2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Oeshiki Project ツアーパフォーマンス《BEAT》

会期:2019/10/16~2019/10/18

雑司ヶ谷 鬼子母神堂周辺[東京都]

東アジア文化都市2019豊島の一環として実施されたOeshiki Project ツアーパフォーマンス《BEAT》。参加者たちがやがて合流することになる「鬼子母神 御会式」は「享和・文化文政の頃から日蓮上人の忌日を中心とした、毎年10月16日から18日に行われている伝統行事」で、「当日は、白い和紙の花を一面に付けた、高さ3~4メートルの万灯を掲げて、団扇太鼓を叩きながら鬼子母神まで練り歩」くものだ。劇作家の石神夏希、中国出身のアーティストであるシャオ・クウ×ツウ・ハン、そして音楽ディレクターの清宮陵一らのチームは御会式連合会の協力のもと、多くの人を巻き込むツアーパフォーマンスをつくり上げた。

集合場所は西池袋公園。私はそれを東京芸術劇場のある池袋西口公園のことだと思い込んでいたので少々慌てたのだが、行ってみれば池袋西口公園からほど近くにあるごく普通の(やや広めの)公園に参加者たちが集まっている。月に数度は池袋を訪れるが、こんな公園があるとは知らなかった。受付で手持ちの太鼓とバチ、アンパンとミネラルウォーターのペットボトルが手渡される。

50人ほどの参加者はおよそ10人ずつに分かれて説明を聞く。参加者はまず、1人ないし2人ずつに分かれ、渡された地図をもとに「待ち合わせ場所」に向かう。そこで待っているのは「トランスナショナルな(国境を越えて生きる)市民パフォーマーたち」らしい。立教大学脇の路地でヴェトナムから来たシステムエンジニアのDさんと無事に落ち合った私は、太鼓の叩き方を習いながら次の会場へと導かれる。ホスト役はDさんだが、どうやら池袋については私の方が詳しいようだ。会話は日本語にときどき英語が混じる。

[撮影:鈴木竜一朗]

次の会場はビルの谷間の古民家、と呼ぶにはこざっぱりとはしているが風情のある一軒家。到着するとお茶がふるまわれる。私は蓮茶を選ぶ。Dさんによればヴェトナムではポピュラーなのだという。日本人好みの味なように思うが日本ではあまり飲めないらしい。参加者が揃ったところで「平舎(ひらや)」と呼ばれるその場所の来歴(池袋在住300年18代!)と、韓国でフラを教えているという在日コリアンの女性の話を聞く。参加者の何人かから募った言葉でフラをつくり(フラの振りは言葉と対応している)、みんなでそれを少しだけ踊ってみる。

平舎を出て次の会場へ。参加者+パフォーマーのおよそ20人で列をつくり、街中を練り歩きながら太鼓を叩く。参加者とパフォーマーとで異なるリズム。東京メトロ副都心線池袋駅改札のある地下通路を通り東口側へ抜ける。たどり着いた中池袋公園にはすでにほかのグループが揃っていた。グループごとにまた異なるリズムを披露したあと、その場にいたおよそ100人ほどが大きな輪になり、ぐるぐると回りながらともに太鼓を打ち鳴らす。そのまま大きな集団となってまた次の場所へと池袋の街を練り歩く。

[撮影:鈴木竜一朗]

御会式に合流する前に南池袋公園で小休止。フェスティバル/トーキョーの会場のひとつとして使われることもあり、私にとっては多少なりとも見覚えのある場所だ。聞けば、ここから先どうするのかはDさんも知らないらしい。考えてみれば当然のことだ。これから参加する「鬼子母神 御会式」は年に一度の本物の祭りなのだ。練習はできない。

都電荒川線都電雑司ヶ谷駅の近くまで移動し御会式連合会の方々から太鼓の叩き方のレクチャーを受ける。ヤキソバ、りんご飴、ケバブ、タピオカ、じゃがバター。屋台の並ぶ参道をゆっくりと練り歩く。お堂への参拝をクライマックスに、近くの集会所で各国のスナックをつまみチルアウトしてなんとなくの解散。Dさんとも別れ帰途につく。

