artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

野口里佳「父のアルバム/不思議な力」

会期:2014/09/19~2014/11/05

916[東京都]

オリンパス・ペンは1960~70年代に一世を風靡したカメラである。何といっても、通常の35ミリフィルムの半分のサイズ、72枚を連続的に撮影できるという利点があり、家庭スナップにぴったりだったので多くのアマチュア写真家に愛用された。もう一つの特徴は、普通にカメラを構えて撮影すると縦位置に写るということで、そのため「狙って撮る」ポートレートに向いていることだ。周りが写り込んでしまう横位置のフレーミングにはない、被写体とストレートに向き合っている感覚を定着できるのだ。
今回、野口里佳は、2013年に亡くなった父がオリンパス・ペンで撮影していたネガから写真を選び出し、自分でプリントして展示した。いうまでもなく、父が見ていたものを追体験することが目的なのだが、単純にそれだけではなく、写真自体のクオリティの高さに驚き、プリントしたいと強く思ったのではないだろうか。写っているのは、野口の母、野口本人と弟と妹、父が育てていたバラなどであり、撮り方も穏やかなスナップで、取り立てて「作品」にしようと気張っているわけでもない。にもかかわらず、そこに写っている光景には、時代の空気感が色濃く漂っており、的確な光の捉え方とフレーミングは、写真家としての力量の高さとしかいいようがない。その才能が娘に受け継がれたことは間違いなさそうだ。
なお、同時に展示されていた「不思議な力」のシリーズも、同じオリンパス・ペンで撮影され、インクジェット・プリントに大きく引き伸ばされている。野口が、父の撮影した家庭アルバムに触発されつつ、それを自分の問題として咀嚼して、光、影、氷結、磁力など日常にあふれ出てくる「目には見えない不思議な力」の正体をさぐり当てようとしていることがよくわかる。二つのシリーズの組み合わせに無理がなく、だが同時にそれぞれの方向に大きく伸び広がっていて、心地よい視覚的な体験を与えてくれる、とてもいい展覧会だった。

2014/09/24(水)(飯沢耕太郎)

フィオナ・タン まなざしの詩学

会期:2014/07/19~2014/09/23

東京都写真美術館[東京都]

時間がないのに最終日に駆け込んだ理由はただひとつ、ロンドンのサー・ジョン・ソーン美術館を撮った映像が出ていると聞いたからだ。だからほかの作品は飛ばしてその作品《インヴェントリー》しか見なかった。ジョン・ソーンは18-19世紀の建築家で、収集した絵画や彫刻、建築の断片やレプリカを自宅の壁にびっしり並べ、一種の迷宮世界を築いているのだ。フィオナ・タンはその美術館に6種のフィルムやビデオなど異なるカメラを持ち込んで撮影し、サイズの異なる6面スクリーンに重層的な世界を映し出す。でももっと奥深い迷宮をのぞいてみたかったなあ。

2014/09/23(火)(村田真)

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六甲ミーツ・アート芸術散歩2014

会期:2014/09/13~2014/11/24

六甲ガーデンテラス他[兵庫県]

六甲山の観光地を舞台にした芸術祭。ケーブルカーや公園、植物園、ホテルなどに展示された作品をバスで周遊しながら鑑賞するという仕掛けだ。参加したのは淺井裕介、宇治野宗輝、太田三郎、加藤泉、金氏徹平、鴻池朋子、西山美なコ、三宅信太郎ら40組あまりのアーティスト。六甲山の観光地が手頃なサイズなので、ほぼ一日あれば、すべての作品を鑑賞して見て回ることができる。
昨今の芸術祭や国際展にとって、アート・ツーリズムは決して無視することのできない手法として、その構造の内側に深く組み込まれている。本展においても、美術作品を鑑賞する行為(アート)と観光地を周遊する行為(ツーリズム)を重ね合わせることで、全体を構成していた。それが、観客を動員する有効な手立てであることに疑いはない。事実、会場のいたるところで美術作品の鑑賞に誘導された観光客を数多く目にすることができた。アート・ツーリズムは「美術」にとっても「観光」にとっても有益というわけだ。
しかし、アート・ツーリズムに問題点がないわけではない。本展には、そのもっとも象徴的な2つの問題点が凝縮していたように思われる。ひとつは、アート・ツーリズムが歓迎する美術作品には、ある種の偏りがあるということだ。観光地という条件は、観光地にふさわしい美術作品を要請する。たとえば六甲山カンツリーハウスは家族で楽しむアウトドア施設だが、ここに展示された作品はおおむね遊具や空間演出装置のような作品で占められていた。その空間の特性に順接する作品が展示される一方、逆接する作品は省かれるという原則は、アート・ツーリズムに限らず公共空間や野外空間での展覧会に共通する一般原則であるとはいえ、本展ではきわめて明瞭にその原則が一貫していた。その目的が観光客の眼を楽しませることにあることは明らかである。
とはいえ、例外的な作品がないわけではなかった。鴻池朋子は六甲山ホテルのロビーの壁面に巨大な絵画を展示したが、その支持体は牛革。生々しい獣の皮を数枚つなぎ合わせた表面の上に、身体の臓器や血管、眼球などを鮮やかな色彩で描いている。元々壁に設置されている鹿の首の剥製を牛の皮が取り囲んでいるから、まるで鹿の肉体の内側がめくれ上がって露出しているかのようだ。肉の温度すら感じられるような絵と、格式高いホテルのロビーという静謐な空間との対比が目覚ましい。
その作品と空間の対比は、おそらくアート・ツーリズムを相対化する重要な契機にもなっている。すなわち、アート・ツーリズムのもうひとつの問題点とは、身体性が決定的に欠落しているという点である。ケーブルカーやロープウェイで一気に山を登り、周回バスで作品を見て回る。そうした鑑賞方法は、美術館におけるそれとほとんど大差ないか、あるいはそれ以上に身体を甘やかしている。せっかく窮屈な美術館の外の野外に出ているのに、身体を解放するのではなく温存させるような身体技法を、アート・ツーリズムは鑑賞者に強いるのだ。つまり鑑賞者は観光客として振る舞わなければならない。これがほんとうに鬱陶しい。
鴻池の作品が喚起しているのは、おそらく肉体の内側に隠されている原始的な感覚ではなかったか。それは、観光客としての身体技法を激しく揺さぶり、そうではない振る舞いに奮い立たせる。だからバスなんか乗ってはいけない。山道を歩いてみるがいい。裏道に一歩足を踏み入れれば、そこには「美術」にも「観光」にも望めない、新たな世界が待ち受けている。

