artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
秋岡芳夫全集1 秋岡芳夫とKAKの写真
会期:2013/02/16~2013/03/24
目黒区美術館[東京都]
2011年秋に目黒区美術館で開催された工業デザイナー秋岡芳夫(1920-1997)の展覧会(「DOMA秋岡芳夫展──モノへの思想と関係のデザイン」2011/10/29~12/25)★1は、童画、家具、工業デザイン、学研の付録、クラフトなど、秋岡が生涯にわたって手がけたさまざまな仕事を概観するものであった。秋岡家にはまだまだ多数の作品や資料が大切に保存されており、目黒区美術館では今後テーマを決めてこれらの資料を徐々に紹介していく予定であるという。第一弾となる本展では、秋岡が河潤之介、金子至と1953年に立ち上げたデザイン事務所KAKで仕事をしていた1950~60年代に所員らとともに撮影した写真のアルバムが展示されている。
写されたものは、秋岡が制作した紙のオブジェであったり、家族や事務所のスタッフの写真、カメラなどに刻まれたレタリングのクローズアップであったり。これらが引き延ばされ、レイアウトしてアルバムに貼り込まれている。京都・奈良で撮影された社寺のディティールには、石元泰博の写真を彷彿とさせるものもある。秋岡にとって写真を撮るという行為はどのような意味を持っていたのだろうか。
目黒区美術館の降旗千賀子学芸員によれば、秋岡とKAKの仕事には常に遊びの要素があり、また遊びの要素が仕事へと還元されていたという点で、イームズ・オフィスの仕事のスタイルに重ねてみることができるという。秋岡の童画や版画は装幀の仕事へとつながり、さまざまな手仕事は学研『科学』の付録教材などと密接に関わっている。イームズ・オフィスでは写真を撮ることは日常的な行為であったという。たとえば、小包が届くとまずその包装が撮影される。チャールズ・イームズは、あるとき姉から電話でハリケーンの被害と家族の無事についての報告を受けたときに、「それなら良かった。でも写真は撮ったの?」と返事をしたという★2。彼らの写真も同様の視点から紐解くことができようか。事務所員の自然な表情、目・鼻・口のクローズアップは仕事のかたわらに撮影されたものであろう。こうした写真やアルバムは対外的に発表されるものではなく、所員のあいだで互いに交換され、それぞれのアルバムに収められたという。このため、残された写真の撮影者は必ずしも明確ではないが、それもまた秋岡とKAKの仕事のスタイルを物語っているのではないだろうか★3。写真撮影は、仕事の記録やプレゼンテーションのための材料であるばかりではなく、カメラや露出計のデザインを手がけていた秋岡にとってはメカニックを確認する仕事の一部でもあり、また所員や家族とのコミュニケーションの手段でもあったのだ(「記憶写真」展と併催)。[新川徳彦]
2013/02/21(木)(SYNK)
記憶写真──お父さんの撮った写真、面白いものが写ってますね
会期:2013/02/16~2013/03/24
目黒区美術館[東京都]
ここに展示されている写真は作品として撮られたものでもなく、報道用に撮影されたものでもない。記録を意図していたかどうかもわからない、普通の人々が見た街の風景である。撮影は1960年代から70年代。めぐろ歴史資料館の所蔵品からピックアップされ、拡大プリントされた写真が「都市と農村」「人々と駅」「商店街」「祭」「学校の子どもたち」といったタイトルの下にゆるくまとめられている。キャプションも最低限。
展覧会のタイトルは「記憶写真」。人はふとした拍子に過去の体験や記憶を呼び覚まされる。そのきっかけとなるのは、音楽であったり、風景であったり、匂いであったり、味であったり。それが必ずしも自分自身の体験と交差したものではなくても、埋もれていた記憶が蘇ることがある。この展覧会の写真もそのような記憶を呼び起こすトリガーである。写真に写った建物、看板、人、ファッション、自動車やバス、電車、川や橋、教室、祭の風景、季節の移ろい……。撮影者はなんらかの意図があってその写真を撮ったのであろう。その時代の風俗を読み解く歴史資料としての写真の見方もあるだろう。しかし、そのような理屈は考えずにこれらの写真と対峙したときに、私たちは目にしたものを自分自身の知識や体験に重ね合わせたり、それをきっかけに子ども時代のこと、青春時代のことを思い出す。そこに何が浮かび上がってくるかは写真と鑑賞者とのあいだに一対一で成立する関係であり、この展示が見せてくれるのは他の人が追体験することができない無二の世界なのである(「秋岡芳夫とKAKの写真」展と併催)。[新川徳彦]
