2019年10月15日号
次回11月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

美術の中のかたち─手で見る造形 八田豊展─流れに触れる

会期:2019/07/06~2019/11/10

兵庫県立美術館[兵庫県]

兵庫県立美術館のアニュアル企画「美術の中のかたち─手で見る造形」展は、視覚障碍者にも美術鑑賞の機会を提供することを目的として、作品に触って鑑賞できる展覧会で、1989年度より始められ、今年で30回目となる。八田豊(1930-)は、油彩画や金属板に幾何学模様を刻む作品を制作していたが、1980年代前半に視力が低下し始めたことを機に聴覚や触覚を使った制作へと移行し、90年代以降は地元の福井県越前市の名産品である和紙やその原料の楮(こうぞ)を使った平面作品「流れ」シリーズを制作し続けている。本展では、90年代半ば~2000年代にかけての「流れ」シリーズ計12点が展示された。



会場風景


シリーズ初期では、和紙になる前のドロドロとしたペースト状の白い楮が用いられ、支持体に貼り付けた八田の指や掌の跡が生々しく残る。メレンゲか白い泥の塊が指で激しくかき回され、そのまま凝固したようだ。一方、以降の作品では、通常は除去される外皮(鬼皮)をそのまま残した状態の素材が用いられ、指でその黒い表面に触るとゴツゴツと硬い。また、和紙を染めて、まるめて棒状にしたものを敷き詰めた作品の表面は、丸みを帯びた陰影の連なりがさざ波の立つ水面を思わせ、触ると柔らかみを帯びている。左右や上下に分割された画面それぞれに、楮の色や鬼皮の残り具合が異なる素材を用いた作品もあり、幾何学的抽象絵画で色域を変えるように、「触覚」によって画面構成がなされていたことが実際に触るとよく分かる。

これらの作品群は「流れ」と名付けられているが、壁に垂直に掛けられた平面作品として向き合うと、波立つ水面や茫漠と広がる大地といった連想以上に、地層の堆積や積層構造を強く想起した。「水面」「砂漠の大地」といった(直に触れられない)「イメージ」ではなく、触覚によって惹起された、ザラッとした手触りと物質感を備えた、半ば実体的な層構造。それは、繊維の束をひとつずつ手探りで支持体に貼り付けていった八田の手の痕跡の連なりであり、和紙の原料である楮の木が成長した時間を含み、さらには繊維加工文化がもつ歴史的な時間の層でもある。「流れ」を指で辿ることで、そうした複数の時間の層を肌で感じるとともに、視覚偏重の美術鑑賞体験への批判的契機ともなっていた。



会場風景


2019/08/12(月)(高嶋慈)

集めた!日本の前衛─山村德太郎の眼 山村コレクション展

会期:2019/08/03~2019/09/29

兵庫県立美術館[兵庫県]

兵庫県西宮市に在住していた企業家、山村德太郎(1926~1986)が収集し、1987年に兵庫県立美術館に一括収蔵された「山村コレクション」(68作家、167点)の全体像を紹介する企画展。1989年の同館でのお披露目展から約20年ぶりに、過去最大規模の約140点が展示された。「アブストラクトと人間くさい前衛のはざ間」という方針で収集されたコレクションは、戦後の抽象絵画から80年代のニュー・ウェイブにまで及び、とりわけ具体美術協会の作品群は質量ともに充実している。

ただし、本展の意義は単なる名品展にとどまらない。それは、関係者への聞き取りや文献資料から収集の経緯を読み解き、「推測される収集順に作品を配置する」というキュラトリアルな戦略によって、「コレクションの形成史」を可視化した点にある。グループや傾向ごと、制作年代順ではなく、「収集された順序を復元する」という考古学的な手続きや他律性の貫徹によって、逆説的に、歴史化・物語化する装置としての美術館へと自己言及的に折り返していた。

展示の冒頭を飾るのは、山村が戦後美術作品として初めて入手し、コレクションの出発点となった津高和一《母子像》。続く序盤は、同じ西宮市在住の津高と須田剋太、隣接する芦屋市在住の吉原治良の抽象絵画で構成され、地理的なアクセスが収集要因に作用していたことが分かる。続いて、当時、日本の前衛を扱う数少ない画廊だった東京画廊で斎藤義重の作品を購入したことを機に、元永定正、白髪一雄という他の「具体」作家を購入。また、同じく最先端の表現に出会える南画廊では、山口長男、オノサト・トシノブ、宇佐美圭司を購入し、パリに飛んで菅井汲、今井俊満を購入。さらに、菊畑茂久馬、荒川修作、高松次郎、篠原有司男など、60年代のネオ・ダダイズム・オルガナイザーズやハイレッド・センターも含めて収集対象が広がっていく。



