artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
冬耳 展「ミドリの光、アイイロの森」
会期:2014/05/09~2014/05/21
gallery near[京都府]
絵具を原色で用い、輪郭線のない色面だけで構成されたカラフルな絵画を制作する冬耳。その絵は一見ポップで、グラフィティー風でもあるが、真のテーマは自然や生命など根源的なものだ。また近年は、日本人の自然観に対する関心が増しているそうだ。地元京都では5年ぶりの個展となる本展では、横幅約5メートルの大作《ヘビの行進》をはじめとする約20点を展覧。それらのなかには激しい筆致やムラのある色面など、従来とは異なる要素が垣間見える作品が幾つかあり、彼が新たな段階に入ろうとしている気配が感じられた。
2014/05/13(火)(小吹隆文)
中房総国際芸術祭 いちはらアート×ミックス
会期:2014/03/21~2014/05/11
市原市南部エリア[千葉県]
房総半島の中央にある市原市を舞台にした芸術祭。小湊鉄道の沿線に60組あまりのアーティストによる作品が展示された。大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭と同じく、過疎高齢化という問題を基礎にした地域型の芸術祭である。先行する2つの芸術祭になくて、この芸術祭にあるのは、鉄道を主軸にした会場構成。運行数が少ないせいか、実質的にはバスでの移動がメインだったにせよ、山間を走る鉄道に乗って作品を訪ね歩くというコンセプト自体は新しい。
けれども、展示された作品は、すべてを鑑賞したわけではないので断定することはできないが、全体的に昨今の地域型芸術祭の傾向に沿うもので、とくに目新しいとは思えない。学校校舎などを再利用したうえで土地の風土や記憶を主題にした作品を展示し、あわせて祝祭的な行事や演劇的なパフォーマンスを演出する。こうした方法論が過疎高齢化という問題へのアートの文脈からの回答であることは理解できるにしても、それが鑑賞者の欲望を十分に満たすとは限らない。
ただ、いずれの地域型芸術祭にも通底しているのは、「食」を芸術祭に不可欠な要素として重視していることだ。とりわけ都市からの来場者にとって、その土地で育まれた野菜の味わいは、美術作品を鑑賞する以上に深く印象づけられることが多い。いかにコアなアートファンといえども、胃袋が幸せになれば、おおむね満足して帰っていく。この点は、都市型の芸術祭には到底望めない、地域型芸術祭ならではの特質であり、それを巧みに取り込んだ戦略が功を奏していることは間違いないだろう。
「食」と「作品」を並列のプログラムとして扱うことは、しかし、観客動員数を稼ぎだすための手段にすぎないわけではない。双方は、現われ方が異なっているにせよ、本来的に人間の営みとして同じ水準にあるからだ。人は食べると同時にものをつくり、絵を描くように食材を調理している。山河や海から自然の恵みを得ることと、日本画の画材を植物や鉱物から調達することは、基本的には同じ身ぶりである。明治以後の「美術」は都市を主要な舞台としてきたせいか、「作品」を特権化する反面、自然との関係性を蔑ろにしてきた。この不自然な偏りを是正することに地域型芸術祭の究極的な目的があるとすれば、「作品」を近代という偏狭な枠から解放する糸口は「食」だけにとどまらない。「住」や「衣」、あるいは「読む」、「書く」、「見る」といった身ぶりからも「作品」を解きほぐすことができるはずだ。
地域型芸術祭の課題は、それゆえ過疎高齢化という問題への即効的な効果の有無というより、むしろ従来の近代的な「作品」概念をどこまで私たちの手に取り戻すことができるのかという点にある。「作品」の主題が似通っていること以上に、「作品」そのものをいかにして人間の営みに引き戻し、溶けこませることができるのかが問題だ。こうした取り組みは抽象論に聞こえがちだが、過疎高齢化という具体論と決して矛盾しない。過疎高齢化をもたらした都市への人口集中は、人間の営みから「作品」を切り離し、特権化する過程と完全にパラレルだからだ。美術の問題を考えることと、都市社会のそれを考えることは、意外なほど通じあっているのである。
もちろん、この「考える」ことは、アーティストだけの仕事ではない。みんなで「考える」のだ。
2014/05/11(日)(福住廉)
10周年記念企画展──西方の藍染
会期:2014/05/03~2014/06/30
ちいさな藍美術館[京都府]
