2023年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』

会期:2022/08/10~2022/08/11

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

2019年の初来日で反響を呼んだ『THE GREAT TAMER』に続く、ギリシャ人演出家ディミトリス・パパイオアヌーの最新作の日本ツアー。台詞が一切ないまま、ギリシャ彫刻のように鍛え上げられたダンサーの身体美により、西洋美術や聖書、ギリシャ神話を思わせるイメージが次々と「活人画」として美しくもナンセンスに展開する魔術的なトリックは本作でも健在で、(後述する「開口部」の存在も含め)続編的といえる。タイトルの「TRANSVERSE ORIENTATION」とは、「蛾などの昆虫が、月などの遠方の光源に対して一定の角度を保ちながら飛ぶ感覚反応」を指し、光源が近距離の人工の光に替わると、角度が狂うという。

本作は2種類の「光(源)」の演出が印象的だ。舞台装置は一見シンプルで、上手側にドアと水道の蛇口、下手側の高所に1本の蛍光灯が付けられた横長の「壁」が設置されている。無機質な青白い光を放つ蛍光灯は、警告を発するようにバチバチと音を立てて明滅を繰り返し、何度も「修理」される。一方、オレンジ色の光で舞台を満たす投光機が台車に載せて運び込まれ、ダンサーたちのシルエットを動く「影絵劇」として変容させ、何度も観客席に向けて投射され、見る者の目をまばゆく眩ませる。光/影の対比、無意識の闇に対する理性としての光、その危機的失調、イリュージョンを生み出す光(源)など、本作のテーマが凝縮される。



[© Julian Mommert]


『THE GREAT TAMER』では、ベニヤ板を張り重ねた「舞台」の上で西洋美術史や聖書、神話から抽出したイメージが「白人の身体(ヌード)」によって演じられる一方、その「ヨーロッパの歴史的地層」のあちこちに開けられた「穴」「開口部」から、バラバラ死体や骸骨などグロテスクなイメージが噴き上がり、「ヨーロッパの抑圧された下部」を示唆していた。本作でも、「壁のドア」の向こう側から、「極端に小さい頭とひょろりと長い腕をもつ真っ黒な人間(?)たち」「スーツ姿に牛の頭部をもつミノタウロス」といった奇妙な者たちが「光の照らすこちら側」にやって来る。あるいは、ドアを開けると、向こう側は巨大な白い石を積み上げた壁で塞がれ、その「石」がこちら側に人間もろとも延々と吐き出され、奔流となって飲み込んでしまう。垂直から水平に置き換わったこの「ドア」は、「ヨーロッパ」という「理性の世界(光)」が抑圧してきた「無意識」「暗部」「異界的狂気」への通路なのだ。

また、『THE GREAT TAMER』と同様、上半身+下半身、右半身+左半身を「合体」させたダンサーによる「両性具有者」「半人半馬のケンタウロス」や「男性の人魚」といったジェンダーや種の境界を撹乱する身体が跋扈する。牛頭人身のミノタウロスは剣を持った男(テセウス)に「断首」(=去勢)されるが、後半でテセウスは、腕に抱えた牛頭から舌の愛撫を受けて悶絶する。



[© Julian Mommert]


ただ、前作以上に強く感じたのは、「ヨーロッパの精神文化が(真に)抑圧してきた二項対立かつ非対照的なジェンダー構造」はむしろ温存され、男性中心主義的視線がより強化されている点だ。ブラックスーツに身を包み、匿名化・均質化された男たちと、癒しであり欲望の源泉でもある「水」を与える神聖化された(唯一の)女性。男たちの集団は「巨大な黒牛」のシルエットと同化し、脚や尻尾を本物の牛のように操りながら、「闘牛」「野生の調教」に従事する。一方、荒ぶる牛の背に全裸でまたがり、股間の果実を裸の男に与える女は、エウロペかつエヴァであり、「男に略奪される女/男を誘惑する女」という両極に定型化されたイメージを二重に身にまとう。老いて太った全裸の女が杖をつきながらゆっくり舞台上を横切り、ドアの向こうに姿を消した一瞬後、ドアが開くと「均整の取れた肢体の若い女」に入れ替わっているシーンはマジカルだが、なぜ、女性のみ、「老/若」「醜/美」の対で眼差されるのか。