[撮影:鈴木竜一朗]

4時間のなかで特に印象に残った場面が二つある。といってもそれはパフォーマンスとして用意された瞬間ではない。ひとつは中池袋公園でのこと。公園を占拠し、ぐるぐると回りながら太鼓を打ち鳴らす「私たち」の姿を多くの人がスマホで撮影していた。そのなかには海外からの観光客と思しき姿もあった。彼らは「私たち」をなんだと思っただろうか。それはその日初めて行なわれた、いわば「ニセモノ」の祭りだ。再開発されたばかりの真新しい中池袋公園に集ったヨソモノ同士の集まりも、はたから見れば地域の祭りと変わらなかったかもしれない。

もうひとつは御会式連合会の人の言葉だ。太鼓の叩き方をレクチャーしてくれたその人は「私たち」にこう言った。「東アジアの方はこちらへ」。これがけっこうな衝撃だったのは、まずもって自分が「東アジアの方」と呼ばれるとは思ってもいなかったからだということを白状しなければならない。もちろん日本は東アジアなのだから私をそう呼ぶことは正しい。そもそも《BEAT》は「東アジア文化都市2019豊島」の一環として実施された事業なのであって、「東アジアの方」という言葉はその参加者という意味で使われたのだろう。ならばその言葉を発したその人は「東アジアの方」ではない? さらに言えば、そこには東アジア以外の地域出身の人もいた。だがいずれにせよ、ひとたびお練りが始まってしまえば私たちはみな一緒くたになって太鼓を打ち鳴らすのだった。

[撮影:鈴木竜一朗]

[撮影:鈴木竜一朗]

ローカルであるとは、その場所にいるとはどういうことか。「鬼子母神 御会式」はもともと「日蓮聖人を供養するために行なわれる仏教の行事」だ。私は日本の東京の池袋の祭りに参加したつもりでいたのだが、そもそもは仏教も鬼子母神もインドに由来する。そうして縁はぐるぐる回っている。


公式サイト:https://www.beat-oeshiki.jp/

2019/10/16(水)(山﨑健太)

KYOTO EXPERIMENT 2019|庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』/ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』

ロームシアター京都 ノースホール、元離宮二条城+平安神宮[京都府]

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』とブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』。上演日程を同じ週に設定した確信犯的意図は明らかだ。「儀式性」「観客への集団化作用」という共通項と、対照性を感じた両者を、本評ではまとめて取り上げる。

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』は、上演空間が本物かと見紛うほど精緻に作り込まれた「お堂内部」に変貌し、「蛸」を「神」と崇める8名の信者(を模したパフォーマー)とともに読経や唱和に参加し、(疑似)宗教儀式のトランスを体験するという作品だ。観客を構築されたフィクション内部へと誘う仕掛けは、(上演開始前から既に)周到に幾重にも仕掛けられており、入場前に「名前と願い言」を書いたお札が儀式中に読み上げられてお焚き上げされる、「お堂内の窓や扉を密閉する」作業を観客にやらせる、「経典」や打楽器を配り、読経や木魚を叩くリズムに参加させるなど、「儀式」とその集団化作用へ取り込もうとする「演出」が散りばめられている。さらに、パフォーマーたちが次々と繰り広げる歌唱、三味線や二胡などの演奏に加え、「火入れ」された中央の炉、それが発散する熱、炉に投入されるお香のスパイシーな香りが五感の総動員へと駆り立てる。



[Photo by Yoshikazu Inoue, Courtesy of Kyoto Experiment.]



