artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
カタログ&ブックス | 2022年11月15日号[近刊編]
展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
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ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと
2022年5月3日(火・祝)〜9月4日(日)まで、金沢21世紀美術館にて開催されていた展覧会「ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ:どこにもない場所のこと」のカタログ。
今井俊介 スカートと風景
2022年7月16日(土)〜11月6日(日)まで、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催されていた企画展「今井俊介 スカートと風景」のカタログ。
「北欧デザイン」の考え方
家具、建築、テキスタイル、工芸、グラフィック……「北欧デザイン」の全体像が理解できる決定版 シンプルで洗練されたデザイン家具や日用品が日本でも長年愛されている北欧デザイン。近年では、環境や社会福祉に配慮した素材選びや生産体制など、北欧のものづくりの思想や価値観そのものが、「北欧デザイン」という現代的なデザイン・ライフスタイルとして広く浸透しつつあります。
帝国の祭典 博覧会と〈人間の展示〉
1851年にロンドンで始まった万博。そこでは産業製品が示す明るい未来への欲望と異国の品々が掻き立てる遠方への欲望が交叉し、壮大なスペクタクルをつくり出していた。やがて博覧会は、商品と娯楽の殿堂となり、植民地帝国の威容を示す舞台装置となり、異文化との出会いの場となった。 非西洋の集落をまるごと再現した〈ネイティヴ・ヴィレッジ〉、「異質」な身体を見世物にしたフリークショー、日本初の〈人間の展示〉施設となった人類館……。人々は新たに出会った他者をどのように展示し、世界を認識しようとしたのか。著者による膨大な博覧会資料コレクションから、見ること/見せることをめぐる欲望を問う。
モダンの身体 マシーン・アート・メディア
近代科学とテクノロジーの「知」的産物、広告手段=メディア/身体=人間 「マシーン」「アート」「視覚メディア」「他者」を鍵概念に ロシア、アメリカ、ドイツ、日本、カリブ諸島と広範囲にわたって 戦間期モダニズムにおける身体とメディアの境界 を多角的に論じる!
シベリアのビートルズ イルクーツクで暮らす
著者は、無類のビートルズファンである画家のスラバと結婚し、2018年からイルクーツクに暮らす。
西側の情報が入らないソ連下で、ロック少年として暮らしたスラバは、ペレストロイカをくぐり抜け、激変する社会を生き抜いてきた。
彼の波乱に満ちた人生と、自らの人生を重ねながら、別の価値観で動く社会のなか、人々はどのように暮らしているのか、アートや音楽や文学は、彼らをどのように支えているのか。
戦後日本の抽象美術 具体・前衛書・アンフォルメル
GUTAI、『墨美』、アンフォルメル旋風、数々の神話に彩られた1950年代の関西の美術を「素晴らしい遊び場」ではなく、欧米に由来するモダニズム美術の一つの臨界としてとらえ直すことは可能か。学芸員生活35年を迎える著者が国内外の数々の展覧会カタログに寄稿した論文を通して、浮かび上がる戦後日本の抽象美術の核心。身体と物質、アクションとタブロー、そしてグローバリズム。多くの作家やコレクター、批評家たちと交流する中で日本の戦後美術の連続と断絶を展覧会によって検証してきた著者ならではの視点による戦後美術史の再検証。
試展ー白州模写 「アートキャンプ白州」とは何だったのか
2022年10月29日(土)〜2023年1月15日(日)まで、市原湖畔美術館にて開催されている展覧会「試展-白州模写 「アートキャンプ白州」とは何だったのか」のカタログ。
石を送るメール・アート読本
1969年にスタートし、70年代の現代美術シーンで脚光を浴びた堀川紀夫の《石を送るメール・アート》。その後、さまざまな紆余曲折を経て今なお継続し、国際的な評価を高めつつある稀有なプロジェクトの発端、展開、中断、再開のプロセスを、その都度の作家の判断も交えてクロニクル形式で綴る新たなスタイルの「作品集」。堀川らのGUN(新潟現代美術家集団)や松澤宥、THE PLAYなど、1960年代から70年代にかけて日本の各地に出現した前衛的な取り組みの世界美術史における位置付けや、後にかたちを残さないアートプロジェクトにおける作品と記録の関係を論じる美術史家・富井玲子の論考なども収録。
土偶美術館
40年間、日本各地で縄文資料の撮影を続けてきた小川忠博による土偶写真集。縄文のヴィーナスをはじめ、土偶300点を収録。
美術家たちの学生時代
美術家たちはどのように唯一無二の「自分」を確立してきたのか。舟越桂、塩田千春、千住博、町田久美、山口晃など、第一線で活躍する美術家たちにインタビュー。学生時代の話を中心に、知られざるバックボーンに迫る。