母乳か精液か判然としない白い濃密な液体を滴らせる聖母。「生きた噴水彫刻」として男たちのグラスに水を与える女性像。「水と女性」という定型化されたテーマは終盤、アングルの《泉》のように水を床に落下させ続ける女に変奏され、やがて水もろとも「床の下」に姿を消してしまう。スーツの男たちが床板を剥がすと、島影の映る美しい海景が現われる。照明が星のまたたく夕凪ぎの海を出現させ、スーツを脱いだ裸の男がその光景を見つめ続ける。舞台を文字通り支える物理的基盤であると同時に、イリュージョンを支える透明化された基盤が剥がされるが、その「イリュージョンの崩壊」自体が「幻想的な夕暮れの海景」という別のイリュージョンをつくりだす。だがそれさえも、「壁のドア」を開けて去っていく裸の男によって、文字通り亀裂を入れられる。上演中、常に「こちら側」に向けて開けられていたドアは、ラストで初めて「向こう側」の暗闇に向かって開かれた。(危険な)ドアは開け放たれたままだ。だが、(強固に蘇る)イリュージョンを自己破壊し、通路を自らの手で開いた「彼」は、「向こう側の抑圧された世界」とは何であるかに本当に気づいていただろうか。



[© Julian Mommert]




[© Julian Mommert]


関連レビュー

ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年08月01日号)

2022/08/10(高嶋慈)

あごうさとし×中西義照『建築/家』

会期:2022/07/29~2022/07/31

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

個人住宅の設計を手がける建築士の夫(中西義照)と、住まい方アドバイザーとして家づくりのソフト面を担当する妻(中西千恵)。公私ともにパートナーである二人が出演し、「もし自分たちの理想の家を建てるとしたら」というプロセスを会話で構築していく演劇作品。クレジットに「作|中西義照、中西千恵」、「演出|あごうさとし」とあるように、実在する更地を二人が見に行き、「この土地に家を立てるとしたら」という仮定の下で交わした会話がベースとなっている。出発点はフィクションだが、「家」を起点に、普段のそれぞれの仕事内容、互いを尊重し合う二人の距離感、「何を大切に生きるか」という人生観、子どもの成長や親の認知症など「家族」を取り巻く時間の流れを垣間見せる点ではドキュメンタリー演劇ともいえる。また、省エネ住宅の設計の基準値からは、個人の住宅というミクロな視点を通して、地球環境という大きな射程が見えてくる。

演出家のあごうは、実際のフリーアナウンサーが出演する前作『フリー/アナウンサー』において、個人史と「日本におけるアナウンス史」を交差させつつ、「個人の自由な意見を封じられたフリーアナウンサー」をどう抑圧から「解放」し、「個人の声」を回復できるかという希求を提示していた。「建築家」という単語がスラッシュによって「建築」と「家」に分断されつつ結合するタイトルに加え、実際の職業人が本人として出演する本作は、『フリー/アナウンサー』の延長線上にあり、続編ともいえる。



[撮影:金サジ]


上演は、何もない舞台空間=文字通りの「更地」から始まる。約60坪のこの更地は、比叡山の中腹に広がる住宅地にある。二人の発想が独創的なのは、「家」の設計にあたり、「好きな木をどこに植えたいか」という植栽計画の妄想から始まる点だ。紅葉が楽しめ、夏は日よけ/冬は日差しを室内に取り込む落葉樹に、実のなる木。「森に包まれた家」というコンセプトから、敷地の四隅に木を植え、ガラス壁を多用した十字架型の間取りになった。生活導線、それぞれの仕事場の確保と居心地良さのバランス。「ソフト面」を決めるプロセスでは、妻の投げかけが会話を主導していく。

