artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
ペーパー・ドローイング
会期:2015/04/06~2015/04/18
開発好明の企画した5人展。画面にびっしりイクラが、と思ったらマッチ棒の頭を並べて描いた寺井絢香、マンガの記号表現を半立体化したような棚木愛子、アウトサイダー少女画みたいなやとうはるか、国会議事堂前に日の丸の落とし穴を掘ったような錯視画の吉野もも。以上4人とも多摩美を卒業した20代の女性作家だ。開発は昨年の香港の抗議活動に触発され、脈絡のない付箋紙のメモを仮設壁にびっしり貼ったインスタレーションを展示している。小部屋では壁を紙で覆い、5人でドローイングを描いてるのだが、脇に大中小の枠があって好きな部分を切り売りしてるんだと。これは、絵というものが作者の決めた枠内(画面内)で完結する世界だという考え方を覆す試みであり、また、号いくらと作品価格を決めているアートマーケットのパロディと見ることもできる。
2015/04/17(金)(村田真)
燕子花と紅白梅──光琳デザインの秘密
会期:2015/04/18~2015/05/17
根津美術館[東京都]
尾形光琳の300年忌を記念し、根津美術館所蔵《燕子花図屏風》とMOA美術館所蔵《紅白梅図屏風》の2点の国宝屏風を並陳している。この2点が並ぶのは、今上天皇が皇太子のときの結婚記念以来なんと56年ぶりという。でも半世紀前に比べてこれだけカラー印刷があふれ、ネットで自由に画像を検索できるようになった現在、この2点を実際に並べることのありがたみは確実に薄まってるような気がする。いや、よく考えれば逆に強まっているのかも。記者発表の講堂にも《燕子花図屏風》のレプリカが置いてあったけど、いまの技術からすれば精巧なレプリカを陳列してもたぶんだれも気づかないだろうなあ。
2015/04/17(金)(村田真)
西山美なコ・小松敏宏「On the Exhibition Room」
会期:2015/03/28~2015/04/18
CAS[大阪府]
「空間の中に(in)ある美術作品ではなく、美術作品が導く場所について(on)の意識を前景化する」ことを、小松敏宏と西山美なコの作品を通して試みた二人展。
小松敏宏の作品は、展示室の壁の向こう側に存在する空間を撮影した写真を、同寸で当の壁に貼り、写真の縁と白い壁の境界線を曖昧にぼかすことで、外部の現実空間をホワイトキューブの中へ召喚してみせる。ギャラリーの事務所、作品の保管場所、廊下や階段、非常灯……あたかも壁の向こう側を「透視」しているかのように、壁の一部が透明化したような錯覚に陥る。ただし、それは「写真」であるがゆえに、現実空間との時間差をはらんでいる。「透視」しているのは、現実にあった空間だが、既に過去のものなのだ。小松の作品は、純粋なホワイトキューブとして虚構化された空間を、写真というイメージを用いて、「今ここ」の現実とは微細な差異を伴ったものとしてもう一度虚構化するような、ねじれた構造をはらんでいる。
一方、西山美なコは、展示室の壁のみならず、天井や梁にまで、鮮やかなピンクの曲線によるウォール・ペインティングを展開した。それは紋様化された植物や花のようにも、飛沫のようにも見え、フラクタルのようにどこまでも増殖しながら空間を覆っていく。また、描線の上に白い絵具を薄く塗り、さらにその上から描線を重ねることで、ギャラリー空間の「壁」の物質性は後退し、絵画的イリュージョンが生成する場へと変貌していく。
ホワイトキューブの虚構性に裂け目を入れつつ、写真というメディウムの特性によって再虚構化するような小松と、物理的な壁を支持体としつつも、イリュージョンの生成によって半ば非物質化させていく西山。物理的な「壁」を出発点としつつ、写真/ペインティングというメディウムの違いによって、異なる空間を呼び込んだ両者の対比が興味深い展示だった。
2015/04/17(金)(高嶋慈)
