artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

第10回日展

会期:2023/11/03~2023/11/26

国立新美術館[東京都]

2013年、ぼくは東京藝大出身の2人とともに「落選展」をやろうと画策し、日展に応募して全員めでたく玉砕。その後、落選作を落選通知をつけて東京都美術館に展示した。やっぱり日展は「一見さんお断り」だったのね、と納得したら、その年日展の不正審査が発覚して大騒ぎになったのはいまだ記憶に新しい。美術界では「なにをいまさら」とみんな思ったが、翌年日展は改組されて第1回にリセット、今年めでたく10回を迎えたわけだ。入選作もさぞや変わっただろうと思って毎年見ているが、まさに十年一日のごとく。さすが日展、そうでなくちゃ。

いつものように日本画から見て行く。日本画で知ってる画家は、毎年問題作を出してくれる岩田壮平しかいない。今年も期待を裏切らず、《靉靆く》を出品。まずなんと読むのかわからない。調べてみたら靉靆は「アイタイ」と読み、雲が盛んな様子を意味するらしい。が、「靉靆く」と送り仮名がつくとなんだろう。作品は、赤系の花を描いた絵の上から黄色っぽい絵具をダラーッと垂れ流したような感じ。具象絵画と抽象表現主義の合体、というより、いまなら過激な環境保護団体による名画へのエコテロリズムを想起すべきか。いずれにせよ暴力的なイメージである。でもよくみると、絵具を垂れ流しているのではなく、そう見えるように描いているのがわかる。一種のだまし絵。額縁も絵にマッチしている。日展では絵画には額縁をつける規定があるため、みんなテキトーに安い額縁をつけるか、逆に絵よりも高そうな額縁をつけているが、岩田はこの絵に合わせて周到に選んでいるのがわかる。



岩田壮平《靉靆く》[筆者撮影]


今回、日本画・洋画を含めていい意味で記憶に残った作品は、これともう1点、洋画の景山秀郎による《秋の庭園》くらい。景山はどんな画家か、何歳か知らないが、「VOCA展」や「シェル美術賞展」に出ていてもおかしくないようないまどきの絵を描く。なんで日展なんかに出しているんだろう? 他人のことはいえないが。いずれにせよ、あとはどうでもいい作品ばかりだ。

だいたいロシアがウクライナに侵攻して1年半が過ぎ、最近はパレスチナで痛ましい戦禍が伝えられているというのに、それについてだれも触れていない。別に政治的・社会的テーマの作品を期待しているわけではないけれど、それにしても日本画・洋画合わせて千点以上も展示されていながら、いまの時代・社会を反映した作品が皆無に等しいというのはどういうことだろう。そういう作品は落とされるのか、それともそういう作家は初めから日展に応募しないのか。今年も10年前、100年前と同様、ノーテンキな風景画や人物画ばかりが並んでいる。


日展:https://nitten.or.jp

関連レビュー

改組 新 第7回日展|村田真:artscapeレビュー(2020年12月01日号)

2023/11/03(金・祝)(村田真)

見るまえに跳べ 日本の新進作家vol.20

会期:2023/10/27~2024/01/21

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

「見るまえに跳べ(Leap before you look)」というのはW.H.オーデンの詩のタイトル。大江健三郎が、1958年に刊行した短編集のタイトルに使ったのでよく知られるようになった。オーデンや大江健三郎の仕事と本展とのあいだに直接的な関連はなさそうだが、出品作家の作品世界とも、とてもうまく響き合っているように感じた。

熱量の大きな展覧会である。会場の入り口から淵上裕太、夢無子(むむこ)、山上新平、星玄人、うつゆみこと並ぶ展示のエネルギーの放射量はただならぬものがある。作風はバラバラだが、たしかにまず「見る/考える」前に、ともかくシャッターを切って被写体を掴みとるという姿勢は共通している。