一方、中盤では、夫が建築士の視点から、「パッシブハウス」(太陽光や通風を利用して温度調節し、住み心地の良さを追求した省エネ住宅)の設計思想と、外壁から逃げる熱や気密性の数値の基準について解説し、「計画中の家」についても数値をシミュレーションする。その傍らでは、舞台スタッフによって平台や箱馬が積み上げられ、「家」が着々と建てられていく。



[撮影:金サジ]



[撮影:金サジ]


そして終盤では、この「家=舞台」の上で、営まれるであろう「二人の暮らし」が再現される。起床、家事、複数の案件を進める在宅ワーク、必ず一緒にとる夕食、「一人の時間」を大切にする食後の趣味の時間。合間を縫って、個室が多く暗くて寒かった「前の家」の記憶、「もっと気持ちのよい家で子育てしたかった」という後悔が語られ、季節の巡りとともに、子どもの独立や田舎の親の認知症など「不在の家族に流れる時間」が会話からのぞく。「家」は抑圧の装置ともなりうるが、ここに希望しか感じられないのは、(辛い)記憶のない「未来の架空の家」に向けられているからだろう。本作はその「建設プロセス」を、まさに舞台上にフィクションを立ち上げていく時間として提示する。



[撮影:金サジ]


「家」の設計とは、「どのように生きたいか」「何を人生で重視するのか」という自身の価値観や気持ちの言語化であり、そのプロセスを「対話」として提示した本作。「家づくりの顧客には、あまり話し合えていない夫婦もいる」という作中の発言は、本作の肝を逆照射する。そして、あごうの前作『フリー/アナウンサー』が、視聴者との一方通行の関係を解消し、「個人の声の回復」を「対話」へ向けて開くことを希求していたことを思い起こせば、本作は単に演出手法上の継続的発展にとどまらず、まさに「対話への希求」に応答していたといえる。

関連レビュー

あごうさとし×能政夕介『フリー/アナウンサー』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年07月15日号)

2022/07/30(高嶋慈)

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』

会期:2022/07/22~2022/07/31

吉祥寺シアター[東京都]

学校という空間の時間は螺旋状に流れている。授業や毎年の行事は繰り返しのようでいながら少しずつ違っていて、その担い手となる生徒たちもたとえば3年という定められた期間とともにその場所を通過していく。教師だけが例外だ。

ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』は2021年に全10話をもって完結したいつ高シリーズのキャラクターが再び登場する新作。吉祥寺シアターでの公演は7月31日で終了したが、8月28日まではアーカイブ配信が視聴できる。以下の文章には重大なネタバレが含まれるので注意されたい。また、いつ高シリーズ未見でも十分に楽しめる作品ではあるが、作中にはシリーズを知っていることでより楽しめる仕掛けもいくつか用意されている。いつ高シリーズの戯曲は多くがWEBで無料公開されているのでそれらを(特にvol.6とvol.2を)読んでから配信を観るのもいいかもしれない。vol.6『グッド・モーニング』については映像も8月28日まで無料公開されている。


[撮影:鈴木竜一朗]


舞台は文化祭当日。旧校舎の屋上に続く階段の踊り場ではダブチ(新名基浩)と机田(大石将弘)が本番の迫ったコントの練習をしている。しかし何やら屋上に出入りする悠(島田桃子)が行き来し、白子先生(大場みなみ)がやってきては茶々を入れとなかなか練習は進まない。悠は旧校舎の屋上から旧々校舎の屋上へとこっそり何かを移動させようとしているらしいが、旧々校舎の屋上に続く踊り場では息子のコントを見に来て校舎を間違えた(逆)おとめ(望月綾乃)と鉢合わせてしまう。物語はダブチと机田のコント、悠の隠し事、そしてかつてこの高校の生徒だった白子と(逆)おとめの再会という三つの筋が絡み合いながら進んでいく。


[撮影:鈴木竜一朗]


