artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

張照堂「身体と風景 BODY AND SCENES 1962-1985」

会期:2014/04/02~2014/04/26

禪フォトギャラリー[東京都]

張照堂(シャン・シャオタン 1943~)は、台湾だけでなくアジアを代表する写真家のひとりと言える。15歳で兄の二眼レフカメラを借りて撮影を開始し、1965年に高校時代からの写真の師であった鄭桑渓とともに開催した「現代攝影雙人展」は、台湾写真界を震撼させた。首のない人物像(セルフポートレート)、ピンぼけとハイコントラストの画像、白塗りの人物を配した演劇的な場面──実存的な問いかけと閉塞的な社会状況に対する鋭い批判を含み込んだ、彼の挑発的な写真群は、穏当なサロン写真が中心だった台湾ではほとんど見ることがなかった種類のものだったからだ。
張はその後、テレビ局に勤めてドキュメンタリー番組を制作しながら、写真家としても実験作、問題作を次々に発表していく。今回の禪フォトギャラリーの個展では、1960年代~80年代の代表作17点が展示されるとともに、折りに触れて撮影していた断片的なヴィデオ映像を再編集した「人生路上」が上映された。写真を通じて人間存在の根源、個と社会との関係を問い直す張の営みは、確かに独力で成し遂げられたものだが、アメリカのウィリアム・クライン、オランダのエド・ファン・デル・エルスケン、また日本のVIVOの写真家たち(東松照明、細江英公、川田喜久治ら)の作品との共通性を感じる。また1970年以降の、よりドキュメンタリーとしての意識が強まった「社会記憶」のシリーズは、ジョセフ・クーデルカがチェコスロバキア亡命後に撮影した「エグザイルズ」を思い起こさせる。これもまた、同時代の優れた写真家たちが、見えない絆で結びついていることを示す事例と言えるだろう。
なお同時期にギャラリー冬青では、張の初期作品を集成した「少年心影 Images of Youth(1959-1961)」展(4月4日~26日)が、PLACE Mでは近作による「その前&その後 Before & After」展(4月7日~20日)が開催された。特にPLACE Mで展示された「夢遊──遠行前」と「台湾──核災後」の2作品は注目に値する。デジカメやiPhoneでの撮影に果敢に挑戦し、反原発運動に積極的に加担していこうとする姿勢は、彼が70歳を超えてなおも反骨精神の塊なのをよく示している。

2014/04/05(土)(飯沢耕太郎)

MOTアニュアル2014「フラグメント──未完のはじまり」

会期:2014/02/15~2014/05/11

東京都現代美術館[東京都]

珍しい双子の女性アーティスト高田安規子・政子は、軽石を削って古代ローマ遺跡に見立てたり、100円ショップで買ったゴム吸盤に切り込みを入れて江戸切子にしたり、ハイ&ロウ、過去と現在、東と西、大と小をミキシングしてお手軽な作品に仕上げてる。青田真也はガラス瓶やプラスチックボトルの表面をヤスリで削り、表面にあった文字や記号を消し去ることで匿名の物体に変えてしまう。吉田夏奈は立体の表面に風景や石の模様を描くことで、立体の絵画化と絵画の立体化を実現させようと試みている。みんなちょっとした思いつきを手際よく身近な日用品で表現していて感心する。でも、発想力を競う一発芸で終わらないように。

2014/04/04(金)(村田真)

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驚くべきリアル──スペイン、ラテンアメリカの現代アート

会期:2014/02/15~2014/05/11

東京都現代美術館[東京都]

「驚くべきリアル」というタイトルから、またアントニオ・ロペスなスペイン・リアリズム絵画を連想したが、ぜんぜん違う現代美術展だった。これは「日本スペイン交流400周年」事業のひとつで、スペイン北西部のカスティーリャ・イ・レオン現代美術館(MUSAC)のコレクションから27作家の作品を紹介するもの。マドリッドのレイナ・ソフィアでも、バルセロナ現代美術館(MACBA)でもないところが希少だ。映像や写真など姑息な作品が多いなか、巨大壁面を89枚の絵画で隙なく埋めたエンリケ・マルティの《家族》は圧巻。サイズの異なる正方形の板に油彩で家族のスナップ写真をサラサラッと描いたもので、なかに血まみれの子どもの絵もあって驚くが、これはキリスト教の儀式に由来するパフォーマンスで、血はフェイクだそうだ(もちろん絵だけど)。家族の絆が強く、カトリック色の濃いラテン系ならでは作品。もうひとつ、同じ部屋にあったサンドラ・ガマーラの《ガイドツアー(リマ現代美術館LiMacカタログ)》にも注目した。リマ現代美術館のカタログを1ページずつ描いているのだが、そんな美術館は存在しないし、もちろんカタログもない。架空の美術館をでっち上げ、カタログ(だけでなくグッズも)をつくっているのだ。たとえばジョアン・フォンクベルタの旧作のように、架空の物語に従って連作をつくる手法はよくあるが、写真やCGではなくアナログな絵によって再現するところがうれしい。

