artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
高松次郎 制作の軌跡
会期:2015/04/07~2015/07/05
国立国際美術館[大阪府]
高松次郎の個展と言えば、昨年末から今年3月にかけて東京国立近代美術館で行なわれたばかりだ。しかし本展とはそれとは別物(連携はしている)。大阪の高松展では、彼の制作活動をシリーズごとに年代を追って展観し、絵画、立体、版画約90点、ドローイング約280点、書籍・雑誌・絵本約40点、記録写真約40点の総計約450点(!)で回顧しているのだ。なかでも注目はドローイングが大量に出品されていることで、それらを完成作と並置することにより、作品の制作過程や高松の思考の変遷を具体的に知ることができる。彼は生前にドローイングの存在を公にせず、2009年にドローイングのカタログレゾネが出版されるまで研究者でもその全貌を知る者はほとんどいなかった。それだけに本展は意義深く、今後高松の評価が更新された場合、そのマイルストーンと位置づけられるだろう。また、出版物に着目した点、記録写真をフォローした点も高く評価されるべきである。
2015/04/06(月)(小吹隆文)
高松次郎 制作の軌跡
会期:2015/04/07~2015/07/05
国立国際美術館[大阪府]
近年、回顧展や書籍を通じて、歴史化への関心が高まっている高松次郎の大規模な回顧展。本展の特徴は、絵画や版画、立体作品に加えて、約280点のドローイングや書籍・雑誌の装丁の仕事など、膨大な紙の仕事を高松の基底面と捉えて展示していることにある。とりわけポイントは、装丁の仕事を除き、「○○のための習作・下絵」といった表記をキャプションに記していないことにある。完成作の下部構造として位置付けるのではなく、その時期ごとの関心に応じて、「影」「遠近法」「単体」「複合体」「平面上の空間」というシリーズ名が冠せられている。また、各シリーズごとに分けられた展示スペースには、絵画や版画、立体作品と紙媒体のドローイングが並置され、同じ空間内に同居する。つまり、署名された完成作品/補完的存在としての習作というヒエラルキーを設けず、一つの関心軸およびシリーズを構成する連続体として眺めるように要請しているのである。
その意味で本展は、約40年の制作活動で膨大に残された紙の仕事の調査を通して、高松の思考の足跡を立体的に再構成しようとする、思考についての思考であり、メタ的装置としての性格を強く持つと言えるだろう。
2015/04/06(月)(高嶋慈)
小泉明郎──捕われた声は静寂の夢を見る
会期:2015/03/21~2015/06/07
アーツ前橋[群馬県]
小泉明郎の回顧展。映像作品を中心に立体や平面など、初期作から新作まで幅広く発表された。
よく知られているように、小泉明郎の映像には演劇的要素が強い。いや、より正確に言えば、登場人物が演技をしながらも、同時に、演じていることそのものを鑑賞者に開陳している場合が多い。それゆえ鑑賞者は、その映像を見るとき、その主題が戦争をはじめとする現実的かつ歴史的なものであったとしても、映像の中の世界が虚構であることを否応なく意識せざるをえない。
だが注目したいのは、そのような意識の二重性は、だからこそ逆に、強い現実感を醸し出す場合があるという点である。さしあたり小泉の代表作と言っていい《若き侍の肖像/Portrait of a Young Samurai》は、若い役者に特攻隊員を演じさせた映像だが、随所に演技指導をする小泉の声が差し挟まれているため、そのような二重性が出発点となっている。出撃を前に母親への感謝と報告をする隊員の演技は、小泉のディレクションにより次第に激烈になってゆき、やがて内臓を絞り出すような嗚咽が漏れ始めると、そこに小泉によって演じられた母親の声が重ねられ、姿を見せないまま、彼の出撃を止めようと懇願するのだ。
戦争に翻弄される母と子。それ自体は数々の戦争映画で描写されてきたような、中庸な主題である。だが小泉の映像が秀逸なのは、その虚構性を上書きしながら極限化することによって、虚構の先にしか見出すことのできない類のリアリティを導き出しているからだ。それは、現実を虚構化する劇映画とも、現実を現実として見せようとするドキュメンタリー映画とも異なる、虚構の内側を徹底的に突き詰めることで初めて現われる、非常に独特な映像経験である。それが過剰な演技であることを了解しつつも、思わず落涙してしまう鑑賞者が多いのは、そこにある種の現実感を感知してしまったからにほかならない。
