artscapeレビュー

倉敷安耶「あなたの髪のひとつ(だった)」

2023年12月15日号

会期:2023/10/27~2023/11/12

haku[京都府]

男性中心主義的な視線によって付けられてきた傷を、表象のレベルと物質的なメディウムのレベルの双方においてどう回復し、ケアすることができるか。東西の宗教や美術史とジェンダーの関係を問い直し、ジェンダー化されたケア役割を、シスターフッド的な関係性として戦略的にどう反転させることが可能か。本展はこうした実践に貫かれている。そのために倉敷安耶が用いるのが、デジタルコラージュと転写という2つの技法/操作だ。

本展で倉敷がモチーフとするのは、マグダラのマリアと小野小町。「髪」を共通項とし、キリスト教と仏教の教義や死生観を描いた絵画において、「宗教」「道徳」を口実に、男性の性的な視線の対象物として表象されてきた2人の女性像である。マグダラのマリアは、磔刑に処されたイエスの遺体に香油を塗るために墓を訪れ、イエスの復活に最初に立ち会った人物とされる。キリスト教の教義の体系化の過程で、「罪深い女」(イエスの足を涙で濡らし、自身の髪の毛でぬぐい、接吻して高価な香油を塗り、イエスに罪を赦された娼婦)と同一視された。そのため、西洋古典絵画では、「洞窟に隠遁し、自身の罪を悔いる元娼婦」という図像で描かれることが多い。だが「隠遁した聖者」であるにもかかわらず、「胸や肩をはだけ、白い肌を露にし、恍惚の表情を浮かべる若く美しい女」として描かれてきた。「洞窟」という閉鎖空間もまた、覗き見的な消費の視線を示唆する。

一方、小野小町は伝説的な絶世の美女とされるが、晩年は容貌が衰え、野ざらしになって死んだとされ、「九相図」のモデルとして描かれた。「九相図」とは、「どんな美女でも死ねば肉体は朽ち果て、骨と化す」という無常観や肉体の不浄さを、肉体の腐敗の9段階に分けて描写した仏教絵画である。若い女性の死体が徐々に腐敗し、ガスで膨らみ、体液が流れ出し、ウジがわき、鳥獣に食い荒らされ、骨だけになる。煩悩を払い、肉体の不浄さや無常さを説く絵画だが、なぜ女性の身体だけが「不浄」とされるのか。そこには同時に、「美女の死体」を視姦するポルノグラフィックな欲望もあるのではないか。



倉敷安耶 ドローイング《発酵の九相図》(2023)水彩用紙、アクリルメディウム転写、ワイン[撮影:久保田智広]


倉敷は、引用画像のコラージュによって、マグダラのマリアと小野小町を同一平面上で出会わせる。《祝福と喪葬のための香油塗り》では、西洋古典絵画に描かれたマグダラのマリアと、絵巻物や日本画から引用された小野小町が、互いに香油をかけ合う。それは祝福を表わすと同時に、弔いの行為としてのケアでもある。《九相図》で引用されたのは左右2人の人物ともマグダラのマリアだが、裸体で横たわる右側のマリアは髪を黒に、かつ長く加筆され、野ざらしの死体となった小野小町のようにも見える。この2つの引用画像はエロティックな欲望が顕著な例であり、左側のマリア(ピーテル・パウル・ルーベンス)は肩と胸元を大きくはだけ、右側のマリア(19世紀フランスの官展画家ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル)は全裸でなまめかしいポーズをとり、あからさまにポルノグラフィックな図像だ。



倉敷安耶《祝福と喪葬のための香油塗り》(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]




倉敷安耶《九相図》(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]


だが、倉敷の作品では、ひざまずいたマグダラのマリアが接吻して香油を塗るのはイエスの足ではなく、小野小町/マリア自身である。イエスの遺体を清めて弔うというケア役割は、(男性ばかりの12使徒ではなく)マグダラのマリアすなわち女性の役割としてジェンダー化されつつ、男性の性的視線の対象物として表象されてきた。倉敷は、「男性をケアする」という奉仕的役割を、女性どうしが互いをケアし合うものとして、シスターフッド的に反転させる。

そして、男性の視線によって一方的に表象・消費されてきた「傷」をまさに可視化するのが、転写による画面のテクスチャである。ボロボロになった皮膚のように表面が剥がれ、こすれ落ち、亀裂が走り、穴のあいた傷口から支持体の内部が露出する。倉敷は、通常は下絵として用いられる転写技法をあえてそのまま見せることで、イメージに物質的な層をまとわせ、文字通り受肉させる。本展出品作では「メディウム転写」の技法が用いられている。転写したいイメージを紙にインクで印刷し、アクリルメディウム樹脂を塗った支持体の表面にその紙を貼り付け、乾燥させてインクが定着した後に、水で濡らして紙の部分をこそぎ落として転写させる。その際に生じる亀裂やスクラッチを、倉敷は積極的に表現技法として活用している。



倉敷安耶《九相図》(部分)(2023)木枠、ウール生地、アクリルメディウム転写、油彩、糸[撮影:久保田智広]


「視線」の暴力性は、性的な視線はもちろん、好奇や侮蔑の視線を向けられた相手を「物理的には傷つけない」ことによって巧妙に覆い隠されている。だが目に見えなくとも、そこに確かに傷は存在する。マグダラのマリアや小野小町の九相図の絵画に向けられ続けてきた性的な視線が、もし本当に物理的に画面を暴力的に貫いたら、このようにボロボロに傷ついていたのではないか。倉敷は、歴史的絵画が何百年も視線の暴力に晒され続けてきた傷を可視化・物質化したうえで、「その痛みをケアし合う」シスターフッド的な関係性を描くことで、表象のレベルにおいて傷の回復を試みる。そして物理的なレベルでは、「画面の傷」を実際に糸で縫い合わせて「修復」を施す。倉敷の絵画は、痛みの可視化であるとともに、そうした二重のケアと修復の行為なのだ。



[撮影:久保田智広]


2023/11/05(日)(高嶋慈)

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