2013/02/21(木)(SYNK)
せんだいスクール・オブ・デザイン 2012年度秋学期学内講評会
会期:2013/02/15
KatahiraXプロジェクトルーム、ギャラリートンチク[宮城県]
せんだいスクール・オブ・デザインの学内講評会を行なう。メディア軸のスタジオの成果物は、現代美術を特集した『S-meme』5号である。今回の内容は、受講生全員による志賀理江子「螺旋海岸」展レビューとsmtの担当学芸員・清水建人さんのレクチャー、そしてスローウォークの実践という二本柱だ。そのほか、拝戸雅彦によるあいちトリエンナーレと、住友文彦の前橋、横浜、別府における地方とアートのレクチャーも収録した。そして螺旋海岸展とスローウォークの運動をヒントに、蛇腹形式を三ひねりくらいした前衛的な装幀デザインが最大の特徴である(全体を開くと一直線ではなく、S字になり、菊判一枚に)。また印刷機を活用したグラデーション印刷の手法も実験した。いずれも紙の媒体でしかできない読書の体験をもたらす試みである。
2013/02/15(金)(五十嵐太郎)
藤原敬介『インテリアデザイン──美しさを呼び覚ます思考と試行』
インテリア・デザイナーの藤原敬介が自ら手掛けたプロジェクトの紹介を通じて、デザインの実践とそこに至る思考のプロセスとを記した書。著者は、人の琴線に触れて感動を与える「美しさ」とは次の四要素にあると考えている。ひとつ目が「曖昧であること」、言葉では曰く言い難いもの。二つ目が「呼び覚ました姿」、日常生活に潜んでいるが気付きにくいもの。三つ目が「変化のかたち」、時とともに変わりゆくもの。四つ目が「可能性の追求」、よりよき未来をつくるための〈挑戦・検証・確認〉という行動が美しさの創成に繋がるという。デザイン行為に内包される問題解決に至るまでのプロセス──アイディアの連なりと幾多の試行──が、実例に即して語られている。普段は「完成形」としてのモノやインテリアしか見ない私たちにとっては、それがデザインをより深く理解するために参考になる。「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」のショップデザインを手掛ける藤原は、デザインに悩むとき、三宅一生の次の言葉を思い浮かべると述べている。曰く、「デザインの仕事はじつに面白い。私がこの仕事をなんとかめげずにやってこられたのは“デザインには悲しみがそぐわない、デザインには希望がある、そしてデザインは驚きと喜びを人々に届ける仕事である。”というまことに単純素朴な理由からである」と。読後、身の周りの環境をもう一度見渡して、諸感覚を研ぎ澄ませたくなる本である。[竹内有子]
2013/02/15(土)(SYNK)
田中一光:デザインの世界──創意の軌跡
会期:2013/01/12~2013/03/20
奈良県立美術館[奈良県]
巨匠グラフィックデザイナー、田中一光の没後10周年回顧展。「産経観世能ポスターシリーズ」などの代表作も出品されているが、本展の目玉はなんといっても、田中によるアートの試みに焦点を当てていることだ。とくに「グラフィックアート」の章では、図案化されたロープの作品や、漢字の「つくり」と「へん」が画面に浮遊する作品、幾何学的に抽象化された花や顔の作品など、彼の造形上の実験が堪能できる。田中曰く、グラフィックアートは「デザインで汚染された私の頭の中を真っ白にしてくれる」ものだった。それゆえ、これらの実験的作品にプッシュピン・スタジオや琳派との共通性を見出すことはあまり意味がなく、むしろそれらの作品は、田中がクリエイターとしての原点に返るための作業であったとみなすべきだろう。これらの作品はアートと言うよりはデザイン的であり、また、デザインと言うよりはアート的である。その未分化なもののいくつかは、後に「グラフィックデザイン」へと成熟させられるのだ。余談になるが、筆者は1990年代末に田中氏と仕事上の打合せをしたことがある。氏が多忙ゆえ、打合せ時間は15分と決められていたが、短い時間のあいだに多数の事柄を瞬時に理解され、適切な判断を矢継ぎ早に下される氏の知性には驚きと敬服の念を抱かずにはいられなかった。その想い出があるためだろうか、本展の最後の章で新発見の資料として展示された田中氏の若き頃の人体デッサンや油彩画を目にして、ふと、分刻みのスケジュールに追われるデザイナーから素の人間へと返る氏の姿を想像した。生気あふれるデッサンや油彩画は彼の心象風景であったのだろうと思う。[橋本啓子]
2013/02/03(日)(SYNK)