高校生が演じることを念頭に、高校生だけが登場する作品として書かれたいつ高シリーズは、高校生のスケールの世界を立ち上げながらその少しだけ外側を指し示すような物語だった。対して、かつて高校生だった大人とこれから大人になる高校生を描いた『ここは居心地がいいけど、もう行く』は、螺旋状の時間の異なる2点を並べることで、自分がいない/いなかった時空間への想像力をより強く喚起する作品になっている。あるいはそれは、この作品とも深い関係のあるいつ高シリーズvol.2『校舎、ナイトクルージング』で描いたものをさらに大きなスケールで描いているのだとも言えるかもしれない。

いつ高シリーズでは高校生だった白子と(逆)おとめは大人になり、片や教師に、片や生徒の親になっている。そこにあるのはシリーズを追ってきた私が知るいつ高でありながら、しかし同時にもはやまったく別の場所だ。ダブチ、机田、悠の向こうには同じ俳優によって演じられたかつてのいつ高の生徒たち(シューマイ、楽/水星、朝)の姿が透けて見えるが、それもまたシリーズを追ってきた私の勝手な感傷でしかない。


[撮影:鈴木竜一朗]


時間の経過は否応なく人を変えていく。かつてはおどおどとして学校にもほとんど通っていなかった(逆)おとめはローカルラジオのディレクターとして働くようになった。一方の白子はあまり変わっていないようにも見えるが、最近は同居する親の視線が気になって家出をし、学校に寝泊まりしているらしい。だが、(逆)おとめと再会した白子は突然、家を買うことを決意する。大きく変わった(逆)おとめと、その変化に触れて変わろうとする白子。生徒たちと同じように大人もまた悩み、変わっていく。

(逆)おとめの存在は生徒たちにも、いや世界にも影響を与えている。(逆)おとめが担当するラジオ番組「グッドモーニングレディオ」のヘビーリスナーである悠は、同じく番組のファンだという「友達」が、20年以上前に(逆)おとめが深夜の校舎に忍び込んで発信していた誰にも届かないかもしれないラジオ番組を好きでずっと探していたのだと言い出す。悠とともに先々週、地球を救った(!)というこの「友達」の正体は実はエイリアンなのだが、遠くから電波の波形を見ていたというエイリアンが20年以上前の(逆)おとめのラジオ番組を探していたということを踏まえれば、エイリアンが地球にやってきたのは(逆)おとめのおかげだということになる。ならば誰にも届かないかもしれなかったラジオが遠く宇宙に届き、時間を超えて地球を救ったのだ。のみならず、エイリアンはダブチと机田のコントにも3人目のメンバーとして参加することになる。


[撮影:鈴木竜一朗]


[撮影:鈴木竜一朗]


ここでは学校に通えず中退することになったかつての(逆)おとめが、そして彼女の誰に届かずとも何かを発信しようとする気持ちが強く肯定されている。もちろん、誰にも届かないことは苦しいかもしれない。ダブチと机田のコントの1回目の上演にはひとりの観客も現われず、ダブチはくじけそうになる。だが、ダブチの書いた台本は(不本意ではあるかもしれないが)母親である(逆)おとめに、そしてエイリアンに読まれ演じられることになるだろう。そして2回目の上演には何人かの観客が現われるかもしれない。自分の存在がいつ、誰に、どのように影響を与えるかは誰にもわからない。それでも、発せられた電波の波形は地球を救うかもしれない。そう思ったっていいのだ。


[撮影:鈴木竜一朗]



ロロ:http://loloweb.jp/
いつ高シリーズ:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
いつ高シリーズvol.7『本がまくらじゃ冬眠できない』映像(STAGE BEYOND BORDERS):https://stagebb.jpf.go.jp/stage/itsukou-series-vol-7-i-cant-hibernate-with-books-as-a-pillow/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』(いつ高シリーズ9作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『心置きなく屋上で』(いつ高シリーズ8作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年10月01日号)
ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2022/07/25(月)(山﨑健太)

西村梨緒葉《歌を教える》(「KUMA EXHIBITION 2022」より)

会期:2022/04/01~2022/04/10

ANB Tokyo[東京都]