会場風景


彫刻と大型の立体作品を挟んで、後半では、1983年にヨーロッパから買い戻した20点(うち「具体」作品 17点)が一堂に会して圧巻だ。吉原、元永、白髪の買い足しに加え、田中敦子、嶋本昭三、村上三郎、向井修二、正延正俊らの絵画作品が並ぶ。さらに、山崎つる子、上前智祐、鷲見康夫、前川強、松谷武判らの作品も加えられ、層の厚みが増していく。ここで先見的な試みとして重要なのは、コレクションの体系化の意識から、抜け落ちた「具体」初期の野外作品や現存しない一過性の作品をカバーすることが目指され、資料の整理と再制作を行なったことだ。当時、大阪大学院生であった尾﨑信一郎(現・鳥取県立博物館副館長)が雇用され、成果は1985年に国立国際美術館で開催された「一日研究会」で披露された。本展では、舞台で発表された白髪の《超現代三番叟》、鑑賞者がベルを鳴らす田中の《作品〈ベル〉》をはじめ、嶋本、村上、山崎らの再制作品とともに、記録写真や尾﨑によるレポート、マケットなど資料類も紹介された。



会場風景


展示数の多さや大作揃いであることから、展示スペースは通常の企画展示室を超えて、別棟へと拡大。また、「収集順」の構成であるため、同じ作家の作品であっても分散し、間欠泉的に何度も顔を出す場合もある(「具体」の作家群に加え、80年代に制作された斎藤義重の「複合体」シリーズ、高松次郎の抽象絵画、菊畑茂久馬の「天動説」シリーズは80年代ニュー・ウェイブの作品群と並置される)。作家や傾向ごとのグルーピングや単線的な歴史の「分かりやすさ」をあえて排することで、コレクション形成を通した歴史編成の力学が浮かび上がる。核となる作家からピンポイント的に出発し、体系化への意識や指針の明確化が次第に芽生え、横軸の厚み(「具体」の拡充)と縱軸の厚み(重点的な作家における時間的展開)を加え、再制作=再物質化とアーカイブの構想へ。そうした本展の構造は、「戦後前衛美術史」という単線的な物語を撹乱させることで、歴史=物語化を駆動させる力学それ自体を浮かび上がらせる。また、美術館活動の要のひとつであるコレクションにおいて「明確な指針軸を持つべき」という要請を自己反省的に突きつけていた。

2019/08/12(月)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00049820.json s 10156986

七菜乃 写真展「My Aesthetic Feeling 2019」

会期:2019/08/09~2019/08/25

神保町画廊[東京都]

2016年以来続いている 七菜乃の「集団ヌード」撮影の試みにも厚みが出てきた。2017年から年1回のペースで、「My Aesthetic Feeling」と題する個展を神保町画廊で開催してきたが、今回は『七菜乃写真作品集 My Aesthetic Feeling』(芸術新聞社)の刊行にあわせて、日本家屋で撮影された新作の2シリーズ、23点が出品されていた。

やなぎみわは、写真集の巻末の対談「自分が見たい美のために」で、七菜乃の「集団ヌード」は、「いい意味でちょっとゆるくて、解放感がある」と指摘している。SNSでモデルを募集し、手袋、ベール、白靴下といった最小限の小道具を使う以外は、なるべくリラックスした雰囲気で撮影するというやり方がとてもうまくいっていて、男性目線で商品化されがちな女性ヌードから、気持ちのよい「解放感」を引き出しているのだ。ひとりのモデルを撮影すると、どうしても性的な関係性を連想させがちになるが、「集団」ではそれが薄れて、むしろ体と体の絡み合い、重なり合いの多様なヴァリエーションが引き出されてくるのも興味深い。

今のところ、各セッションの「乗り」が適度に保たれていて、作品としての完成度も上がってきた。ただ、そろそろ撮影のパターンが固定してきているようにも見える。七菜乃はやなぎとの対談で、60歳代のモデルの人も「来てほしい」と語っているが、それはぜひ実現してほしい。異質な体の持ち主が入ってくると、だいぶ違った印象になるのではないだろうか。また、これまでは最大30人ほどのモデルを撮影してきたのだが、その数がもっと増えると、撮り方──撮られ方もかなり違ってきそうだ。モデルのコントロールがより難しくなることで、逆に思いがけない場面が出現してくるかもしれない。

