artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
渡部敏哉「THROUGH THE FROZEN WINDOW」
会期:2015/03/18~2015/04/19
POETIC SCAPE[東京都]
渡部敏哉は1996年12月に、友人とウラジオストックからシベリア鉄道経由でロンドンに向かう旅を企てる。結局、その真冬の鉄道の旅はヘルシンキで断念することになるのだが、シベリアを旅しながらその途上で撮影された写真群から、17点を選んで展示したのが今回の個展である。
写真の運命というのは不思議なもので、撮影されてすぐに発表されて脚光を浴びる場合もあるし、結局日の目を見ないこともある。今回の渡部の写真のように、20年近くたってはじめて展示されるというのは、かなり珍しい例ではないだろうか。写真を見ると、「寝かせていた」ことがとてもいい方向に働いたことがよくわかる。シベリア鉄道の旅が、若者たちの間でロマンチックな憧れとして語られていた時代は既に過ぎ去り、銀塩のモノクロームプリントもクラシックな印象を与えるものになっている。だがそのことが、イメージがじっくりと熟成して、いい味わいを醸し出すことにつながってきた。凍りついた窓越しに見る、寄る辺のない冬のシベリアの眺めは、渡部の個人的な体験というだけではなく、多くの人たちが自分の旅の経験を重ね合わせることができるものになってきているのだ。
渡部が前回のPOETIC SCAPEでの個展に出品したのは、原発事故によって立ち入り禁止になった故郷、福島県浪江町をカラー写真で撮影した「18 months」だった。今度の作品は、それとはまったく異なる印象を与えるものだが、逆に彼の写真家としての懐の深さを感じることができた。
2015/04/12(日)(飯沢耕太郎)
細見美術館 琳派のきらめき──宗達・光琳・抱一・雪佳
会期:2015/04/01~2015/04/12
大阪高島屋 7階グランドホール[大阪府]
江戸期京都の本阿弥光悦と俵屋宗達の活躍に始まり、尾形光琳・乾山兄弟を経て、酒井抱一らの江戸での展開、そして近代京都の神坂雪佳による再興までにわたる、琳派の流れを一堂に紹介する展覧会。細見美術館が所蔵するコレクション約90点が展示された。京都・江戸だけでなく大阪での広がりと、明治期における琳派の復興にも目配りがされているから、琳派の長きにわたる系譜を総じて把握することができる。江戸後期大坂の絵師・中村芳中の諸作品は、宗達による工芸的な手法「たらし込み」と琳派の華やかさを踏襲しながらも、上方文化を彷彿とさせるような親しみやすく闊達な作風で面白い。とりわけ興味深かったのは、最後に展示された図案家・雪佳の作品群。《金魚玉図》にみられるような、金魚のユーモラスな表現、洗練された大胆な構成には唸らされる。雪佳のデザイン感覚は、絵画と工芸の領域双方を手掛けた琳派の始祖に由来しており、その発展形とみることができよう。[竹内有子]
2015/04/11(土)(SYNK)
アイデンティティXI──ポスト・コンフリクト
会期:2015/03/06~2015/04/18
nca | nichido contemporary art[東京都]
内戦や領土問題などさまざまな争いをテーマにした9組のアーティストによるグループ展。アフガン戦争におけるアメリカの機密文書をシルクスクリーンにしたジェニー・ホルツァーの作品はストレートだが、茶葉を一辺20センチの立方体に固めたアイ・ウェイウェイの作品は、なんでここにあるのかわからない。潘逸舟は両端が柄になって刀身が抜けない《不戦刀》と、魚釣島が沈んでいく映像を出品。これはわかりやすい。同展のキュレーションを務めたブラッドレー・マッカラムも尖閣諸島を扱った作品を出している。マッカラムはほかに、アフリカや旧ユーゴの政治的指導者の顔もフォトリアリズムで描いてる。負の肖像画というべきものだが、だれがこれらの肖像画を見たい(買いたい)と思うだろう。こうしたソシオポリティカルな作品はそれぞれの社会的背景がわからなければ理解しにくいため、解説が必要となる。同展にも解説を書いた紙を配っているが、解説がない作品もある。廃車の上にたたずむアフリカの若者とヒヒを撮ったピーター・ヒューゴの写真《ウモル・ムルタラとスクールボーイ》もそう。ウモル・ムルタラというのが若者の名前だとすると、ヒヒがスクールボーイになってしまうし、若者がスクールボーイだとするとヒヒが姓名を持つことになる。はたしてそういう意図の作品なのか。
