artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
第8回 ゼラチンシルバーセッション
会期:2015/04/25~2015/05/09
アクシスギャラリー[東京都]
2006年に広川泰士、藤井保、平間至、瀧本幹也の4人の写真家が、それぞれのネガを交換してプリントするというコンセプトで開始したのが、「ゼラチンシルバープリント」展。デジタル化の進行によって、フィルムと印画紙を使用する銀塩写真のあり方を問い直さざるを得なくなったのがちょうどその頃であり、以後毎年コンセプトを少しずつ変えながら、「ゼラチンシルバープリント」へのこだわりを表明し続けてきた。正直、ややマンネリになっているのではないかと感じる年もあったのだが、今回は二人の写真家が共通のテーマで競作するというアイディアを打ち出し、新たな可能性を感じさせる展示になっていたと思う。
出品者は石塚元太良×水越武、市橋織江×瀧本幹也、井津由美子×辻沙織、薄井一議×勝倉峻太、ブルース・オズボーン×蓮井幹生、小林紀晴×村越としや、小林伸一郎×中道淳、嶋田篤人×三好耕三、鋤田正義×宮原夢画、瀬尾浩司×泊昭雄、百々新×広川智基、百々俊二×広川泰士、中野正貴×本城直季、中藤毅彦×ハービー・山口、西野壮平×若木信吾、平間至×森本美絵、藤井保×渡邊博史の34名(17組)。ジャンルはかなり多様だが、力のある写真家たちが多く、ありそうであまりない取り合わせのセッションを楽しむことができた。この試みは、出品者を固定せずにしばらく続けていくと、さらに豊かな成果が期待できそうだ。
今回は「特別ゲスト展示」として、モノクロームの端正な風景写真で知られるマイケル・ケンナの作品も出品され、一般参加の「GSS Photo Award」の公開審査(4月29日)も開催されるなど、「ゼラチンシルバープリント」の魅力を、さまざまな形で伝えようとする参加者たちの強い意欲が伝わってきた。むろん、デジタル化の波を押しとどめることは不可能だろうが、出品者たちが異口同音に語っていたように、「選択肢の一つ」としての銀塩写真は、フィルムや印画紙の物理的な供給を含めて、なんとかキープしていってほしいものだ。
2015/04/24(金)(飯沢耕太郎)
荒木経惟写真展「男─アラーキーの裸の顔男─」
会期:2015/04/24~2015/05/06
表参道ヒルズ スペース オー[東京都]
月刊誌『ダ・ヴィンチ』の巻頭を飾る「アラーキーの裸の顔」の連載が200回を超え、それを記念して展覧会が開催された。1997年2月25日撮影の「ビートたけし」から2014年12月19日撮影の「北野武」まで、17年間、210人の「裸の顔」が並ぶと、圧巻としかいいようがない。連載開始から16年以上が過ぎ、750人以上を撮影したという『週刊大衆』掲載の「人妻エロス」のシリーズもそうなのだが、荒木の仕事の中に、文字通り「ライフワーク」といえそうな厚みを持つものが増えてきている。
荒木はいうまでもなく、森羅万象を相手にして撮り続けてきた写真家だが、「男」を被写体とする時には、普段とはやや違ったエネルギーの出し方をしているように感じる。いつものサービス精神は影を潜め、ひたすら「裸の顔」に向き合うことに全精力を傾けているのだ。結果として、このシリーズは尋常ではないテンションの高さを感じさせるものになった。それをより強く引き出す役目を果たしているのが、モノクロームの銀塩バライタ紙によるプリントだろう(プリント制作は写真弘社)。今回は、雑誌の入稿原稿を、そのままフレームに入れずに展示することで、荒木の撮影の場面に直接立ち会っているような臨場感を感じることができた。モデルの中には「五代目中村勘九郎」「忌野清志郎」「大野一雄」「久世光彦」のように、既に鬼籍に入った人も含まれている。荒木がまさに彼らの生と死を丸ごと写真におさめようともがいていることがよく伝わってきた。
このシリーズ、いつまで続くのかはわからないが、オープニングに登場した荒木の元気さを見ると、まだしばらくは「裸の顔」を直に目にする愉しみを味わうことができそうだ。
2015/04/23(木)(飯沢耕太郎)
守屋友樹「gone the mountain / turn up the stone: 消えた山、現れた石」
会期:2015/04/14~2015/04/26
Gallery PARC[京都府]
