artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

2013年度京都芸大博士展

会期:2014/02/01~2014/02/16

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA @KCUA1,2[京都府]

悪天候のせいか、ほかに客がいない。そのためやけに監視のおっちゃんの愛想がいい。会場は2フロアに分かれているが、出品は絵画、彫刻、工芸など合わせて14人(うち6人が外国人名)なのでゆったり余裕の展示。でも作品はパッとしないなあ。蛍光色とラメを多用した中田有美のポップなアンフォルメル絵画が目を引いた程度。

2014/02/14(金)(村田真)

作家ドラフト2014:鎌田友介「D Construction Atlas」展/高橋耕平「史と詩と私と」展

会期:2014/02/08~2014/03/09

京都芸術センター[京都府]

みぞれの降るなか京都へ。まずは建築家の青木淳が選んだ二人の若手作家の個展を見る。高橋耕平は映像作品だが、しばらく見てたけどおっさんが黒板に文字を書いてるだけでなかなか展開しないので出た。鎌田友介はアルミサッシを組んで屏風のようにジグザグに立て、その枠内に角材や画像をはめ込んだ作品。手前のほうは角材を桂離宮かモンドリアンのように垂直・水平に組んだ幾何学的構成だが、奥に進むと斜めの平行線が入って絵巻風になり、さらに一点透視図法的になり、最後は角材が折れて全体が崩壊していく構成だ。その隙間に第2次大戦での京都の被災画像や、米軍による空襲シミュレーション資料が差し挟まれている。解説を読むと「京都における構築と破壊の歴史についての個人的なリサーチとマッピング」云々と書いてある。なるほど作者の意図も視点も納得できるし、それを内外の絵画構造によって示した構成も説得力がある。わかりやすすぎもしないし、わかりにくすぎもしないという意味では優等生的な作品だ。難をいえば、優等生すぎて突き抜けるものがないことか。

2014/02/14(金)(村田真)

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会田誠 展「もう俺には何も期待するな」

会期:2014/01/29~2014/03/08

MIZUMA ART GALLERY[東京都]

「土人」とは、その土地に生まれ住む人。辺境や未開の地に住む土着民を、軽侮の意味を含めて指すことが多い。そのため公共の現場においては差別用語として使用が自粛されている。
本展で発表された会田誠の初監督作品《土人@男木島》は、そのものずばり、土人を主題とした48分の映像作品。瀬戸内海の男木島で暮らす4人の土人を、女性リポーターが取材し、それをテレビのクイズ番組で紹介していくという設定だ。会場の広い壁面にプロジェクターで投影していたが、手ブレが激しく、とても大画面での鑑賞には耐えられないという難点はあるものの、内容としてはきわめて現代性の高い傑作である。
その現代性には、いくつかの補助線がある。例えば、「土人」という差別用語をあえて前面化している点で言えば、異民族を公然と侮蔑するヘイト・スピーチのような今日的な現象を暗示しているのかもしれないし、「土人」があくまでも見られる存在であるという点で言えば、瀬戸内国際芸術祭のようなアート・ツーリズムにおいて現地の住民をそのような一方的な視線で見がちな私たち自身への痛烈な批評性が込められているのかもしれない。だが、もっとも大きな現代性は、土人の文化や文明と現代社会のそれらとを対置したうえで、前者によって後者を相対化している点である。
映像の最後で、女性リポーターは土人とともに筏に乗り込み、海へと旅立ってゆく。いわば、ミイラ取りがミイラになったわけだが、これが「茶番劇」を終わらせるための痛快なユーモアであることは間違いないにしても、同時に、現代の文明社会を打ち棄て、ある種の理想郷を求める欲望の体現であることも事実である。
以前であれば、そうしたユートピアは非現実的な夢物語として一蹴されるか、現実逃避のロマンティシズムとして嘲笑されたにちがいない。けれども、現在、土人とともに原始生活へ回帰するという物語を笑うことができる者は、はたしてどれだけいるだろうか。むろんアートであるから極端な表現ではあるが、理想郷へ脱出する欲望に共鳴した者は少なくないはずだ。会田誠は、現代社会のありようを忌避する一方、それに代わる理想郷を求める願望が以前にも増して高まっている現在の趨勢を、じつに正確に読み取っているのである。アート・ツーリズムに依拠した地域型の芸術祭の隆盛も、こうした文脈で理解することができるだろう。
むろん理想郷の実現可能性は問題ではない。重要なのは、こうした欲望の顕在化が「近代」や「現代」といった価値概念を根本的に再考させる点である。3.11で顕わになったように、現代社会が「近代」の矛盾に直面しているとすれば、それを解決する糸口は「近代」の延長線上で「現代」を先延ばしすることにではなく、むしろ「前近代」にあるのではないか。平たく言えば、私たちは「土人」から「近代人」に成り上がろうと苦心してきたが、どうやら無理があることが昨今明らかになってきた。であれば必要なのは、近代化の徹底を虚空に向かって叫ぶことではなく、近代的な価値基準から排除されてきた「土着性」「封建制」「村社会」などを改めて見直す作業だろう。西洋追従の奴隷根性に貫かれた現代アートも、いま一度そうした視点で組み立て直す理論的な手続きが求められているのではないか。