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2022/11/14(月)(artscape編集部)
エバレット・ケネディ・ブラウン『Umui』
発行所:サローネ フォンタナ
発行日:2022/10/30
1959年、アメリカ・ワシントンD.C.生まれの写真家、日本文化史研究家のエバレット・ケネディ・ブラウンは、このところ初期の写真技法である湿版写真(Wet collodion process)で日本各地の風景、人物、祭事などを撮影している。沖縄県立芸術大学客員研究員(歯科医師、わらべ唄研究家)の高江洲義寛が監修した本作では、沖縄各地を湿版写真で撮影した。
ブラウンが写真撮影を通じて見出そうとしたのは、沖縄人の魂の表出というべき「 UMUI=ウムイ」の在処である。「UMUI」は「思い」と表記されることが多いが、ブラウンによれば「心の中に湧き上がる祈りや感情」であり「生命の叫び」でもある。沖縄の人々、大地、植物、遺跡などに漂う「UMUI」はむろん目に見えたり、手で触ったりできるものではない。だが、あえて露光時間が長くかかり、暗室用のテントで、撮影後すぐに現像・定着をしなければならない湿版写真で撮影することで、被写体をオーラのように取り巻く「UMUI」を捉えようと試みている。そこにはたしかに、沖縄の地霊を思わせる何ものかが、おぼろげに形をとりつつあるように見えてくる。
もう一つ興味深かったのは、そこに写っている沖縄の人たちのたたずまいが、太平洋のより南方の地域に住む人々と共通しているように見えることである。これには理由があって、ガラスのネガを使う湿版写真は、赤に対する感度が低いので、肌や唇の色がやや黒っぽく写ってしまうのだ。だが、そのことによって、沖縄の精神文化がむしろ南方の環太平洋地域に出自をもつものであることが、問わず語りに浮かび上がってくる。日英のテキストと写真とを交互に見せる写真集の構成(デザイン=白谷敏夫)もとてもうまくいっていた。
2022/11/05(土)(飯沢耕太郎)
藤原更『Melting Petals』
発行所:私家版
発行日:2022/10/22
藤原更はユニークな軌跡を描く写真家である。コマーシャル・フォトの世界からアート写真の世界に転じ、2000年代以降は東京・広尾のEmon Photo Gallery(2020年に閉廊)を中心に展覧会を積み重ねていった。ポラロイド写真などによって制作した画像を大きく引き伸し、ギャラリー空間にインスタレーションした作品は、アメリカやヨーロッパ諸国でも評価が高い。今回、町口覚のデザインによって私家版で刊行された『Melting Petals』は、彼女にとっては最初の本格的な写真集となる。
写真集は「Scattered Memories in the Field of Transience(うつろいゆく領域にちりばめられた記憶)」「VOID: Inseparable Domains(空虚:分割できない場所)」「Uncovered Present(見出された現在)」の三部構成であり、それぞれ5~7枚の写真が収められている。ほとんどは色面とフォルムに単純化された抽象的なイメージであり、ポラロイド写真の感光乳剤を剥がしとる「ピーリング」と称する技法を駆使することで、日常の世界からは離脱する幻影のような空間が構築されていた。
とはいえ、主に赤と緑のグラデーションによって織り成された画像は、奇妙に生々しい現実感もまた備えている。それは、これらの写真群の被写体となっているのが、芥子の花(ポピー)であることからもきているのだろう。芥子の花はいうまでもなく阿片の原料でもあり、美しさだけでなく、ある種の魔術性、どこか禍々しい気配を秘めている。藤原はそのあたりを十分に考慮しつつ、ともすれば紋切り型になりがちな「花」の写真に、既存の価値の原理を掻き乱すような要素を付け加えようとした。
たしかに、これまで藤原が発表してきた「花」や植物の写真と比較しても、「Melting Petals」は特別な意味をもつシリーズといえる。とはいえ、藤原の写真家としての可能性は、本写真集におさめられた23枚の写真群だけに収束していくものではないはずだ。むしろその仕事の幅を、さらに広げていくべき時期に来ているのではないだろうか。なお、写真集刊行に合わせて、東京・銀座の森岡書店で出版記念展も開催されている(2022年10月25日〜30日)。
関連レビュー
藤原更「Melting Petals」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2019年08月01日号)
2022/11/04(金)(飯沢耕太郎)
王露『Frozen are the Wind of Time』
発行所:ふげん社
発行日:2022/10/22
王露(Wang Lu)は1989年、中国山西省出身の写真家。武蔵野美術大学、東京藝術大学で写真を学び、いくつかの賞を受賞している。本作は、2021年にふげん社で開催された同名の個展に出品されたものだが、その時点から写真の数を大幅に増やし、構成も大きく変えて面目を一新し、ハードカバーの写真集として刊行した。同時期に、キヤノンオープンギャラリーで個展も開催している(2022年10月29日~12月1日)。