一方、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、二条城(13日)と平安神宮(14日)という屋外空間で、9名の女性パフォーマーの身体と声だけで行なわれるミニマルな作品。薄暗くなり始めた夕空の下、静かに入場したパフォーマーたちは、頭に巻いた白いスカーフと黒服というそろいの出で立ちだ。互いに数メートルの距離を保ち、別々の方向を向いて立った彼女たちは、しばしの沈黙の後、頭と上体を激しく前後に振りながら、掛け声とも動物の咆哮ともつかない鋭い叫びを、一定のリズムで反復し始めた。彼女たちは約30分間、位置は不動のまま、短くも全身全霊の叫び声を発し続ける。ひとりの叫びのトーンが少し変化すると、他の声もそれに応答し、時に微妙にズレるリズムは多層的な音響の揺らぎを発生させていく。豊かな反復と差異を湛え、「自律」と「共鳴」の拮抗関係を保ち続けた後、彼女たちはひとり、またひとりと沈黙し、向き合う二人だけとなり、最後のひとりもやがて叫びを停止した。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]


ここで前者の庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』を振り返ると、「蛸=神を信仰する」というフィクショナルな意味の中心(の空虚さの充填)に向かって、容器(舞台美術の造形的完成度)と振る舞い(宗教儀式の形態的模倣)が全力で投入されていたと言える。だが、舞台美術を作り込めば作り込むほど「つくりもの」感が増し、「みんなでお祭りに参加する楽しさ、エネルギーの発散」はあっても、歌舞音曲を伴う宗教儀式(とそれを起源のひとつとする舞台芸術)が本質的にはらむ「身体的同調を通した集団化作用」に対する批判的契機は見られなかった。観客をどこまで「ノせる」のか?(読経や打楽器のリズムに、あるいは(フィクションと了解しつつ)「(疑似)宗教儀式」そのものに)。「実際に、トランス状態に陥った観客が踊り狂う」事態の出現まで想定していたのか、そこまでの狙いがあったのかは不明だが、観客の身体に対する演出設計について言えば、パフォーミングエリアと客席を明確に分け、「『堂内』にすし詰めで座ったまま、ほぼ身動きが取れない」拘束的な状況は、むしろ足枷となったのではないか。


対照的に、ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』は、そうした意味の中心性が仮構されていなくとも、求心力の弱まりにはならず、むしろ体験の強度が増すことを示していた。そのことは、(パフォーマーが煽らなくとも)「磁場の中心に吸い寄せられるように、観客の輪が自然発生的に縮まる」事態が簡潔かつ雄弁に物語っていた。パフォーマンスが(淡々と、しかし次第に熱を帯びて)進行するにしたがい、初めは遠巻きに取り囲んでいた観客たちは、次第にその輪を縮め、至近距離で眺める人もいた。本作では、観客の身体的振る舞いも(作品要素のひとつとして)計算されている。それは、「その場に不動のパフォーマーたち/座席がなく、自由に移動できる観客」という設計上の対比構造に如実であり、効果的に作用していた。装飾的要素を切り詰めたミニマルに徹しつつ、パフォーマーの声の豊かな振幅の強度によって、「観客の身体感覚に対して遠隔操作的に作用し、その点を反省的に自覚させる」点で、秀逸な作品だった。



[Photo by Takeshi Asano, Courtesy of Kyoto Experiment.]



庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
会期:2019/10/11~2019/10/15
会場:ロームシアター京都 ノースホール

ブシュラ・ウィーズゲン『Corbeaux(鴉)』
会期:2019/10/13~2019/10/14
会場:元離宮二条城、平安神宮


公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2019/


関連レビュー

庭劇団ペニノ「蛸入道 忘却ノ儀」|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2018年07月01日号)

2019/10/14(月)(高嶋慈)

岡山芸術交流2019 IF THE SNAKE もし蛇が

会期:2019/09/27~2019/11/24

旧内山下小学校、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、岡山城、林原美術館ほか[岡山県]

岡山芸術交流2019は、岡山城などの会場が増えたとはいえ、前回と同様それほど広域に作品が点在せず、コンパクトなエリアに集中しているために、半日もあれば十分にまわることができるのがありがたい。また、日本の作家がほとんどいないため、ドメスティックな感じがせず、ヨーロッパの国際展を訪れているような雰囲気を維持しており、よい意味で日本の芸術祭っぽくない。そして今回はピエール・ユイグがディレクターなだけに、全体的に作品も暗く、変態的である。