2014/09/21(日)(福住廉)

角田奈々「苦いマンゴー~ベトナムの風に吹かれて~」

会期:2014/09/01~2014/09/21

photographers' gallery[東京都]

角田奈々は2010年頃からベトナム各地を旅して写真を撮影しはじめた。その中で、ポートレートの撮影の仕方に一つのスタイルを作り上げていった。被写体を画面のちょうど真ん中に置き、周囲の環境との関係に細やかに気配りしつつシャッターを切る。選ばれている人物は老若男女さまざまであり、部屋の中もあれば、野外の場合もある。被写体との距離感も微妙に違っていて、全身像も、クローズアップに近い写真もある。なぜ彼らが真ん中にいるのか、その理由ははっきりとはわからないが、そこに彼女の確かな意志が働いていることは間違いないだろう。まっすぐに、正面からベトナムの人たちと向き合いたいという強い気持ちが、支えになっているのではないかとも想像できる。
角田は九州産業大学写真学科の出身で、2006年から福岡のAsian Photographers Gallery(APG)のメンバーとして活動した。ギャラリーは2011年に閉廊になるが、彼女はアジア各国に向けて開かれたギャラリーの活動を、「個人的に」引き継ごうと考えている。ベトナムで撮影を続けているのもその一環だし、今回の展示にあわせて「APG通信」というポストカードサイズの定期刊行物も発行しはじめた。写真の裏面に、ベトナムでのさまざまな出会いについて書かれた短いエッセイが掲載されている。その実感がこもった文章がなかなかいい。今回の展示は、24枚の写真が壁から手前に張り出した台に並べられていて(他に大きく伸ばしたプリントが壁に1枚)、テキストは一切ない。今後は、もう少し、言葉と写真の融合の形も模索していっていいのではないだろうか。

2014/09/21(日)(飯沢耕太郎)

写真新世紀2014 東京展

会期:2014/08/30~2014/09/21

東京都写真美術館B1F展示室[東京都]

最終日にようやく間に合って、「写真新世紀2014」の展示を見ることができた。審査員をしていた2010年頃までは、むろん愛着のあるイベントだったのだが、このところどことなく疎遠になった気分でいた。一つには、強い関わりを持つ必要がなくなったということなのだが、出品作品そのものに”熱”を感じなくなったということもある。1990年代前半の、「写真新世紀」がスタートしたばかりの頃と比べれば、たしかに平均的な作品のレベルは上がってきている。だが、全体的に見て、驚きと衝撃をもたらすようなワクワク感が欠如しているように思えるのだ。
今回の優秀賞受賞者は草野庸子(佐内正史選)、須藤絢乃(椹木野衣選)、南亜沙美(大森克己選)、森本洋輔(HIROMIX選)、山崎雄策(清水穣選)の5人。そのうち須藤絢乃の「幻影-Gespenster-」が9月12日の公開審査会でグランプリに選出された。その結果に文句を付けるわけではないが、あまりにも順当過ぎる気がしないわけではない。というのは、須藤はもう既に個展の開催や写真集の刊行などを通じて、写真家として高い評価を受けているからだ。「幻影-Gespenster-」の写真集には僕自身もエッセイを寄せており、失踪した少女に成り代わるというセルフポートレートのコンセプトも、作品化のプロセスも、きわめて高度なレベルに達している。はっきりいって、他の出品者からは頭一つ抜けた存在であり、受賞は当然というべきだろう。だが、もともと「写真新世紀」の存在意義は、写真の表現者の未知の可能性を発掘する所にあったはずで、既にエスタブリッシュされている作家を追認することではないはずだ。
ちょうど同じ日に東京・神宮前で開催されていた「THE TOKYO ART BOOK FAIR」(京都造形芸術大学・東北芸術工科大学外苑キャンパス 9月19日~21日)に足を運んだのだが、その玉石混淆のカオス的な状況と、「写真新世紀」のスタート当時がどうしても重なって見えてしまった。訳の分からないエネルギーの渦に巻き込まれていくような、めくるめく体験は、いまの「写真新世紀」には望むべくもないように思える。もうそろそろ、幕を下ろす時期が来ているのではないだろうか。

2014/09/21(日)(飯沢耕太郎)