artscapeレビュー
小泉明郎──捕われた声は静寂の夢を見る
2015年05月15日号
会期:2015/03/21~2015/06/07
アーツ前橋[群馬県]
小泉明郎の回顧展。映像作品を中心に立体や平面など、初期作から新作まで幅広く発表された。
よく知られているように、小泉明郎の映像には演劇的要素が強い。いや、より正確に言えば、登場人物が演技をしながらも、同時に、演じていることそのものを鑑賞者に開陳している場合が多い。それゆえ鑑賞者は、その映像を見るとき、その主題が戦争をはじめとする現実的かつ歴史的なものであったとしても、映像の中の世界が虚構であることを否応なく意識せざるをえない。
だが注目したいのは、そのような意識の二重性は、だからこそ逆に、強い現実感を醸し出す場合があるという点である。さしあたり小泉の代表作と言っていい《若き侍の肖像/Portrait of a Young Samurai》は、若い役者に特攻隊員を演じさせた映像だが、随所に演技指導をする小泉の声が差し挟まれているため、そのような二重性が出発点となっている。出撃を前に母親への感謝と報告をする隊員の演技は、小泉のディレクションにより次第に激烈になってゆき、やがて内臓を絞り出すような嗚咽が漏れ始めると、そこに小泉によって演じられた母親の声が重ねられ、姿を見せないまま、彼の出撃を止めようと懇願するのだ。
戦争に翻弄される母と子。それ自体は数々の戦争映画で描写されてきたような、中庸な主題である。だが小泉の映像が秀逸なのは、その虚構性を上書きしながら極限化することによって、虚構の先にしか見出すことのできない類のリアリティを導き出しているからだ。それは、現実を虚構化する劇映画とも、現実を現実として見せようとするドキュメンタリー映画とも異なる、虚構の内側を徹底的に突き詰めることで初めて現われる、非常に独特な映像経験である。それが過剰な演技であることを了解しつつも、思わず落涙してしまう鑑賞者が多いのは、そこにある種の現実感を感知してしまったからにほかならない。
今回改めて小泉の映像作品を見てみると、彼の関心が見えないものを召喚することに注がれていることがよくわかる。特攻隊員の母親はもちろん、戦時中に前橋で空襲された経験をもつ老人の語り口を聞くと、当時の情景がありありと眼に浮かぶし、同じ特攻隊員でありながら生き別れた友人との会話を演じる老人の映像には、あの世から呼び出された彼の魂が老人と交わっているような感覚がある。言い換えれば、眼に見えない霊的な存在がそこに立ち現われているような気がするのだ。むろん、それらは実証的な裏づけを欠いた、あくまでも感覚にすぎない。だが、そもそも「メディア」の語源のひとつに「霊媒」があるように、芸術に可能なのは、そのようにして眼に見えないものを身体に宿らせ、その内側に響き渡る実感をもって増幅させることではなかったか。
思えば、そのような霊的な交感は、かつてもいまも、ある種の人工的な虚構性を必要不可欠としていた。小泉が演技の虚構性を自覚的に前面化させているのは、自らの作品を安直なスピリチュアリズムに回収させないための方策であるばかりか、不可視の存在を可視化する営みにとって、それが不可避の手段であることを熟知しているからではなかろうか。芸術は嘘を真として信じさせる技術ではなく、むしろ真実を体現する嘘なのだ。
2015/04/05(日)(福住廉)