ヨーロッパの藍染、40点余りからなる展覧会。いずれも19世紀から20世紀のあいだに、フランス、ドイツ、ハンガリー、チェコ、オランダ、スペイン、ノルウェイなど、ヨーロッパでつくられたものである。衣裳やインテリアファブリックといった庶民の日常を彩った藍染が中心で、骨董的価値はさほど高くないかも知れないが、だからこそ日本で目にすることは少なく、これだけの逸品が一堂に会するのはまたとない機会である。
会場は、ちいさな藍美術館。藍染作家である館長の新道弘之氏が、藍染に使う良い灰を求めて家族とともに京都府美山町(重要伝統的建造物群保存地区)に移り住んだのは34年前である。茅葺き民家の住居兼アトリエの2階に、氏が染色技法の探求のために長年収集してきた藍染コレクションの展示スペースとして美術館が創立されて10年になる。今回の企画展では、そのなかからとくにヨーロッパの品々が選出された。
藍染といえば、一般に、日本の伝統的な染色という印象がある。明治期に日本を訪れた英国人が藍を「ジャパン・ブルー」と呼んだことからも、当時、日本人の生活のなかで藍染がふんだんに使われていたのは確かであろう。しかし同じころ、藍染はヨーロッパでも「ブルー・プリント」として広く親しまれていたのである。19世紀から20世紀は、中世からヨーロッパ全土で栽培されていたウォード(細葉大青)、16世紀からヨーロッパに流入し始めたインド藍、そして1897年に発明された化学藍といったさまざまな染料による藍染が混在した時期であり、藍染のあらゆる可能性が試された時期である。今回の展示では、日本のものとはひと味違ったヨーロッパの藍染の豊かさと力強さを堪能し、人々を魅了してやまない藍の歴史の一面をあらためて知らされた。
まぶしいばかりの新緑が萌える美山、藍色がひときわ映える。会場では、見るだけでなく、手にとって布の感触を味わい、さらに新道夫妻作の藍染グッズを購入し持ち帰って楽しむこともできる。[平光睦子]
2014/05/11(日)(SYNK)
山村幸則 展「風を待つ」《Thirdhand Clothing 2014 Spring》
会期:2014/05/03~2014/05/25
CAP STUDIO Y3[兵庫県]
2点の映像作品を展覧。「風を待つ」は、作家が幼少の頃に祖父から贈られた鯉のぼりを、自ら旗竿を握って神戸の空に翻らせる模様を記録したもので、《Thirdhand Clothing 2014 Spring》(画像)は、ファッションショーの形式を借りて、衣服の新しい着用法を提案するものだった。筆者が興味を持ったのは後者。衣服のルールを無視したアンサンブルでポーズを決める山村の姿は滑稽だが、これを人間彫刻、あるいはアートを通したファッションの更新と見なせば、新たな批評の対象になる。また、インスタレーションとして並べられた古着は試着や購入が可能で、ファッションのプレゼンテーションとしても可能性を秘めているのではなかろうか。
2014/05/11(日)(小吹隆文)
桑原史成「不知火海」
会期:2014/05/07~2014/05/20
銀座ニコンサロン[東京都]
桑原史成は2013年に刊行した『水俣事件』(藤原書店)で第33回土門拳賞を受賞した。その受賞記念展として開催されたのが本展である。桑原が水俣病の患者さんたちを撮影しはじめたのは1960年だから、既に50年以上が経過している。一人の写真家の仕事として異例の長さであるとともに、これだけの質と厚みを備えたドキュメンタリー・フォトは、日本の写真表現の歴史においても希有なものといえるだろう。
土門拳賞の受賞対象となった著作が『水俣病事件』ではなく、『水俣事件』となっていることに注目すべきだろう。これは版元の藤原書店の藤原良雄がいくつかの候補から選んだもののようだが、桑原が撮影してきたのが単純に「水俣病」を巡る状況だけではなく、地域社会の全体を巻き込み、国際的にも環境汚染の問題を問い直すきっかけとなった「事件」の全体であったことを、よく指し示すネーミングといえる。
写真をあらためて見直すと、「生ける人形」と称された重症患者の少女を撮影した1960年代のよく知られた写真から、2013年の水俣病認定棄却処分を不当とする最高裁判決の記録まで、桑原がまさに一つの地域と時代とをまるごとつかみ取り、写真に残しておこうという強い意志に突き動かされてきたことがよくわかる。土門拳賞の「受賞理由」としてあげられた「ジャーナリスティックで距離感を保った一貫した姿勢」というのは、まさにその通りだと思う。日本のフォト・ジャーナリズムの記念碑的な作品というだけではなく、いまだ現在進行形の仕事であることに強い感銘を受けた。
2014/05/09(金)(飯沢耕太郎)