写真作品の重要なテーマになっているのは、王露自身の父親である。父親は彼女が12歳の時、事故によって脳に損傷を負い、社会生活が難しくなった。記憶が曖昧になり、精神的な障害もある。写真集は事故以前の、若く、幸せそうな父と母の写真の複写から始まり、帰省のたびに二人を撮影した写真が続く。父親が、撮影を拒否するように手で顔を隠す写真が繰り返し出てくるが、不安と諦念を抱え込んだ母親の表情とともに強く印象に残る。撮り続けなら、彼らの生、自分との関係のあり方について、王が自問自答している様が切々と伝わってくる。とはいえ、ネガティブな印象はあまりなく、見つめ続けることで認識が深まり、写真家としての自覚に繋がってくることがよくわかる構成になっていた。
家族の写真に加えて、もう一つ大事なのは、生まれ故郷で、現在も父母が暮らす山西省太原市の環境の変化が丁寧に描写されていることだ。ほかの中国の大都市と同様に、太原市もここ10年余りで都市化が急速に進行し、大きく変貌していった。その移りゆきと、病を抱え込んだ家族の姿とが対比されることで、本作は単純な「私写真」の枠に収まることなく、より大きなスパンを備えた社会的ドキュメンタリーとして成立している。今後の彼女の仕事への期待が高まる作品集だった。
2022/11/04(金)(飯沢耕太郎)
守屋友樹『スポンティニアスリプロダクション #5「蛇が歩く音|walk with serpent」』
出版:守屋友樹
発行日:2022/03
アーティストである「守屋友樹」をTwitterで検索するとたくさんの作品写真がヒットする。それらの大部分は、だれかの作品の記録で、その撮影者として守屋の名前がクレジットされているのだ。守屋は京都を中心に関東圏も含め10年近く作品写真を撮影してきた。そして、守屋は自身の作品も同様に記録撮影を行なってきた。
写真を中心としたインスタレーションを展開してきた守屋の特異性は、自身の2015年の個展「gone the mountain / turn up the stone:消えた山、現れた石」(Gallery PARC)以降、自身の展覧会が終わるとほぼ同時に毎回、インスタレーションビューのゼロックスコピーのZINEを制作してきたということにあるだろう。シリーズ名「現れた本」。2022年には、展覧会「すべとしるべ 2021 #02『蛇が歩く音 / walk with serpent:守屋友樹』」のバージョンがつくられた。
山に登ると、視界から山は消え、石が現われる。守屋はつねに境界を指さすことができるようになるものとして写真を示す。わたしは、ベンヤミンが山の稜線や木漏れ日を引き合いに出し写真を論じた理由がわかったような気がした。指示詞を可能にするものとしての写真。「かつてあった」でもなく、「これ」について話し合うことができるようにする力を持つもの。
展覧会に行くと、作品が現われる。ふりかえったらもうなくて。でも、守屋の場合は本が現われる。会場だった場所に数冊だけ預けてあって、それに気付くことができた人やたまたま知った人は、本を手に入れることができる。
2014年の展覧会を見て、守屋から「現れた本」の構想を聞き、そこでわたしは守屋に美術家のアーティ・ヴィアカントが展覧会の記録写真を作品とは別の「イメージ・オブジェクト」として考え、流通させている話を伝えた。ヴィアカントは展覧会を観に来られる人以外に向けた作品として展覧会写真を制作しているわけであり、オブジェクトの正面性から逸脱したイメージオブジェクトを制作することはない。一方で守屋が行なっているのは、インスタレーションにおける複数的な正面を示すことであり、(会場で受け取る、会場で「現れた本」が欲しいと申し出るといった手順が必須であるため)会場がどのようなものであるかという前提を理解した者だけに明かされる、隠しイベントの開示、ボーナストラックとでも言えるだろう。
ヴィアカントが写真の複数性、すなわち、可変的であらゆる媒体に載ることができる、という性質に則り「イメージオブジェクト」を語るなら、守屋は写真の指示性、すなわち、前提とする知識を揃えたうえで初めて「これ」「それ」「あれ」を可能にする、発話的なものとしての写真に向き合う。
守屋の作品には、イノシシやヘビやクマといった動物と人間の遭遇がモチーフとして現われる。自然と文化の混交、郊外と山際という曖昧な境目を作品たちは「これ」と示す(ホンマタカシ以降の郊外を考えるうえで重要なアーティストとしても、守屋を位置づけるべきだろう)。しかし、いずれの動物も作中にずばり登場することはない。その被写体の不在性は観者をつねに戸惑わせてきた。写真と対面しても、何が起きているのかがわからないというように。それは、何かが起こる直前の、未然の写真として造形されることもあれば
、気配の造形であることもあった 。守屋の写真は、写真を見るものの背後をつくる。それは決して見ることができない。でもそれで終わらせないのが守屋である。見ることができないこともまた指示詞にする。それが「現れた本」だ。このような意味において、守屋の作品造形は特異的である。『スポンティニアスリプロダクション #5「蛇が歩く音|walk with serpent」』詳細:https://www.parcstore.com/esp/shop?pid=MY1-03-004
2022/11/01(火)(きりとりめでる)