artscapeレビュー

金川晋吾 写真展 “father”

2016年08月15日号

会期:2016/07/13~2016/07/24

gallery Main[京都府]

金川晋吾の「father」は、ある日ふらっと家を出て「蒸発」を繰り返し、離婚・失職して単身アパートで暮らす父親を撮った写真シリーズ。同名の写真集の出版を記念した個展が開催された。展示は2つの要素で構成され、2008年~09年にかけて金川が父親とその暮らしぶりを撮影したカラー10数枚と、父親自身がほぼ毎日「自撮り」したセルフポートレイト計5年間分が、1年分ずつ分厚い本にまとめて展示されている。
金川が父親を撮った写真には、肉親でありつつも蒸発を繰り返す不可解な存在に対して、カメラをコミュニケーション・ツールとして接近と隔たりの振幅を行き来しながら、掴みきれない距離感のもどかしさが露呈しているように感じられた。公園を散歩する父を遠目に捉えたショット、窓ガラスやテーブル、ソファなど遮蔽物を介したポートレイト。窓ガラスにおぼろげに反映した父親の姿は、外の風景と二重写しになり、存在を希薄化させている。そうした心理的な距離感を感じさせる写真がある一方で、無防備な寝顔やクローズアップなど、親密な距離感を感じさせる写真もある。父親の像は、尊厳をもった一人の個人と、ただ置物のようにぶっきらぼうにそこにある中年の肉体とのあいだで揺れている。また、父親が「不在」の部屋を撮った写真では、家具も何もない剥き出しの空間が、不在感や生活感の希薄さを強調する。散らかったテーブルの上の置き手紙のようなメモには、「やっぱり生きていくのが面倒くさい」という一行が記されている。
一方、父親自身が撮ったセルフポートレイトは、2009年4月の開始から、計5年間分が時間の束として蓄積している。この撮影行為は、金川が35mmフィルムのコンパクトカメラを父に預け、「毎日一枚、自分の顔を撮る」ことを依頼して始まったもの。父親はこの依頼を律儀にほぼ忠実に遂行している(「ほぼ忠実に」というのは、ところどころ、1日から数日間、日付が飛んでいるからであり、その欠落は彼の「蒸発期間」を示す)。撮影行為を5年間続けている執念は、作家性への接近を感じさせる。だが分厚い写真の束をめくるうちに、眉根を寄せ気味の無表情が延々と続く羅列が、異様さを否応なしに増幅させていく。均質な表情、ほぼ同じアングルと背景。ページを繰るたびにカウントされていく日付が、同じ一日を延々と反復している感覚を逆説的に露呈させる。どの日を切り取っても均質であり、社会と関わることを拒絶したこの人の内側では、時間が止まっているのではないかと思わせる。自分の存在を記録化して残すというより、ひたすら自己の消去に向かって撮影行為を繰り返しているように思え、狂気的な様相をはらんでいるのだ。それは、SNSや画像共有サイトに溢れる「セルフィー(自撮り)」における、他者からの承認欲求(=「いいね」が押された数)とは根本的に異なる態度である。自らにレンズを向けてシャッターを切り続ける彼の眼は、他者も、自分自身の内面も、何も見ていない虚無なのかもしれない、と思わせる怖さがにじんでいる。
「作品」という明確な意志の下に遂行された行為でもなく、「ささやかな日課」と言うには逸脱した行為の過剰さ。だがそこには、存在証明(「蒸発中」でないことの文字通りの証)、息子からの依頼に応えるというコミュニケーション的側面、ポートレイト(の複数性)がはらむアイデンティカルな問題に加えて、「写真と眼差し」、「写真は内面や本質を写し取れるのか」という問いが浮かび上がっていた。

2016/07/23(土)(高嶋慈)

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