しかもメインの会場となった都心の旧内山下小学校は、朝イチで足を踏み入れたにもかかわらず、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニによって、かつての教室群が不気味な空間に変容しているほか、マシュー・バーニーらの奇妙な実験があり、もしも日が暮れる時間帯だったとすると、相当怖い体験になるのではないかと想像した。体育館の巨大な空間を用いたタレク・アトウィによるさまざまなサウンド・インスタレーションも印象的である。



ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ《非ずの形式(幼年期)、無人、シーズン3》



マシュー・バーニー&ピエール・ユイグ《タイトル未定》



タレク・アトウィ《ワイルドなシンセ》展示風景

屋外では、パメラ・ローゼンクランツの作品《皮膜のプール》やティノ・セーガルによる運動場の盛り土があまりにも不穏だった。越後妻有アートトリエンナーレでも、いろいろな小学校がアートの展示に用いられていたが、岡山芸術交流2019のような暗さやわかりにくさは抱えていない。


パメラ・ローゼンクランツ《皮膜のプール(オロモム)》


ティノ・セーガルによる運動場の盛り土

前川國男が設計した林原美術館には、ユイグによる少女アニメの映像の横からリアルな少女がとび出してパフォーマンスを行なう作品があるのだが、朝早かったので、あやうくひとりで鑑賞しそうになった。人が少ないと緊張する作品である。また、シネマ・クレールで上映されたジロー&シボーニの作品にはまったく言葉がなく、ひたすら奇怪なイメージが続く。

また今回は岡山市立オリエント美術館も会場に加わり、常設展示のエリアに3点の現代アートがまぎれ込む。そのおかげで岡田新一がデザインした空間を再び体験することになったが、目新しさはないものの、逆に現代の建築には失われた重厚さが心地よい。なお、岡山芸術交流では建築系のプロジェクトがしており、先行して完成していた青木淳に加えて、マウントフジアーキテクツスタジオと長谷川豪がそれぞれ海外のアーティストとコラボレートした宿泊棟が誕生したことも特筆できる。



青木淳+フィリップ・パレーノのコラボレートによる宿泊施設「A&A TUBE」



マウントフジアーキテクツスタジオ+リアム・ギリックのコラボレーションによる宿泊施設「リアムフジ」

岡山芸術交流2019 公式サイト:岡山芸術交流2019

2019/10/14(月)(五十嵐太郎)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|市原佐都子(Q)『バッコスの信女―ホルスタインの雌』

会期:2019/10/11~2019/10/14

愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

ギリシャ悲劇『バッコスの信女』を換骨奪胎し、「性と生殖」をめぐる現代社会批判をポップかつ網の目のように散りばめた、2時間半の大作。市原佐都子がこれまで主題化してきたテーマ──ロマンチック・ラブ・イデオロギーから切り離された「生殖」としての「性」、女性が自身の「性」を語るタブーへの異議申し立て、「男性」が不在・排除された世界、人間/動物の境界の曖昧化、異種交配への強い衝動、そして最終的には食べることも性も「命の連続」「生」の営みとして全肯定する意志── を、ギリシャ悲劇が描く「子殺し」の復讐劇やその形式性と結び付け、現代社会批判として読み替え、さらに音楽劇として昇華させた。昨年のKYOTO EXPERIMENT 2018で上演された『妖精の問題』も衝撃的だったが、さらに突き抜けた深度をもつ怪作である。