淵上は上野界隈のやや不穏な空気感を漂わせる人物たちのスナップ、夢無子はウクライナを二度訪れて撮影した写真群を、日録的な文章とともにスライドショーで見せていた。山上は写真集『Epiphany』(bookshop M、2023)の収録作を中心に、何ものかの顕現を繊細に浮かび上がらせる。星は西成、新宿、横浜などの路上スナップに加えて、4×5インチ判のカメラで撮り下ろしたという西麻布のスナックを訪れた人たちのポートレートを出品。うつゆみこは近作の二人の娘をモデルに撮影した写真を含めて、まさに「Wunder Kammer(驚異の部屋)」(同名の写真集をふげん社から刊行)そのものというべき作品群を開陳していた。

コンセプトを丁寧にかたちにしていく営みも悪くはないが、ある意味行き当たりばったりの衝動に身を任せて「見るまえに跳ぶ」ところに、写真という表現メディアの大きな可能性があるのではないかと思う。そのことを、あらためて強く感じさせてくれた好企画だった。


見るまえに跳べ 日本の新進作家vol.20:https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4542.html

関連レビュー

うつゆみこ『Wunderkammer』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2023年11月15日号)

2023/11/02(木)(飯沢耕太郎)

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日本画の棲み家

会期:2023/11/02~2023/12/17

泉屋博古館東京[東京都]

明治期に西洋から展覧会という制度が導入されると、それまで座敷や床の間を「棲み家」とした日本の絵画は新居の展覧会場へと引っ越していく(当初は美術館も画廊もなく仮設会場だった)。それに伴って画家たちは作品のサイズを大きくし、色彩を濃くして会場で目立つようにしていく。こうした不特定多数の観客が非日常的な空間で鑑賞する作品を「展覧会芸術」と呼ぶ。この展覧会芸術が主流になると、反動で日本の絵画はやはり座敷や床の間で見るものであり、そうした場所にふさわしい日本画を描くべきだという意見も出てくる。これが「床の間芸術」だ。総じて展覧会芸術が濃彩で勇壮な大作が多いのに対し、床の間芸術は吉祥的な内容の柔和で上品な小品が多いという特徴がある。

同展では、かつて住友家の邸宅を飾った「床の間芸術」としての日本画を紹介するもの。橋本雅邦《春秋山水図》(1898)、平福百穂《震威八荒図》(1916)、竹内栖鳳《禁城松翠》(1928)、岸田劉生《四時競甘》(1926)などが屏風や掛け軸として並ぶ。絵の手前には初代宮川香山らの花瓶を置いて、座敷や床の間の風情を醸し出そうとしているのだが、いかんせん美術館の展示室なので(しかもリニューアルしたばかりで新しい)、どうしたって「展覧会芸術」になってしまう。外から虫の音が聞こえてくるわけでもなければ、そこでお茶が飲めるわけでもなく、寝そべって鑑賞できるわけでもないのだ。ま、美術館もそこまでやるつもりはないだろうけど。

おもしろいのは、第3章の「『床の間芸術』を考える」。現代の若手日本画家6人に床の間芸術を制作してもらう試みだ。小林明日香は、ネットで購入したシンプルなパーティションにドローイングや写真をコラージュして張り、裏に日記を貼りつけている。形式としては三曲屏風だが、見た目は現代美術。水津達大は展覧会芸術を象徴するガラスの展示ケースを避け、蝋燭の揺らぎを再現した照明で自作を照らし出した。どうせなら本物の蝋燭を使い、絵の前に畳を敷いて座って鑑賞できればもっとよかったのに。ま、美術館はそこまでやらせることはないだろうけど。

この展示、試みとしては評価したいが、6人とも30代前後の同世代で、しかも4人が東京藝大の日本画科出身と偏っているのが残念。やるんだったら日本画家だけでなく現代美術家にも参加してもらえば、とんでもない発想の床の間芸術が実現したかもしれないと思う。たとえば諏訪直樹(故人)とか、会田誠とか、福田美蘭とか。ま、美術館もそこまでやるつもりはないだろうけど。


日本画の棲み家:https://sen-oku.or.jp/program/20231102_thehabitatsofnihonga

2023/11/01(水)(内覧会)(村田真)

