artscapeレビュー

『サウルの息子』

2016年02月01日号

新宿シネマカリテほか[東京都]

アウシュヴィッツにもユーモアがあったと、ヴィクトール・フランクルは『夜と霧』であの日々を振り返る。彼によれば「ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにものか」だ。
絶滅収容所では、千人単位で運ばれてきたユダヤ人を、次々とガス室に押し込め、死体を焼かねばならない。その仕事を遂行したのはゾンダーコマンドと呼ばれた同じユダヤ人だった。数カ月間その「絶滅」の任務を負うことで生きながらえた後、ゾンダーコマンドの一人であるサウルには証拠隠滅のため皆と同じ運命が待っている。サウルはあるとき、死体となった息子を見つける。息子をユダヤ教の祈りのもとで埋葬したい。そう思った瞬間、いったん失われていた「人間という存在にそなわったなにものか」をサウルは回復し、過酷で過密な労働をかいくぐって、運命が定めたのとは別の生を生き始める。
「アウシュヴィッツ」をテーマにした映画に向けてこんなことをいうのは不適切かもしれない。だが、絶望的な状況に無表情で挑むサウルは、まるで『ミッション:インポッシブル』の主人公のようだと思ってしまった。さもなければ処刑台の前で「この髭だけは大逆罪を犯していないからね」とユーモアを飛ばす、トーマス・モアのようなユーモリストのようだ。フロイトはユーモリストのなかに「自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹」を見た。心を苦しめてくるものに対する徹底的な抵抗は、死の瀬戸際でも、いや、死の瀬戸際であるからこそ求められるのだ。ただし、一点、サウルの行動を「自己愛」と解釈するのでは片がつかない点がある。それは息子への愛が彼をそう変容させたというところだ。
ところで、サウルの息子は本当にサウルの子なのだろうか。あれはお前の子ではないと彼の仲間は言う。そうしたセリフは、サウルが誤解しているとか、サウルを不憫に思ってということより、サウルの行動がより普遍的な未来へ向けられていることを示唆してはいないか。幽霊のように少年がサウルの前に現われるラストシーン。その少年がたんにサウルの息子ではないことは重要だ。少年が森のなかを走り逃げるところで映画は終わる。この少年は変容したサウルが救い出した未来の子ども(=私たち)であり、あるいはその子どもが生きているあいだに示すべき「人間という存在に備わっているなにものか」だろう。


映画『サウルの息子』予告編

2016/01/27(水)(木村覚)

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