artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
国際芸術祭「あいち2022」 愛知芸術文化センターと一宮市エリア
会期:2022/07/30~2022/10/10
愛知芸術文化センター、一宮市各所[愛知県]
5回目を迎える今回、名称から「トリエンナーレ」を除き、頭に「国際芸術祭」を冠して「あいち」に。「表現の不自由展」で波紋を呼んだ前回展から内容もイメージも一新させたいのだろう。しかし、内覧会の記者会見で前回の問題について問われた芸術監督の片岡真実氏は、「これまでさんざん聞かれたので、もうその質問はやめてもらいたい」とうんざりした様子で答えていた。そりゃ気持ちはわからないでもないけど、たぶん会見場に来ていた人たちの半分くらいはこのとき初めて片岡氏の肉声に接するわけで、その投げやりにも聞こえる発言には面食らったはず。
その片岡氏の掲げたテーマは「STILL ALIVE」。小さく日本語で「今、を生き抜くアートのちから」とある。これは、愛知県出身のアーティスト河原温による「I Am Still Alive」シリーズに想を得たもので、過去から未来へと続く時間軸のなかでコンセプチュアルアートをはじめとする現代美術を見直すと同時に、ポストコロナの時代を生き抜くヒントをアートに見出そうとの思いもあるようだ。会場は、前回の騒動を受けて名古屋市美術館がなくなり、メイン会場の愛知芸術文化センターに加え、一宮市、常滑市および有松地区(名古屋市)の4カ所となった。もっとも「STILL ALIVE」のテーマが色濃く反映されているのはメイン会場で、一宮市では地場産業である繊維をモチーフにした作品が目立った(常滑市は未見だが、同様に陶を使う作品が多かったらしい)。
メイン会場から見ていくと、前述の河原温による「I Am Still Alive」と打たれた電報をはじめ、1本の樫の木を100枚に輪切りにし、その年輪に1917年から100年間に起きた戦争をはじめとする出来事を刻印したローマン・オンダックの《イベント・ホライズン》(2016)、河原温を含む非物質的な作品を集めた1969年の展覧会のインストラクションに沿って、奥村雄樹がもういちど作品を再現した《7,502,733》(2021–2022)(数字はおそらく愛知県の人口)、モーゼル川に橋を架けるという荒川修作+マドリン・ギンズの未完のプロジェクト《問われているプロセス/天命反転の橋》の模型、新型コロナウイルスが蔓延した2020年2月から1年間、毎週日曜日の空を描きテキストを加えたバイロン・キムの《サンデー・ペインティング》(2020-2021)、コロナ禍で引きこもる世界中の人たちから月の画像を集めて合成し、円盤に投影して巨大な月に見立てた渡辺篤の「アイムヒア プロジェクト」など、40組を超す作品が並ぶ。
河原温のオマージュもあれば、パンデミック下におけるアートの役割を問うものもある。なんか最近どこかで似たような構成の展覧会を見たような気がするなあ、と思ったら、片岡氏が館長を務める森美術館の「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」ではないか。森美術館のほうは、オノ・ヨーコのインストラクション「地球がまわる音を聴く」をタイトルに据え、アートを通してパンデミック以降のよりよい生き方を考えようとの趣旨。アーティストこそ重なっていないものの、展覧会の骨格や全体の空気はよく似ている。だからけしからん、というのではなく、だから両展を見ることをおすすめしたい。
バスで一宮会場へ移動。銀行跡に絵画と彫刻を展示している奈良美智、屋外の壁にグラフィティを描いているバリー・マッギーのような、わが道を行くアーティストを除き、多くは地元の産物である繊維に関する作品を出している。眞田岳彦は県内で募った参加者の協力を得て、羊毛を樹木のような太い綱へより合わせ、市役所のロビーに飾った。遠藤薫は「美」という漢字が「羊」と「大」からなることに気づき、織機が置かれた資料館に羊毛でつくった巨大な落下傘を展示。塩田千春は、看護学校跡では骨格や胎児や内臓など解剖学の標本に、毛細血管を思わせる赤い糸を絡ませる一方、ノコギリ型の屋根をした毛織物工場跡では、重厚な織機の残る室内全体に赤い糸を張り巡らせたインスタレーションを発表。この工場跡に張られた糸はクモの巣を想起させる。
こうしてみると、メイン会場とサテライト会場では目指す方向性が少し異なっているのがわかる。単純化すれば、メイン会場はアートワールドを視野に入れたグローバル志向、サテライト会場は地場産業を生かしたローカル志向、といったように。特に今回、これまでに比べてローカル志向の比重が強まったと感じるのはぼくだけだろうか。名古屋市美術館の展示がなくなったおかげで、グローバル志向が芸術文化センターの一極集中になったからかもしれない。そして名称から「トリエンナーレ」が削られ、代わりに「芸術祭」が入ったのも、こうした方向性を示しているように思えるのだ。ちなみに「越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」も、今年は「アートトリエンナーレ」が削られた。この「トリエンナーレ」(グローバル志向)から「芸術祭」(ローカル志向)への移行は、どうやら全国的な動きといえそうだ。
