artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
「月映」展──田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎 TSUKUHAE
会期:2015/04/17~2015/05/31
愛知県美術館[愛知県]
愛知県美術館の企画展は、田中恭吉、恩地孝四郎、藤森静雄が1914年に創刊した木版画の小さな雑誌『月映(つくはえ)』を紹介する。同時代の海外の影響も感じられるが、当時彼らはまだ20代半ばの青年だった。田中は1915年に病いで亡くなるのだが、彼らは死と隣合わせに制作を行ない、大正ロマンの想像力を羽ばたかせながら、文学者とも深く交流した。藤森の絵は暗く、恩地がもっともデザイン的な構図である。
2015/04/30(木)(五十嵐太郎)
山崎弘義「DIARY 母と庭の肖像」
会期:2015/04/28~2015/05/04
新宿ニコンサロン[東京都]
大隅書店から刊行された同名の写真集に目を通していて、山崎弘義の「DIARY 母と庭の肖像」については、ある程度理解しているように思っていた。だが、作品27点(うち5点は大伸ばし)による新宿ニコンサロンでの展示を見て、違う景色が見えてきたように感じた。
一つは、認知症の母親のポートレイトとカップリングされた庭の片隅を撮影した写真についてである。どうしても、母親の方に目が行きがちなのだが、「日記」として同じ日に撮影された「庭の肖像」の方もなかなか味わい深い写真群であることが見えてきた。母親の顔つきや身体の変化と呼応するように、庭もまた姿を変えていく。秋から冬へ、そして春が巡ってくるとともに、植物たちも枯れてはまた芽吹く。よく見ると、草木の生え方も、前の年とはかなり様相が変わっていることに気がつく。つまり、自然という「もう一つの時計」がこの作品には組み込まれているわけで、そのことが重要な意味を持っていることがよくわかった。
もう一つは、写真に付されたキャプションが、作品全体に柔らかなふくらみを与えているということだ。むろん介護の過程の描写は、切実に身につまされるものが多いのだが、そこにほんのりとしたユーモアを感じることがある。「(母親が)盛んに服を脱ごうとする。脱ぐ...。私「やめろ」。脱ぐ...。私「やめろ」。脱ぐ...。私「やめろ」」(2002年2月27日)という件を読んで、思わず笑いがこみ上げてきた。言葉と写真との呼吸が、絶妙としかいいようがない。
写真集が刊行され、写真展が開催されて、このシリーズも一区切りという所だろう。それでもこれで終わりというのではなく、また別の形で続いていきそうな気がしてきた。写真の大きさ、出品(掲載)点数なども、まだ確定する必要はないと思うし、その後に撮影された写真とのコラボレーションも充分に考えられそうだ。むろん「DIARY──母と庭の肖像──」以後の新作にも期待したいが、山崎にとって、このシリーズは今後の写真家としての活動の基点になっていくのではないだろうか。
2015/04/30(木)(飯沢耕太郎)
資本空間 Vol.1 豊嶋康子
会期:2015/04/11~2015/05/16
ギャラリーαM[東京都]
壁や柱にパネルが20数点、ちょっと角度をもたせて掛けてある。タイム&スタイルで見たのと同じで、表面はまっさらなベニヤ板だが、裏面をのぞくと角材が縦横斜めに組まれている。この組み方になにか意味があるのか、あるいはだれかのパロディなのかと考えてしまったが、とくになにもないみたい。情報量でいえばフラットな表より複雑に入り組んだ裏のほうがはるかに多いので、表より裏側をしげしげとのぞき見ることになり、ほんの少し後ろめたさを感じたりもする。もう、いけずな作品。
2015/04/28(火)(村田真)
鳥獣戯画──京都 高山寺の至宝
会期:2015/04/28~2015/06/07
東京国立博物館 平成館[東京都]
待望の「鳥獣戯画展」だが、前半は絵巻を所有する高山寺のコレクションや明恵上人にまつわる作品を延々と紹介。後半いよいよ鳥獣戯画の登場かと思いきや、まずは《華厳宗祖師絵伝》から。いやこれも国宝だけあってなかなか見ごたえのある絵巻だ。新羅の義湘と元暁は仏法を学ぶため唐に向かい、長安で義湘は善妙という娘に一目惚れされる。義湘の帰国を知った善妙は海に身を投げて龍に変身、義湘を乗せた船を荒波から守るという、ちょっとうれしいような迷惑なようなストーカーまがいのストーリーだが、見どころはなんといっても荒波のなか稲妻を放ちながら進む龍の姿。この「義湘絵」は前期のみで、後期は「元暁絵」の出品という。で、いよいよ《鳥獣戯画》のご開陳だが、よく知られてるようにこの絵巻は甲乙丙丁の4巻からなり、いちばん有名なウサギやカエルが遊んでる図は最初の甲巻。ところが展示は逆に丁から始まり甲が最後になっている。「鳥獣戯画展」なのに、われわれが知ってる絵は最後の最後まで行かないと見られないのだ。しかも最後の部屋は行列用のスペースまでたっぷりとってあって、どれだけ入れるつもりやねん。たぶん鳥獣戯画を見に行ったのに行列に耐えきれず、ウサギもカエルも見ないで帰ったという子が続出するに違いない。そのため展示ケースの上に部分図を拡大コピーして提示しているが、これ見てホンモノを見た気になる子は多いだろう。ちなみに絵巻きは各巻とも前期は前半のみ見せ、後半はコピーを展示しているが、修復したばかりのせいか、ホンモノもコピーみたいに見える。
2015/04/27(月)(村田真)
プレビュー:アラヤー・ラートチャムルーンスック展「NIRANAM 無名のものたち」
会期:2015/05/18~2015/06/14
京都芸術センター[京都府]
タイ出身の映像・写真作家、アラヤー・ラートチャムルーンスックの作品で強烈に印象に残っているのが、安置された6体の遺体を前に、教師役に扮した彼女自身が死についてのレクチャーを行なう映像作品《クラス》。映像自体の衝撃もさることながら、「死」を未だ体験していない生者が、既に「死」の何たるかを知ってしまった(がゆえにそれについては語り得ない)死者に対して、「死」を語り聞かすという転倒した構造の中に、「共有不可能なものについて、それでもどう語ることが可能か」という真摯な問いがはらまれていたからだ。また、タイの農民たちに戸外で19世紀フランス名画の複製を鑑賞してもらい、自由に会話させた映像作品《ふたつの惑星》もそうだが、彼女の作品の重要な要素として、「コミュニケーションの(不)可能性」が挙げられるだろう。
本個展は、2014年5月~6月にかけて、京都芸術センターと京都市立芸術大学の連携によるアーティスト・イン・レジデンス事業で京都に滞在した際のリサーチに基づいている。京都芸術センターの植え込みに蚊帳でつくった仮設小屋、特別養護老人ホームや動物愛護センター、川沿いに住むホームレスの小屋などの場所で、撮影とインタビューを行なったという。小屋という場所の仮設性、人間・動物ともに死を待つ場所、この世自体が命の仮の宿り、生きてきた記憶を語ること、語りを通して他者と共有すること……さまざまなことをかき立てられる個展になるのではと期待している。
2015/04/27(月)(高嶋慈)