「KUMA EXHIBITION 2022」については、学校法人森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題で自死した近畿財務局職員の赤木俊夫さんの朝のルーティーンを筒|tsu-tsuが演じ続けるというパフォーマンス作品についての記事を以前書いたのだが、展覧会で覚えたある歌が、3カ月経ったいまもまだ頭の中でたびたびリフレインするのだ。

うすいレースで囲われた、半透明のブースの中に机と椅子が置かれてあり、少し離れたところにはアクリル板が吊られて、貼られた紙には次のように書いてあった。


机上の番号に電話をかけてください。
30秒ほどの短い歌を1曲教えます。
あなたが歌を覚えたら、電話はおしまいです。


映像作品なら視聴時間がハンドアウトに書かれているが、これは「30秒ほどの短い歌を教え」てもらうと書いてある。どうやって教えてくれるんだろう。中国語の発音について何度聞いても覚えられないわたしにできるのだろうかと思ったりもしたが、スマートフォンを鞄から取り出して電話をかける。人が出た。「もしもし」「もしもし」。

すぐに歌を教わることが始まった。電話越しに人が歌ってくれる。「さっきー・まだ・わーかれたーばかりー」。1フレーズ目が終わると、わたしは追っかけるように歌う。「さっきー・まだ・わーかれたーばかりー」。わりかし音程がわからないという自分の性質に気付き、時間がかかることが予想され、急に申し訳ない気持ちになる。机の上には分厚いメモ帳とペンがあって、そこに聞いた歌詞をまず書いていった。少し冷静になると、そのメモ帳には、何人もがそれぞれの方法で書き落とした跡があった。「さっきー ま↑だ↓ わーかれたー ばかりー↓」。これだ。この書き方だ。

音程が聞き取れないと、記号も機能しないと直後にわかったのはさておき、最終フレーズまで覚えられたと思ったので、そこで終わりにしてもらった。15分くらい教えてもらって、そのときのメモは写真に撮ったものの見返していないが、いまもふと気付くと歌っている。何を教えられたのだろうかと思いながら、検索エンジンで歌詞を打ち込むも、特に何もヒットしなかった。

なお、本展は無料で観覧可能でした。


西村梨緒葉《歌を教える》(2022)



「KUMA EXHIBITION 2022」アーカイブサイト:https://kuma-foundation.org/exhibition/2022/archives/rioha-nishimura/

2022/07/25(月)(きりとりめでる)

PLAY/GROUND Creation #3『The Pride』

会期:2022/07/23~2022/07/31

赤坂RED/THEATER[東京都]

俳優主体の創作活動のために井上裕朗が立ち上げたPLAY/GROUND Creationの#3として『The Pride』が上演された。2008年にロンドンで初演された『The Pride』は俳優として長く活動したアレクシ・ケイ・キャンベルが劇作家に転身しての第1作。日本では2011年にTPTが小川絵梨子の演出で『プライド』というタイトルのもと初演している。今回は日本初演時にも翻訳を手がけた広田敦郎を翻訳・ドラマターグに迎え、井上の演出での上演となった。なお、公演はダブルキャストとなっており、キャストはA/Bの順で併記している。


[舞台写真:保坂萌]


物語はオリヴァー(井上裕朗/岩男海史)とフィリップ(池田努/池岡亮介)の出会いの場面からはじまる。児童文学作家のオリヴァーは本の挿絵を担当するシルヴィア(陽月華/福田麻由子)の計らいで彼女の夫・フィリップと三人で食事をするために二人の家を訪れる。出迎えたフィリップと挨拶を交わすオリヴァー。初対面ゆえかのぎこちなさもありながら会話は和やかに進み、やがて着替えを終えたシルヴィアも合流する。しばしの歓談の後、予約したレストランへと出かけていくところでこの場面は終わる。