マッターホルンの山の写真を出発点に、複数の写真や立体の空間的配置の中で、「山」をめぐるイメージが連鎖的に反応し、意味の獲得と喪失を繰り返しながら、記憶と認識のズレについて問いかける。岩石を写したと思しき写真は、山の部分が切り抜かれた写真を見た後で目にすると、切り抜かれた山の形なのかただの石ころなのか判然とせず、意味の曖昧な領域へと漂い始める。小高く盛り上がった雪面を写した写真は、山の形が切り抜かれた写真の白い空白と響き合う。くしゃくしゃにした紙切れの写真は山の稜線をなぞり、脱ぎ捨てられた衣服の写真もまた、峡谷のイメージへと錯覚を誘う。逆さまに掛けられた山岳写真の中の輪郭線は、ネオン管のラインへと置き換えられ、白々しく空間を照らし出す。イメージの目まぐるしい転移、反復、連鎖の中で、「マッターホルン」という固有名は失われていく。
このようにして、守屋友樹は、写真イメージのもつ多義性と戯れ、かつ三次元のモノへと展開し、イメージ同士が干渉し合う磁場を作り上げることで、自由な連想の遊戯へ誘うと同時に、記憶と認識の危うさを突きつける。それはまた、写真は複数の意味を多義的に呼び込める場であるからこそ、逆説的に、写真それ自体は次々と意味を充填されることを待ちかまえる空白に他ならないことを暴き出している。
2015/04/22(水)(高嶋慈)
尾仲浩二「海町」
会期:2015/04/17~2015/05/30
ツァイト・フォト・サロン[東京都]
「海町」は尾仲浩二が1990年代に八戸、宮古、釜石、陸前高田、気仙沼、石巻、塩竈、小名浜など、東北地方の太平洋岸を旅して撮影した写真をまとめたシリーズ。既に2011年にSUPER LABOから写真集として刊行されているが、あらためてプリントの形で展示された35点を見て、思いを新たにした。尾仲にとっても、重要なシリーズとして位置づけられていくのではないだろうか。
写真が撮影された1991~97年頃は、尾仲が最初の写真集『背高あわだち草』(蒼穹舎、1991年)と二番目の写真集『遠い町・DISTANCE』(mole、1996年)を刊行し、自分の写真撮影のスタイルを確立しようともがいていた時期だ。日本各地に旅を続け、目についた被写体にカメラを向け、シャッターを切っては次の場所に向かう。そんな「旅と移動の日々」の中から、一見さりげなく、穏やかに見えて、記憶に食い入るような強い喚起力を備えたスナップショットが生み出されていくことになる。この「海町」を見ても、写真に写っている街並にまつわりつく湿度や空気感が、皮膚にじわじわと浸透してくるように感じられた。
だが、このシリーズを見ていてどうしても強く意識してしまうのは、ここに写されている港町の景色が、今はほとんど失われてしまっているということだ。いうまでもなく、東日本大震災後の大津波によって、これらの街々は大きな被害を受けた。灯りがついたばかりの黄昏時の「呑ん兵衛横町」も、古い写真館も、「まや食堂」も、「スナックロマン」も、「大衆食堂ラッキーパーラー」も、おそらくもう残っていないだろう。それが尾仲の写真の中にそのままの姿で息づいていることに、あらためて大きな衝撃を受けた。「それはもう僕だけの旅の思い出だけではなくなっていることに気づいたのです」と、尾仲は写真展に寄せたテキストに記しているが、その感慨は彼だけではなく、写真を見るわれわれ一人ひとりが共有できるものになりつつあるように思える。
2015/04/22(水)(飯沢耕太郎)
佐藤雅晴「1×1=1」
会期:2015/04/18~2015/05/23
imura art gallery[京都府]
椅子に座ってショートケーキを食べる双子の姉妹、同じ姉妹の立ち姿、2個のショートケーキなど、2人(つ)尽くしの作品が並んでいる。それらは写真画像を元にコンピューター上で描いた絵画をプリントしたものだ。1人(つ)のモデルをダブルにしたのは違和感の演出であろう。作品のディテールを凝視すると、それが絵画だと分かる部分もある。しかし説明を受けなければ、多くの人が写真だと思い込むに違いない。この写真ともCGとも絵画とも言い切れないビジュアルの薄気味悪さは何だろう。来るべき世界を先取りしているから? 美しい外見とは裏腹に、モヤモヤが募る作品であった。なお本展には、漫画のコマ割りを流用したマルチ画面の映像作品もあった。画面に映る時計の時刻から、東日本大震災に言及したものと思われる。
2015/04/21(火)(小吹隆文)