莫毅「80年代 PART1 「風景」、「父親」」
会期:2015/04/07~2015/04/22
ZEN FOTO GALLERY[東京都]
1958年チベット生まれの莫毅(モイ)は、他に類を見ない独特の作風を育て上げてきた。まったくの独学で写真を始め、お仕着せの報道写真か、伝統的なテーマを繰り返すだけのサロン写真しかなかった中国の写真界で、文字通り体を張って意欲的な実験作を発表し続けてきたのだ。ZEN FOTO GALLERYでは、2回に分けて彼の作家活動の原点というべき1980年代の作品を取り上げる。今回のPART1では、1982~87年に撮影された「風景」、「父親」の2シリーズから、23点が展示されていた。
この時期、中国の社会は閉塞状況にあり、人々のフラストレーションは爆発寸前にまで高まっていた。チベットから大都市、天津に出てきた莫毅もむろんその一人で、鬱積した怒りの感情を抱いて、望遠レンズで街を舐め尽くすように撮影していったのが「風景」のシリーズである。そのタイトルには当時人気があった「田園風景」の写真に対する皮肉が込められているという。莫毅のような当時の若者たちにとっての父の世代の人物にカメラを向けたのが「父親」のシリーズで、彼らの虚飾や歪みを、冷静に距離をとって暴きだしている。思い出したのは、東松照明が1950~60年代初頭に撮影した「日本人」シリーズで、「地方政治家」(1957年)や「課長さん」(1958年)のアイロニカルな視点は、莫毅と共通しているのではないだろうか。
なお2016年1月開催予定のPART2では、莫毅の1987年以降の代表作が展示される予定である。1989年の天安門事件を挟んで、彼はより実験的でコンセプチュアルな作品を発表していくようになる。以前も本欄で書いたことがあるが、もうそろそろどこかで、このユニークな写真家の全体像を見ることができるような、大規模な展示を実現してほしいものだ。
2015/04/16(木)(飯沢耕太郎)
菱沼勇夫「彼者誰」/「Kage」
会期:2015/03/31~2015/05/03
菱沼勇夫は1984年、福島県生まれ。2004年に東京ビジュアルアーツ卒業後、11年からTOTEM POLE GALLERYのメンバーとして活動している。
若い写真家が急に力をつけてくる時期があるが、いま菱沼にそれが来ているのかもしれない。今回の連続展を見てそう思った。「彼者誰」は、35ミリ判のカメラで撮影された、どちらかといえば「私写真」的な色合いの強い作品である。被写体を見つめていく視点に安定感があり、その場の光や空気感を的確に判断して端正な画面におさめていく。一見バラバラな作品をつないでいくキー・イメージが、もう少しくっきりと浮かび上がってくるといいと思った。
注目すべきなのは、もう一つのシリーズの「Kage」の方で、こちらは6×6判で撮影されたイメージが並ぶ。ヌード、仮面をつけたセルフポートレート、窓ガラスの割れ目、炎、馬の背中のクローズアップなど、「彼者誰」よりも象徴性が強まってきているようだ。それらもバラバラに引き裂かれてはいるが、自分自身の記憶や感情のほの暗い深みに降りていこうという意欲をより強く感じる。ただこのままだと、作者も観客もどこに連れて行かれるかわからない宙づりの状態で取り残されてしまいそうだ。そろそろ作品全体の構想をしっかりと思い描きつつ、個々の被写体をつかまえていくアンテナをさらに研ぎ澄ませていくべきだろう。
この連続展に続いて、5月20日~30日にはZEN FOTO GALLERYで、旧作の「LET ME OUT」の展示がある(同名の写真集も刊行)。12月には再びTOTEM POLE PHOTO GALLERYでの展覧会も予定しているという。溜めていたものを一挙に吐き出し、次のステップに踏み出していってほしい。
「彼者誰」2015年3月31日~4月12日
「Kage」4月14日~5月3日
2015/04/16(木)(飯沢耕太郎)