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石川真生「私に何ができるか」

会期:2023/10/13~2023/12/24

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

1953年に沖縄県大宜味村に生まれ、1970年代から沖縄の社会的現実に肉薄する写真を発表し続けてきた石川真生の、東京では初めての本格的な個展である。

会場の写真はくっきりと二つに分かれているように見える。前半部には「赤花 アカバナー 沖縄の女」(1975-1977)、「沖縄芝居―仲田幸子一行物語」(1977-1992)、「沖縄芝居―名優たち」(1989-1992)、「港町エレジー」(1983-1986)、「Life in Philly」(1986)、「沖縄と自衛隊」(1991-1995、2003~)、「基地を取り巻く人々」(1989~)、「私の家族」(2001-2005)と、沖縄を舞台として、文字通り体を張ったドキュメンタリー作品が並ぶ。後半部には、「日の丸を視る目」(1993-2011)、「森花―夢の世界」(2012-2013)といった演出的なパフォーマンスの記録を挟んで、2014年から続けている大作「大琉球写真絵巻」のシリーズが並んでいた。

前半部の、スナップ写真の偶発性を取り込んだドキュメンタリーは、石川以外の誰にも成しえなかった凄みのある写真群といえる。あくまでもプライヴェートな視点にこだわりながら、時にユーモアさえ感じさせる自在なカメラワークで、沖縄の半世紀に及ぶ歴史と時間の厚みを浮かび上がらせていく。だが、後半部分の「大琉球写真絵巻」については、やや割り切れない気持ちが残った。沖縄の過酷な社会状況に対して、多くの人たちとの共同作業を通じて「私に何ができるか」という真摯な問いかけを投げかけていこうという意図は強く伝わるのだが、写真の発するメッセージが直裁的すぎて、イデオロギーのイラストレーションに見えかねないところがあった。

とはいえ、石川が苦闘しつつ編み出していった、演出的な写真とスナップ的な写真の共存という方向性は、さらなる可能性を孕んでいる。ぜひ、より若い世代の沖縄の写真家たちに受け継いでいってもらいたいものだ。


石川真生「私に何ができるか」:https://www.operacity.jp/ag/exh267/

2023/11/01(水)(飯沢耕太郎)

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遠藤励「MIAGGOORTOQ」

会期:2023/10/27~2023/11/05

AL TOKYO[東京都]

遠藤励(つとむ)は1978年、長野県大町市に生まれ、現在も同市に在住する写真家。1990年代からスノーボードの世界に深く関わり、その写真を撮影するようになった。スノーボーダーのライフスタイルや、彼らを取り巻く自然環境が主なテーマだったのだが、2000年代以降、雪質の変化などに地球温暖化の影響を強く感じざるをえなくなったという。同時期に、スノーボーダーたちを「部族」と捉える観点から、北極地方の人々の暮らしにも関心を深め、近年はグリーンランドを何度も訪れるようになった。そこに生きるイヌイットの人たちの暮らしのあり方、生態系、民俗・文化に及ぼす気候変動の影響などを捉えた写真群を集成したのが今回の個展である。タイトルの「MIAGGOORTOQ」(ミアゴート)というのは「犬の遠吠え」を意味する現地語だという。

会場には、氷に覆われたグリーンランドの風景、イヌイットの人たちのポートレート、イッカク猟などの写真とともに、彼らの道具、装身具、毛皮などの実物が並び、現地で録音した音声が流れていた。遠藤がそこで見たもの、経験した事柄を、できるだけ立体的に体感してもらおうという意図が伝わってきた。写真の質も極めて高い。動きの大きいスノーボードを撮影してきた経験が、ダイナミックな構図と瞬間撮影に活かされ、北の風土の光と空気感が繊細に捉えられている。被写体への向き合い方も自然体で、彼らへのリスペクトを感じさせるものになっていた。

ただ、会場の構成も展覧会のカタログとして刊行された同名の写真集も、文字情報を極力抑えているように見えることがやや気になった。一枚一枚の写真にもう少し丁寧なキャプションをつけ、遠藤が現地で感じた心の動きなども記したほうが、観客とのコミュニケーションという点ではよかったのではないかと思う。仲間内だけではなく、彼の写真を初めて見る人にもその意図がしっかり伝わる構成にしてほしかった。今後は、文字情報を中心にした冊子の刊行なども考えられるのではないだろうか。


遠藤励「MIAGGOORTOQ」:https://al-tokyo.jp/news/miaggoortoq/

2023/10/30(月)(飯沢耕太郎)