2014/04/04(金)(村田真)

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橋本照嵩「瞽女」

会期:2014/03/14~2014/04/12

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

若い世代にとって「瞽女(ごぜ)」はすでに死語に近い言葉だろう。中世以来、三味線を弾きながら歌をうたい、家々を回って門付をしながら旅を続ける盲目の女性たちがいた。明治以降の近代化によって、ほとんど廃れていたのだが、戦後も新潟県の高田や長岡に細々とその伝統芸を守り続ける「瞽女」たちが残っていた。ところが、高度経済成長が一段落すると、「瞽女」の存在はある種の郷愁と畏敬を持って語られ、描かれるようになっていく。
だが、橋本照嵩が1970~74年に撮影し、『アサヒグラフ』誌上での発表などを経て1974年に写真集『瞽女』にまとめた写真群は、画家の齋藤真一の油彩画や水上勉の『はなれ瞽女おりん』(1975)など、いわゆる「瞽女」ブームを生み出した作品とは一線を画するものではないかと思う。3年以上の歳月を、時には「男手引き」として瞽女たちを先導しながら歩き続け、撮り続けた写真群は、雪国を放浪する彼女たちの生の厳しさを余すところなく伝えてくれるからだ。
今回のツァイト・フォト・サロンでの展示は、1970年代のヴィンテージ・プリント36点によるもので、モノクローム印画のざらついた粒子と、白黒のコントラストが、時代の気分をよく反映している。ロマンティシズムのかけらもないそれらのプリントを見ながら思い出したのは、ほぼ同時期に撮影されたジョセフ・クーデルカの「ジプシーズ」だった。両者ともかなり広角気味のレンズを使っていることもその理由のひとつなのだが、チェコスロバキアと日本で同時発生的に同質の表現が形をとっていったことが、とても興味深い。

2014/04/03(木)(飯沢耕太郎)

武田陽介「Stay Gold」

会期:2014/03/22~2014/04/19

タカ・イシイギャラリー[東京都]

単なるセンスのよさというだけではなく、スケール感と未知なる可能性を併せ持った若手写真家が登場してきた。東京・清澄白河のタカ・イシイギャラリーだけでなく、タカ・イシイギャラリーモダン(3月26日〜4月19日)、空蓮房(3月26日〜4月25日)、TRAUMARIS|SPACE(3月26日〜4月27日)でもほぼ同時期に個展が開催されたということからも、1982年愛知県生まれの武田への期待度の大きさがわかる。
「代表作14点」が展示されたタカ・イシイギャラリーの「Stay Gold」展と、SUPER LABOから刊行された同名の写真集を見る限り、武田には特定のスタイル、テーマというようなものはない。デジタルカメラを太陽に向けて撮影して光の滲みを捉えた「デジタル・フレアー」のシリーズが、作品のサイズの大きさからいっても目につくが、プリント用紙の地色(白)を強調して電線を撮影した抽象的な作品、金環日食と金星太陽面通過の「天体写真」、シロクマの剥製のような「曖昧な状況」にカメラを向けたスナップショットなどもある。とりとめないと言えばそれまでだが、彼にとっての現実世界のあり方を、さまざまな方向に触手を伸ばしてトータルに捉えようとすることは決して間違ってはいない。日本では久しく現われてこなかった「全体写真家」となる可能性を秘めているとも言える。
ただこれから先、彼の作品世界が、多くの人々に夢と希望を与えていくような強度を持ちうるかどうかと言えば、もう少し様子を見なければわからないだろう。現時点での彼の持ち味と言える品のよさ、お行儀のよさをかなぐり捨て、もう少し感情や欲望をストレートに打ち出していってもいいのではないだろうか。ヴォルフガング・ティルマンスの「コンコルド」のように、「これが本当に好きなんだ!」と手放しで納得できるような写真を見せてほしいものだ。

Yosuke Takeda, "144540", 2014, Light jet print
© Yosuke Takeda / Courtesy of Taka Ishii Gallery, Tokyo

2014/04/03(木)(飯沢耕太郎)