artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
ウィーン工房1903-1932──モダニズムの装飾的精神
会期:2011/10/08~2011/12/20
パナソニック電工 汐留ミュージアム[東京都]
ウィーン工房は、「総合芸術」を掲げ、建築家のヨーゼフ・ホフマン、デザイナーのコロマン・モーザー、そして実業家のフリッツ・ヴェルンドルファーによって設立された企業である。デザイン運動の文脈では、アーツ・アンド・クラフツ運動に共鳴して職人技術の復権を目指し、デザイン、生産から流通まで、すべての過程にデザイナーとクラフツマンの双方が関わる工芸家集団の誕生、ということになろうか。思想的な側面では、ものづくりに対する姿勢・思想や、アドルフ・ロースによってなされた批判との関連で論じられよう。しかし、今回の展覧会はそのような文脈とはまた異なる視点からウィーン工房を取り上げている。すなわち、工房の経営体制と彼らのものづくりとの関係、その変化が主題である。
展覧会は、経営体制の変化がデザインに及ぼした影響を明らかにする。大きな変化はふたつ。ひとつはモーザーの脱退(1907年)。これは工房経営の資金繰りに窮したヴェルンドルファーが、資産家の出身であったモーザーの妻に多額の貸付を依頼したことにモーザーが憤慨したためであるという。その結果、工房の特徴であった幾何学的な文様が失われ、花などの装飾的要素が増えていったとされる。もうひとつは1914年。ヴェルンドルファーが経営から離れ、新たな出資者を得て工房は有限会社へと移行。工場生産品を重視し利潤を追求する企業へと変化するなかで、女性向けの服飾製品、装飾品作りへと進出する。その後、経営を軌道に乗せるためにさまざまな努力がなされたものの、1929年の世界恐慌を経て1932年に閉鎖を余儀なくされるのである。工房のつくりだすものが時代によって変遷した理由は、直接的にはデザイナーや職人の異動によるものかもしれないが、デザイナーや職人が代わった原因は経営体制の問題であったことが示される。
図録に寄せられたエルンスト・プロイルの論考「ウィーン工房の経営史──波乱の末のアンハッピーエンド」は工房の財政状況を詳しく描いている。ウィーン工房は30年ほどにわたって経営を続けた。これは短い期間ではない。しかし、質の高い職人によるものづくりに対して、長期にわたり経営を成り立たせるほどの需要があったかというと、けっしてそうではない。それどころか、最初からビジネスになるような十分な需要は存在しなかったし、彼らが市場や顧客を十分に理解していたとは言えないことを指摘しているのである。ものづくりの理想は何故に破綻してしまったのか。ウィーン工房の失敗に学ぶことは多い。[新川徳彦]
2011/11/23(水)(SYNK)
シャルロット・ペリアンと日本
会期:2011/10/22~2012/01/09
神奈川県立近代美術館 鎌倉[神奈川県]
ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレとの共同作業を契機に、建築家、デザイナーとしてユニークな仕事を残したシャルロット・ペリアン(1903~99)と日本とのかかわりあいを丁寧に辿った展覧会である。ペリアンは1940年に商工省の輸出工芸指導顧問として来日。パリのル・コルビュジエの事務所ですでに親交があった坂倉準三、民芸運動の創始者、柳宗悦、その息子のデザイナー、柳宗里、陶芸家の河井寛次郎らの助けを借りて「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」(通称「選択、伝統、創造展」、1941)を成功させた。また1953年にも再来日し、「芸術への総合の提案──コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」(1955)を開催した。彼女の竹や木を素材とした家具のデザインは、日本の伝統的な工芸品からヒントを得たものが多く、モダニズムが一枚岩ではないことを示す興味深い作例といえる。
今回の展示で特に注目したのは、ペリアンの写真作品である。彼女は1930年代から6×6判のフォーマットのカメラを使って、折りに触れて写真を撮影していた。建築やデザインのための資料という側面もあるし、来日時の写真などはいきいきとした旅の記録になっている。だが、本展の最初のパートに「『生の芸術』と『見出されたもの』」と題して出品されていた、1933~35年頃の写真群は、純粋に「写真」としての可能性を追求したものであるように思える。被写体になっているのは、岩、樹、氷、金属などの「生の」物質であり、それらをストレートに接写している。彼女の興味を引いているのはそのフォルムや質感などだけではなく、むしろそこに潜んでいるアニミスム的な生命力だったのではないだろうか。ちょうど同じ頃に、多くのシュルレアリスムやモダニズムのアーティストたちを捉えていた原始美術や人類学への関心を、彼女も共有していたのだ。「写真家」ペリアンという視点から、彼女の仕事を見直すこともできそうだ。