2015/04/11(土)(村田真)
上野千紗「mirror」
会期:2015/04/07~2015/04/12
KUNST ARZT[京都府]
本物の植物の種と造花をそれぞれ用いて、生/死、自然/人工の境界の曖昧さを問うインスタレーション。病室に入るように半透明のカーテンをめくってギャラリーの第一室に入ると、植物の種が植えられたプランターが整然と並べられ、人工的な水色をした栄養剤が点滴のようにセットされている。ここは生命を育む場所でありながら、人工的な管理が行き届いた工場か実験室のような無機質さに支配されている。
一方、第二室では、一枚ずつ剥がされた造花の白いバラの花びらに、花言葉が刺繍され、蝶の標本のように並べられている。人工物である造花が、刺繍という手仕事を施すことで、むしろ生き物のような有機的な表情に近づいていく。管理された生/死や人工/自然の境界の撹乱に対する批評性を読み取ることは容易いが、詩的な美しさと相まって、今後の期待値を感じさせる展示だった。
2015/04/11(土)(高嶋慈)
大﨑のぶゆき ─Display of surface─ 「不可視/可視/未可視」
会期:2015/03/31~2015/04/11
galerie 16[京都府]
大﨑のぶゆきが2004年から続けている「Display of surface」シリーズと、制作プロセスの記録映像によるインスタレーション。展示されたキャンバスはいずれも、一見すると白の単色で塗られただけで、何も描かれていないように見える。だが作家によれば、実際には、ワセリンを指に付け、下地の上に手探りで描いているという。今回はカフカの小説『城』の登場人物が描かれているというが、それらは「不可視」の存在に留まっている。
では、指での描画、つまりキャンバスとの身体的接触の痕跡を「可視」化することは、どのようにして可能なのか。手がかりは、傍らに置かれた『城』の文庫本。持ち主が表紙に触れたことが、銀色に浮かび上がった指紋の痕跡によって示される。「Display of surface」シリーズにおける、潜在的な画像をはらんだ表面もまた、犯罪現場での鑑識捜査に用いられる指紋の検出方法を使えば瞬時に像が現われるのであり、あるいは酸化作用などの経年変化によって、何十年か後には自ずと像が顕在化するという。つまり、「不可視」は正確には「未可視」の状態にあるのだ。自然作用による像の顕在化までにかかる時間に耐えうるように、油絵の技法研究者の協力を得て、「表面が剥落せず、100年間もつ絵画」を制作するプロセスが映像で示される。
このように「Display of surface」シリーズでは、可視的なビジュアルイメージではなく、身体との物理的接触によって「表面」で起こる出来事(の痕跡)として、「絵画」は唯物論的に了解されている。その接触の痕跡が未可視にとどまる状態は、むしろ「ネガ」に近く、経年変化によって像が可視化されていくプロセスは、時間が極端に引き延ばされた「現像」と言えるだろう。その「現像」プロセスに、個人の生を超える時間的スパンを持ち込み、それに耐えうる下地を開発する大﨑の手つきは、両義的である。一方では、絵画という制度の「延命」を図りつつも、無造作に壁に立てかけられたキャンバスたちは、ただの白い板というモノにしか見えないからだ。
ポートレートや星座などの描画が水に溶け出し、おぞましさと美しさが同居する崩壊の過程を映し出した映像作品においても同様に、コントロールを手放した「時間的作用」が変容を駆動させる。本シリーズ作とは、イメージの消滅/顕現という点では逆向きのベクトルをなすが、絵具の層の堆積とは異なる「時間の相」と絵画の関係を考えることが、大﨑作品の基層のひとつにあると言えるだろう。
2015/04/11(土)(高嶋慈)