公式サイト: https://aichitriennale.jp
関連レビュー
地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング|村田真:artscapeレビュー(2022年08月01日号)
2022/07/29(金)(村田真)
アレック・ソス Gathered Leaves
会期:2022/06/25~2022/10/10
神奈川県立近代美術館 葉山館[神奈川県]
もし、「アメリカ写真」というようなカテゴリーを想定することができるなら、アレック・ソスはその正統的な後継者といえるだろう。「アメリカ写真」というのは、あくまでも個人的な動機によって、未知の何ものかを探求してアメリカ各地を彷徨し、目にしたものを撮影して一束の写真として提示するような写真家のあり方で、ウォーカー・エヴァンズからロバート・フランクを経て、ゲイリー・ウィノグランド、スティーブン・ショア、ジョエル・スターンフェルドらに受け継がれていった。それぞれの写真のスタイルは異なっているが、現実世界の眺めを正確に描写することを心がけながらも、その背後(裏)に潜む見えないヴィジョンをこそ捉えようとしている。アレック・ソスは実質的なデビュー作といえる「Sleeping by the Mississippi」(2004)以来、まさにその「アメリカ写真」の典型ともいうべき作品を発表し続けてきた。
今回の、日本での最初の本格的な回顧展となる「Gathered Leaves」には、「Sleeping by the Mississippi」をはじめとして、「NAIAGARA」(2006)、「Broken Manual」(2010)、「Songbook」(2015)、「A Pound of Pictures」(2022)の5シリーズからピックアップされた、約80点が出品されていた。まだ初々しい眼差しを感じさせる「Sleeping by the Mississippi」から、洗練の度を増した近作に至る写真群を見ると、8×10インチ判の大判カメラによる、色彩や空気感をヴィヴィッドに定着したカラー・プリントという基本的なラインは維持しながらも、テキストと写真との関係、印刷媒体としての写真のあり方、音楽や詩と写真との結びつきなどに目配りしつつ、自らの作品世界をしっかりと構築していったソスの揺るぎない歩みが浮かび上がってくる。新作の「A Pound of Pictures」では、アメリカ各地で無名の人々によって撮影されたヴァナキュラー写真に着目することで、「写真による写真論」への関心を深めている。現在進行形の写真家としての彼の全体像を、的確な写真の選択・構成で見せたクオリティの高い展示だった。同時に刊行された小ぶりなカタログも、ソスへのインタビューを含めてとてもよくまとまっている。
2022/07/28(木)(飯沢耕太郎)
特別展アリス─へんてこりん、へんてこりんな世界─
会期:2022/07/16~2022/10/10
森アーツセンターギャラリー[東京都]
アリス好きにとってはたまらない展覧会だろう。「アリスの誕生」「映画になったアリス」「新たなアリス像」「舞台になったアリス」「アリスになる」の5部構成で、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865)と『鏡の国のアリス』(1871)が、アートとカルチャー・シーンにどのような影響を及ぼしてきたかをたっぷりと見せている。文学、美術、写真、映画、演劇、音楽、ファッションなどにまたがる、そのめくるめく広がりを、あらためて堪能することができた。
特に今回は、キャロルの母国でもあるイギリス・ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の企画・構成による展覧会なので、同館のコレクションからも貴重な作品・資料が出品されている。そのことが、とりわけアリス物語の出現の前後を追う「アリスの誕生」のパートに厚みと奥行きを加えていた。
筆者のような写真プロパーにとって特に興味深かったのは、ルイス・キャロルことオックスフォード大学の数学講師、チャールズ・ラトウイッジ・ドジソンが、1860年代から撮影し始めた写真作品が、かなり多数出品されていたことだった。キャロルは、ガラスのネガを使用する湿版写真の技術を身につけ、『不思議の国のアリス』を捧げたアリス・リドゥルをはじめとする、家族ぐるみで親しくしていた少女たちを中心として、生涯に3,000点もの写真を撮影したといわれている。技術的にはかなり高度であり、何よりも、彼の繊細な美意識が画面の隅々にまで反映した写真が多い。今回の出品作にも、多重露光を試みたり、衣装やポーズに工夫を凝らした作品が含まれていた。残念なことに、本展もそうなのだが、写真家としてのルイス・キャロルにスポットを当てた本格的な展覧会は、日本ではまだ実現していない。やはりヴィクトリア・アンド・アルバート美術館が所蔵する、女性写真家の草分け、ジュリア・マーガレット・キャメロン(彼女もアリス・リドゥルを撮影している)など、同時代の写真家たちの作品も含めて、ぜひどこかで「写真家・ルイス・キャロル」展を実現してほしいものだ。
公式サイト:https://alice.exhibit.jp
2022/07/27(水)(飯沢耕太郎)
西村梨緒葉《歌を教える》(「KUMA EXHIBITION 2022」より)