今回改めて小泉の映像作品を見てみると、彼の関心が見えないものを召喚することに注がれていることがよくわかる。特攻隊員の母親はもちろん、戦時中に前橋で空襲された経験をもつ老人の語り口を聞くと、当時の情景がありありと眼に浮かぶし、同じ特攻隊員でありながら生き別れた友人との会話を演じる老人の映像には、あの世から呼び出された彼の魂が老人と交わっているような感覚がある。言い換えれば、眼に見えない霊的な存在がそこに立ち現われているような気がするのだ。むろん、それらは実証的な裏づけを欠いた、あくまでも感覚にすぎない。だが、そもそも「メディア」の語源のひとつに「霊媒」があるように、芸術に可能なのは、そのようにして眼に見えないものを身体に宿らせ、その内側に響き渡る実感をもって増幅させることではなかったか。
思えば、そのような霊的な交感は、かつてもいまも、ある種の人工的な虚構性を必要不可欠としていた。小泉が演技の虚構性を自覚的に前面化させているのは、自らの作品を安直なスピリチュアリズムに回収させないための方策であるばかりか、不可視の存在を可視化する営みにとって、それが不可避の手段であることを熟知しているからではなかろうか。芸術は嘘を真として信じさせる技術ではなく、むしろ真実を体現する嘘なのだ。
2015/04/05(日)(福住廉)
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
会期:2015/03/07~2015/05/10
河原町塩小路周辺[京都府]
京都駅近くの崇仁地区に展開された、ヘフナー/ザックス《Suujin Park》。フェンスで囲われた空き地が連なる異様な一帯の中に、廃棄された資材でつくられた公園が突如として出現する。フェンスと同じ素材で建てられた仮設の鳥居が異空間への入り口を示す。誘われるままに入り組んだ路地を進むと、取り壊された家屋の廃材で組み立てられた遊具のような建築物が出迎える。植物のプランターが無数にぶら下がる。バーベキューセットも置かれている。巨大な日時計もある。カラフルな三角旗が風にはためき、サーカスのような祝祭性と仮設性を強調する。
公園や広場を想起させるこれらの空間は、公共性へと開かれているようで、一方ではフェンスで囲われ、立入禁止の私有地であることを示す。この奇妙な矛盾が、開放的で楽しげな場に緊張感をもたらす。更地となった空間は、排除や均質化の暴力が背後にあることを匂わせる。権力や資本の介入に、ブリコラージュ的な手法で、打ち棄てられた素材や廃品を用いて抗うこと。ヘフナー/ザックスの《Suujin Park》は、祝祭的空間へと場を再構築しつつ、「場」に対する批評性を展開している。ひとつには、長く差別を被ってきたこの地区の歴史という具体的な場に対して。そしてもうひとつには、「国際展」という文脈に対して。
3つの歌が重なり合うサウンドインスタレーションを鴨川デルタに展開したスーザン・フィリップス、帝冠様式で建てられた京都市美術館の地下に、占領期の米軍による接収を示す資料を展示し、美術館の歴史を帝国主義や日本の戦後史と関連させて示したアーカイブ。これらと同様に、《Suujin Park》もまた、観光地としての消費対象である「京都」を再確認するのではなく、場のはらんだ重層的な歴史を批評的に掘り起こす試みであった。均質化、消費化されていく国際展へのアンチテーゼとしてこれらを提示した点で、PARASOPHIAの開催は評価できるだろう。
2015/04/05(日)(高嶋慈)
和歌山と関西の美術家たち リアルのリアルのリアルの
会期:2015/03/14~2015/05/10
和歌山県立近代美術館[和歌山県]
インターネットの普及や仮想現実の急速な進歩などにより「リアル」の感覚が揺らぎ、レイヤー化した空間に複数の自分がいるような感覚を抱いている人は少なくないと思う。本展は、現代におけるリアリティを探るべく、5人の若手アーティストの世界を紹介する展覧会だ。岡田一郎は、ある国の風景写真に別の国の標識や記号を重ね合わせた作品など複数のシリーズを出品し、小柳裕は、街灯がともる夜景や室内の照明器具を細密に描いて、現実と絵画空間を往還するような表現を見せてくれた。大久保陽平は日常的な掃除道具や家電製品をモチーフにした磁器立体を、君平は鉄の物質的特徴を生かした熱のドローイングや微生物を模した巨大立体を出品。伊藤彩は、過去作品を総動員した大規模ジオラマを元に制作した縦5メートル横21メートルもの巨大絵画と、ジオラマの一部を再構成したインスタレーションを発表した。主催者は彼らの作品から解を導こうとしたのではなく、むしろ単一の答えなどないことを訴えたかったのかもしれない。当方も万華鏡を覗き込むように多彩な表現を楽しんだ。なかでも伊藤彩の作品は圧倒的に素晴らしく、現時点での彼女の最高傑作を見られたことに感動した。
2015/04/05(日)(小吹隆文)