暖色の照明が白々とした明かりへと変わり、次の場面になると舞台の中央でナチスの制服を着た男(鍛治本大樹/山﨑将平)が「お前は何だ」「この変態のメスブタ」とオリヴァーを責め立てている。いまいち乗りきれずプレイを中断したオリヴァーが男と話していると、3日前に別れて家を出ていったフィリップが荷物を取りに戻ってきてしまう。慌てたオリヴァーは男を追い出し自らの行ないを弁明するが、フィリップは再び出ていく。


[舞台写真:保坂萌]


[舞台写真:保坂萌]


パラレルワールドのような二つの場面は(上演中に明示されることこそないものの)それぞれ1958年と2008年の出来事であり、この作品では同じ名前を持つ三人の人物が生きる二つの時代が交互に描かれていくことになる。

1958年のフィリップはオリヴァーと惹かれ合い関係を持つ。以前からフィリップの苦悩に気づいていたシルヴィアは二人が関係を持ったことを知り、傷つきながらも二人の幸せを気にかける。だが、二人の間にあるものを愛だと言うオリヴァーの説得も虚しくフィリップは同性愛を「倒錯」と退け(それは当時の「常識」である)、「治療」のために医者(鍛治本/山﨑)にかかることを選ぶのだった。

一方、2008年のフィリップはオリヴァーが見知らぬ男と頻繁に関係を持ってしまうこと(本人曰く「中毒」)に耐えられず別れを選択する。フィリップと共通の友人でもあるシルヴィアはオリヴァーを慰め諭すが、イタリア人のマリオという恋人がありながらオリヴァーに振り回される現状に思うところもあるらしい。フィリップとオリヴァーはシルヴィアに誘われたプライドパレードで再び出会い、和解する。それは50年越しの二人の和解でもあった──。


[舞台写真:保坂萌]


二つの時代の三人はそれぞれに異なる人物のはずだがどこか響き合うようでもあり、互いに因果の糸で結ばれているようにも思える。あるいはそこにある差異を、同じ人物が異なる時代に生まれたがゆえに生じてしまった性格や人生の違いと解釈することもできるだろう。その差異と共通性をどう演じるかが俳優の見せどころにもなっている。ダブルキャストによる上演はさらに異なるバージョンの三人への想像を促す。ひとの人生はわずかな環境の違いでも大きく変わってしまう。「正直な人生を生きること」が困難な状況であればなおさらだ。

2008年の三人は1958年のそれと比べれば幸せな関係を築けているように見えるが、それでもなお偏見や困難があることは作品のそこここで示されている。では、2022年の日本はどうだろうか。そのような想像力を喚起する点において、この戯曲は初演よりもむしろそれ以降の上演の方がより一層意義のあるものになっていると言えるかもしれない。三人が「いまここ」に生きていたらどのような人生を送っているかを想像すること。「いまここ」の向こうに2008年を、1958年を、いくつもの時代の人々の人生を透かし見ること。


[舞台写真:保坂萌]


[舞台写真:保坂萌]


side-Bでは若い俳優陣が傷つきながらも自分が何者かを探し続ける登場人物たちの姿を繊細に立ち上げていた。特に岩男海史のオリヴァーは好演。ただ、登場人物のフラジャイルな懸命さが際立った分、シルヴィアひとりが犠牲になっているようにも見えてしまう点は気になった。ゲイ男性二人が中心の物語だけに、唯一の女性であるシルヴィアの存在をどう見せるかは重要だろう。これは個々の演技ではなく上演全体のバランスの問題だ。一方、side-Bと比べるとやや年上の俳優たちによって演じられたside-Aでは、自身の人生を探求する切実さは抑制された演技によって胸の裡に秘められたものとなったが、その分、自ら立とうとする登場人物たちの強さが感じられる上演となっていたように思う。二つの時代を生きる三人の姿を、そして彼らを演じる二組の俳優陣の姿を通して『The Pride』が描き出したのは、いまなお続く、そして個々人においては一生をかけて向き合わざるを得ない、人間の尊厳をめぐる闘いだった。


[舞台写真:保坂萌]



PLAY/GROUND Creation:https://www.playground-creation.com/

2022/07/24(日)(山﨑健太)

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