会期:2022/04/01~2022/04/10
ANB Tokyo[東京都]
「KUMA EXHIBITION 2022」については、学校法人森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題で自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さんの朝のルーティーンを筒|tsu-tsuが演じ続けるというパフォーマンス作品についての記事を以前書いたのだが、展覧会で覚えたある歌が、3カ月経ったいまもまだ頭の中でたびたびリフレインするのだ。
うすいレースで囲われた、半透明のブースの中に机と椅子が置かれてあり、少し離れたところにはアクリル板が吊られて、貼られた紙には次のように書いてあった。
机上の番号に電話をかけてください。
30秒ほどの短い歌を1曲教えます。
あなたが歌を覚えたら、電話はおしまいです。
映像作品なら視聴時間がハンドアウトに書かれているが、これは「30秒ほどの短い歌を教え」てもらうと書いてある。どうやって教えてくれるんだろう。中国語の発音について何度聞いても覚えられないわたしにできるのだろうかと思ったりもしたが、スマートフォンを鞄から取り出して電話をかける。人が出た。「もしもし」「もしもし」。
すぐに歌を教わることが始まった。電話越しに人が歌ってくれる。「さっきー・まだ・わーかれたーばかりー」。1フレーズ目が終わると、わたしは追っかけるように歌う。「さっきー・まだ・わーかれたーばかりー」。わりかし音程がわからないという自分の性質に気付き、時間がかかることが予想され、急に申し訳ない気持ちになる。机の上には分厚いメモ帳とペンがあって、そこに聞いた歌詞をまず書いていった。少し冷静になると、そのメモ帳には、何人もがそれぞれの方法で書き落とした跡があった。「さっきー ま↑だ↓ わーかれたー ばかりー↓」。これだ。この書き方だ。
音程が聞き取れないと、記号も機能しないと直後にわかったのはさておき、最終フレーズまで覚えられたと思ったので、そこで終わりにしてもらった。15分くらい教えてもらって、そのときのメモは写真に撮ったものの見返していないが、いまもふと気付くと歌っている。何を教えられたのだろうかと思いながら、検索エンジンで歌詞を打ち込むも、特に何もヒットしなかった。
なお、本展は無料で観覧可能でした。
「KUMA EXHIBITION 2022」アーカイブサイト:https://kuma-foundation.org/exhibition/2022/archives/rioha-nishimura/
2022/07/25(月)(きりとりめでる)
三鷹天命反転住宅 イン メモリー オブ ヘレン・ケラー
[東京都]
荒川修作+マドリン・ギンズにより2005年に建てられた「極彩色の死なないための住宅」。いずれ見に行こうと思いつつ先延ばししていたが、かーちゃんが見学の予約をしてくれたのでようやく重い腰を上げる。武蔵境駅からバスで10分ほど、大沢で下車してまっすぐ歩くと、右手にカラフルな奇妙な建築が見えてくるのですぐわかる。入り口で受付を済ませ、3棟9部屋あるうちの3階の一室へ案内される。ガイドしてくれるのは、映画「アートなんかいらない!」にも出演していた本間桃代さん。昔どこかでお会いしたことがあるような……。
外壁だけでなく、エレベータ内も各室内もカラフルに色分けされて楽しいけど、ここで暮らすとなると落ち着かないだろうなあ。いや色彩だけじゃない。床が傾斜しているうえ細かい凹凸までついているので、歩くたびに意識し、緊張してしまう。もっともそこにこの住宅の設計意図があるらしいのだが。ともあれ、足裏のツボに効くと考えれば悪くない。日常生活がそのままエクササイズにもなるという稀有な住宅なのだ。
間取りとしては、円形の空間の中央にキッチンを据え、周囲に球体と立方体の部屋、バス・トイレがついていて、一般的にいえば3LDK(2LDKもある)。面積は約60平方メートル(2LDKは約50平方メートル)ほど。コンセントやスイッチは定位置にないので、探さないとわからない。また収納スペースもないが、天井にたくさんのフックがあり、衣類やバッグなどはここから吊り下げるんだそうだ。なるほど、頭上から天井までの空間はたいてい余っているから有効利用できるってわけだ。一見、風変わりな芸術家が伊達や酔狂で建てた非合理建築のように見えるが、実に合理的に考え抜かれている。
当初はここだけでなく、各地に天命反転住宅を増やしていく計画だったらしいが、今後の建設予定はないという。家賃やショートステイプラン、見学料などで運営されているものの、コロナ禍で収入が激減して経済的に苦しく、修繕もままならないようだ。伝統的な建物だったら古びても味わいが出るけど、こうしたウルトラモダン建築だと時代が変わればレトロフューチャーな遺物になりかねない。そんなものを残して楽しむ文化が日本に根付いているかというと、あの黒川紀章の中銀カプセルタワーでさえ解体されているのだから予断は許さない。たとえ住宅は古びても、「死なないための住宅」というコンセプトは人間が死ぬ限り古びることはないのだから、これはやはり永久に残しておくべき建築であり、文化遺産でもあると思う。
公式サイト:http://www.rdloftsmitaka.com
2022/07/24(日)(村田真)