2019/08/12(月)(飯沢耕太郎)

『小檜山賢二写真集 TOBIKERA』

発行所:クレヴィス

発行日:2019年7月19日

小檜山賢二の新作写真集も、デジタル化によって成立した表現の開花といえる。本業は通信システムの研究者である小檜山は、2000年以降、「焦点合成」という技法で昆虫を撮影してきた。昆虫の体の各部分にピントを合わせて撮影した画像を合成して、恐るべき精度の写真を作りあげていく。だが、今回はこれまで彼が発表してきた『象虫』(出版芸術社、2009)、『葉虫』(同、2011)、『兜虫』(同、2014)といった写真集とはやや趣が違う。昆虫たちのフォルムを、超絶的な画像で定着した旧作とは違って、『TOBIKERA』には昆虫の姿は写っていない。本書の主題は、蝶や蛾のような生きものであるトビケラの幼虫が、水中に作る巣なのである。

写真集のデザインを担当した佐藤卓が、「デザインのお手本」と題した解説の文章で書いているように、それらは「正に現代アートにしか見えない」。トビケラの幼虫は、自分の周囲にある葉や木片や石粒などを、体から分泌される粘着性の物質で接合し、精妙な構築物を作り上げる。小檜山はそれらを黒バックで小さな家のように撮影している。ひとつとして同じものがないその造形は奇跡としかいいようがない。ここでも「焦点合成」が駆使されているのだが、やや非現実的な効果を生みがちなその手法が、今回は被写体のあり方と無理なく結びついていた。

自然のなかに潜む「センス・オブ・ワンダー」を引き出してくる自然写真は、デジタル化によって大きく変わりつつある。これから先もさまざまな分野で、新たな視覚的世界が切り拓かれていくのではないだろうか。なお、本書に掲載された写真の一部は、佐藤卓がディレクションした「虫展—デザインのお手本—」(21_21 DESIGN SIGHT、7月19日〜11月4日)にも展示されている。

2019/08/10(土)(飯沢耕太郎)

シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート

会期:2019/08/10~2019/12/01

ポーラ美術館[神奈川県]

「モネ、セザンヌ、ピカソ──。巨匠たちと出会う現代アート」とのキャッチコピーが踊る同展は、ポーラ美術館が誇る近代美術コレクションと、現代の12組のアーティストの作品をセットで紹介する、いわば「近現代」のコラボレーションの試み。

最初のセレスト・ブルシエ・ムジュノは、モネの《睡蓮》の隣に円形の青い池をつくり、大小の白い皿を浮かべた。それだけでも睡蓮のように美しく涼しげだが、水を流動させて皿同士をぶつけることで、乾いた音を響かせている。ムジュノはもともと音楽家で、偶然性を取り入れたサウンド・インスタレーションを展開しているアーティスト。これはさわやか。渡辺豊はセザンヌ、ピカソ、藤田嗣治の作品イメージを断片化してキュビスム風に再構築していく。今回なぜか写真が多数を占めるなか、数少ない絵画であること、近代絵画に正面から向き合っていること、出品作品が50点以上とハンパないこと、それを9点の近代絵画に織り交ぜて壁いっぱいに展示していることで、本日のベスト。最後の部屋のオリヴァー・ビアは、10数点の東洋陶磁コレクションを台座の上に並べ、器にマイクを仕込んで反響音を増幅させ、音楽を生み出している。壷たちのオーケストラだ。音楽関連でマティスの《リュート》が掲げられているが、これはオマケみたいなもの。

屋外の遊歩道にも1点、スーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションがある。森の木の幹に設置された11個のスピーカーから、ラヴェル作曲「シェヘラザード」の「魔法の笛」におけるフルートの旋律を断片化した音が流れてくる仕掛け。対する近代美術は「印象派」となっているが、これは印象派の画家たちが屋外で制作したことに因んだ選択で、実際に作品が屋外に飾られているわけではない。

こうしてみると、音を使った作品に佳作が多いことに気づく。まあ美術館や森のなかで音を出せばつい聞き惚れてしまうので、ずるい気がしないでもないが。でもほかに写真の作品が5組ほどいたけど、その多くは自作の写真を近代絵画と組み合わせただけで、展示にあまり工夫が感じられない。それに比べれば、サウンド・インスタレーションのほうがはるかにイマジネーションに富んでいた。

2019/08/09(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00049885.json s 10156808

文字の大きさ