2014/02/13(木)(福住廉)

藤岡亜弥「Life Studies」

会期:2014/02/12~2014/02/25

銀座ニコンサロン[東京都]

藤岡亜弥は2008年に文化庁の奨学金を得て、1年間の予定でニューヨークに住み始めた。ところが、彼女は滞在予定が過ぎてもそのままニューヨークに留まり、結局4年間を過ごすことになる。藤岡を強く引きつける魅力が、この街にあったということだが、今回の展示を見てなんとなくその正体がつかめたような気がした。
ニューヨークにいた4年の間に、彼女の前には一癖も二癖もある人物たちが次々に登場してきた。虚言癖のある男、マリファナ中毒者、自称「女優」、自己中心的なルームメイト──彼らに振り回され、辟易としながらも、藤岡は同時に強く引き寄せられていく。ニューヨークの住人たちは「みんなが病的で、まじめに滑稽」なのだ。その渦中に巻き込まれ、翻弄されながらも、藤岡はスナップショットの技術を鍛え上げ、カラー暗室に通ってプリントの作業を続けていった。そうやって形をとっていったのが、今回銀座ニコンサロンで展示された「Life Studies」のシリーズである。
タイトルは、藤岡が公園のベンチでページが開いているのを偶然に見つけたという、スーザン・ヴリーランドの小説のタイトルに由来するが、ニューヨーク滞在がまさに彼女にとって「生の研究」であったことが、とてもうまく表明されていると思う。自らの家族を撮影した『私は眠らない』(赤々舎、2009)で高い評価を受けた藤岡の、新たな作品世界の展開をさし示すシリーズであるとともに、日本に帰国した彼女が次に何をやっていくのかという期待を持たせる充実した内容だった。できれば、ぜひ写真集としてもまとめてほしい。
なお、この展覧会は、3月27日~4月2日に大阪ニコンサロンに巡回する。

2014/02/12(水)(飯沢耕太郎)

安齊重男「MONO-HA BY ANZAI」

会期:2014/01/17~2014/01/22

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

安齊重男は1969年頃から日本の現代美術家たちの展覧会を撮影し始めた。当初は純粋に展示の記録として撮影を続けていたのだが、20年、30年と時が経つにつれて、写真の持つ意味が少しずつ変質していったのではないかと思う。当時の現代美術シーンの貴重な記録という意味合いは、もちろん失われているわけではない。だが、それだけでなく、写真家と美術家たちの交流の様子、展示会場を取りまく社会的環境、さらに当事者である美術家たちの個性的な風貌などが写り込んだ、写真家・安齊重男の「作品」として評価されるようになっていったのだ。
今回のツァイト・フォト・サロンでの安齊の個展のテーマは、1970年代前半の「もの派」の作家たちの展覧会場である。取り上げられているのは菅木志雄、小清水漸、榎倉康二、高山登、本田眞吾、関根伸夫、李禹煥、成田克彦、高松次郎、原口典之。吉田克朗の11人。いずれも「もの派」の代表作家として、国内外で高く評価されているアーティストたちだが、当時はほとんどが20歳代の若手であり、世間的にはほぼ無名であった。安齊はむろん展示会場の正確なドキュメントをめざしているのだが、同時に彼らの自然発生的なパフォーマンスがいきいきと写り込んできている。菅、榎倉、関根、高松など、すでに故人となってしまったアーティストも多く、彼らの存在感が作品と共振して、異様なエネルギーの場を形成していることが伝わってきた。48点の展示作品の大部分は、70年代にプリントされたヴィンテージ作品であり、モノクロームの印画紙の生々しい物質感が、やはり彼らの作品と共鳴しているようにも感じた。

2014/02/12(水)(飯沢耕太郎)