9月0才』|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年10月15日号)
コレクション1 遠い場所/近い場所|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
梅田哲也 うたの起源|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)

2023/12/10(日)(高嶋慈)

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「現代ストレート写真」の系譜

会期:第一部:2023/12/06〜2023/12/24~ 第二部:2024/01/06〜2024/01/28

MEM[東京都]

「現代ストレート写真」という本展のタイトルに、やや違和感を感じる人もおられるのではないだろうか。今回の出品者は、潮田登久子、牛腸茂雄、佐治嘉隆、関口正夫、三浦和人の5名である。1960年代に桑沢デザイン研究所で学んだ彼らの作品については、「コンポラ写真」という枠組みで論じられることが多い。だが、1966年にアメリカ・ニューヨーク州ロチェスターで開催された「Contemporary Photographers: Toward a Social Landscape」展に起源を持つとされる「コンポラ写真」については温度差があったようだ。自分たちの写真を「コンポラ写真」としてひとつに括られたくないという思いが「現代ストレート写真」という言い方につながっていった。

桑沢デザイン研究所で彼らを指導していた大辻清司は、口絵ページの構成を担当した「写真 ●いま、ここに─」(『美術手帖』臨時増刊、1968年12月)で、「ストレート・フォトグラフィー」という言葉を用いている。報道写真や戦争写真を含むかなり広い意味で使われてはいるが、その章には「初心の写真」「記念と思い出」という項目もあり、大辻が「コンポラ写真」を定義した「カメラの機能を最も単純素朴な形」で使い、「写真の手練手管」を拒否して「日常ありふれた何げない事象」に向かうという写真のあり方を見ることができる。「現代ストレート写真」という言い方は、「コンポラ写真」のもっとも本質的な部分を体現したものともいえるだろう。

本展の出品作家たちの作品をあらためて見直すと、それぞれの個人的な問題意識を踏まえつつ、同時代の社会状況に「ストレート」に向き合っていこうという意欲を強く感じることができる。もともとデザインを学んでいたこともあり、被写体を切り取り配置する技術レベルも一様に高い。いわゆる「コンポラ写真」を、現時点でもう一度再構築していく第一歩にふさわしい展示になっていた。なお、本展の第一部では主に彼らの1960年代後半から70年代の写真が、第二部ではそれ以後の仕事がフォローされる。


「現代ストレート写真」の系譜:https://mem-inc.jp/2023/11/12/jsp_j/

2023/12/07(木)(飯沢耕太郎)

大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ

会期:2023/11/01~2023/12/25

国立新美術館[東京都]

夏に弘前れんが倉庫美術館で見た個展の巡回展だと思ってたら、まったく別物だというので見に行った。無料だし。作品はでかいインスタレーションが2点に映像やドローイングなど。最初の細長い部屋には花鳥紋の透かしの入った巨大な花瓶が置かれ、その内部を発光する装置が上下にゆっくりと動いていく。《Gravity and Grace》と題する作品で、花紋の影が両側の白い壁に映し出されてレース模様のように華やかだ。といいつつ、なにかしら不穏な空気を感じるのは、この花瓶の形態をもう少しずんぐりさせて末広がりにしたら、原子力発電所のかたちに近くなるからではないだろうか。その内部を放射状に光熱を発する装置が上下するところも原発と似ていなくもない。実際、大巻は原発事故に触発されてこれをつくったらしい。

原発からの連想で、今度は原子爆弾を思い出した。特にこの丸い膨らみは長崎に落とされたファットマンか。内部から強烈な光を発するところも似ている。爆心地では強烈な光によって人の影が建物の壁に残されたというが、次の部屋に展示された同作品を使ってのフォトグラムは、まさにそのことを表わしていないだろうか。花瓶には花鳥紋のほかサルからヒトへという進化のプロセスも彫られているが、よく見るとヒトからサルへという退化(?)も表わされていて、けっこう皮肉が効いている。



大巻伸嗣《Gravity and Grace》(2023)展示風景 [筆者撮影]


いちばん大きな部屋には、幅36メートルを超える薄いポリエステルの膜を水平に張り、下から風を送ってフワリフワリと浮かせる作品《Liminal Air Space - Time 真空のゆらぎ》(2023)を出している。これは原発との関連から、もはや大津波にしか見えない。どちらにも「いかにも」な効果音が入っているので、「いかにも」な気分になるのが難点か。せっかくの大作が音次第で安っぽく感じられるのだ。それにしてもこれだけの規模の個展を無料で見せるとは、国立新美術館も太っ腹だ。


大巻伸嗣 Interface of Being 真空のゆらぎ展: https://www.nact.jp/exhibition_special/2023/ohmaki/

2023/12/04(月)(村田真)

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