2011/11/22(火)(飯沢耕太郎)
7つの海と手しごと〈第2の海〉「北極海とイヌイットの壁かけ」
会期:2011/011/12~2011/12/18
世田谷文化生活情報センター「生活工房」[東京都]
会期:2011/11/12~2011/12/18
会場:世田谷文化生活情報センター「生活工房」
地域:東京都
サイト:http://www.setagaya-ac.or.jp/ldc/
「7つの海と手しごと」と題し、海をくらしの中心とする人々のクラフトを紹介する企画の二回目。北極海の雪原に生きるイヌイットのつくるフェルトの壁掛けを取り上げている。かつてイヌイットの人々は、動物の骨から針を、腱から糸をつくり、毛皮の服や靴を仕立てていた。現在ではこれら防寒具の素材はダッフルに変わったが、その余り布に鮮やかな色彩のフェルトを施して壁掛けをつくっているという。おもなモチーフは、狩猟を中心としたイヌイットたちの生活の姿。これらがフェルトと刺繍糸によって、具象的に描かれている。展示されているフェルト製の人形も非常に具象的である。そこには生活の姿を記録に留めておこうという意識も働いているのだろうか。一回目の「クナ族のモラ」では装飾の技法や歴史の解説、現地に取材したビデオの上映があったために刺繍を手掛ける女性たちの生活の姿を良く知ることができたが、今回の展覧会にはそのような解説が乏しかったことが残念である。イヌイットたちはいつ頃からこのような刺繍を手掛けるようになったのか。刺繍はどのように利用されているのだろうか。[新川徳彦]
2011/11/18(金)(SYNK)
世界の絣
会期:2011/10/14~2011/12/17
文化学園服飾博物館[東京都]
日本の絣を中心に、世界の絣の織物の文様と技法とを比較する展覧会。英文タイトルは「IKAT textiles from the world」。IKATとは「絣(かすり)」のことで、辞書によるともともとはマレー語で、しっかり結ぶという意味なのだという。日本語の「絣」は文様の境に生じる「かすれ」に由来する。斑に染め分けた糸を織り上げることで文様が浮かび上がる。現在は世界各地に見られるこの技法は、もともとインドを発祥の地として、内陸ルート、海用ルートを通じて5世紀に中国、6~7世紀にはインドネシア、そして10世紀には北アフリカに伝わったという。この技法が日本に伝わったのは7世紀であるが、広く普及したのは明治から昭和初期とされる。伝統的な技法という印象を受けていたが、その普及は意外にも新しい。技法的には経糸のみの縦絣、緯糸のみの緯絣、経糸緯糸ともに染め分けた糸を用いる縦緯絣とがあり、なかでも複雑な縦緯絣が行われているのは、日本とインドネシア、インドの一部のみだそうだ。捺染とは異なり、自在に文様を表すことはできないが、技術的な制約は独自の美を生み出す。そして類似の技術を用いながらもその美の方向性が地域によって異なっている様はたいへん興味深い。[新川徳彦]
2011/11/16(水)(SYNK)
柏木博『デザインの教科書』
デザイン評論家・柏木博の「デザインについて、制作者の視点からではなく、使い手つまり受け手の側から見ることをテーマにしている」最新刊。著者によるこれまでの論述の総論的内容の「教科書」でありながら、今日的な新しい観点も加味されている。はじめに、「デザイン」を考えるためのいくつかの視点──「心地良さという要因」「環境そして道具や装置を手なずける」「趣味と美意識」「地域・社会」──が提示され、これらのキーワードが各章に敷衍されている。なかでももっとも興味深いのが、第4章「シリアスな生活環境のためのデザイン」および第5章「デザインによる環境問題への処方」であろう。「ソーシャル・デザイン」「環境デザイン」「コミュニティ・デザイン」などの言葉がますます注目される現在、とりわけ3.11を経験した私たちにあっては、この領域に関するより具体的な記述を今後期待したいところだ。本書では、互いの章や各記述が連関しあって「デザイン」の歴史的展開やその重層的な意味が浮かび上がるという形式はとられてはいない(例えば、最後の第8章はデザイン・ミュージアムの事例について記述されている)。雑誌連載の著述に加筆されたため、著者の関心事に応じて構成されているからだ。とはいえ、本書に述べられている通り、「もう少し柔らかく、デザインをどういう視点から見ればいいか」を知りたい読者には最適の書である。[竹内有子]
2011/11/13(日)(SYNK)