本作では、リビングダイニングを舞台に、一見平凡な主婦と、彼女が生み出した「牛と人間のハーフ」である「半獣」の愛憎劇が描かれる。以前は、牧場でホルスタインの雌を人工授精して繁殖させる「家畜人工授精師」だったという主婦。特に好きでもない男と結婚したのは、家事や性欲の処理という「妻の役割」をこなしていれば、賃金労働に就かずに安楽に暮らせるからだと語る小市民的な人物だ。彼女は結婚前、乱交バーで女性とセックスし、「硬いものを経由しなくても柔らかいものに触れることでダイレクトに自分を喜ばせている」喜びに感動するが、直後に罪悪感に陥り、正しい「生殖」をして子どもをつくろうと思い立ち、海外の通販サイトで「日本人男性の精子」を購入する。彼女のなかでは「性(欲)」と「生殖」は分離されており、後者は普段、自分が牛相手に行なう仕事と同じなのだ。彼女は矛盾や分裂を抱えた奇妙な人物であり、ヘテロセクシズムの規範を逸脱しつつ、「結婚」「妊娠出産」という世間的圧力や「生殖に結びつかない性は異端である」という性規範を内面化してもいる。また、「子どもが外見でいじめに合わないように」「精子の国籍」にこだわる彼女は、人種差別主義者でもある。



[Photo:Shun Sato]


しかし、土壇場で臆した彼女は、購入した精子をホルスタインの雌に注入し、「上半身が人間、下半身が牛」の化け物を生み出してしまう。「牛の本能と成長速度」のために、制御できない性欲と肥大したペニスを持て余し、泣き喚く子ども。「エロ本」を教科書として「しつけ」を施す主婦。この「半獣」は、ひとつの体に牛と人間、理性と衝動、男性と女性が入り混じる「半獣半人かつ両性具有」という複数の境界攪乱的な存在だ。手に負えなくなった「半獣」は育児放棄されるが、「変態向けの性風俗」で生活の糧を得て生き延び、主婦が暮らすリビングダイニング、つまり「規範化・制度化された生殖システム」「女性の再生産労働の現場」のなかに回帰してくる。

成長した「半獣」は、山中で「女性を愛する女性のための牧場」を運営し、「バターマッサージ」で互いに愛撫し合うことで、人工授精で精子を注入される苦痛を濃密な快楽に変え、繁殖しているのだと言う。「半獣」が母を再訪したのは、「人間に母乳を搾取された子牛たちの、そして自身も飲めなかった恨みを癒すため、母と交わって自らの生まれ変わり(子)を産ませ、母乳を独占したい」からだ。「半獣」に誘われ、主婦は牧場へ赴きマッサージを受けるが、欲情した「半獣」に襲われ、引きちぎった肉の棒を手に茫然自失でリビングに戻る。「字幕スクリーン」を突き破って(再)登場した「半獣」は、「解放された」「これは母の愛なのでしょうか」と呟き、彼/彼女の浄化と昇天(さらには理性による獣性の制御)を暗示する。「中国では牛のペニスを食べる」「生臭いがコラーゲン豊富」という挿話を挟み、主婦が愛玩犬と「焼肉」を囲むラストシーンはグロテスクだが、ドラマに併走してきたコロスの合唱によって、食べられることは誰かの一部になって生き続けることであり、生を全肯定するポジティブな意志が歌い上げられる。



[Photo:Shun Sato]


そしてこの物語は、会話部分とコロスによる合唱を交互に繰り返すギリシャ悲劇の形式を踏襲し、東京塩麹/ヌトミックの額田大志によるポップで多彩な楽曲が散りばめられる。「雌のホルスタインの霊魂たち」によるコロスは、清冽なハーモニーで、毒の効いた歌詞を繰り出す。とりわけ、「半獣」を演じ、狂気走ったダンスからファルセットの効いたヴォーカルまでこなすダンサーの川村美紀子の怪演は圧巻だ。



[Photo:Shun Sato]



本作において、女性と「ホルスタインの雌」の二重写しは、批判と肯定の両面を含み、極めて両義的だ。しばしば「巨乳」と同義の「ホルスタイン」同様、男性の欲望に支配・搾取される家畜・奴隷状態であることへの批判(だが男性もまた、ランキング化された精子が「商品」として販売される生殖産業においては、牛と同じである)。一方、「人工授精」は、「半獣」の牧場では、生物学的な「男性」が不在の世界でも、女性だけで生殖できるものとして、ポジティブに読み替えられる。「私たちには(も)快楽への欲求や性欲はある、でも『男』は要らない、なぜならずっと男性の欲望や幻想の道具として客体化・家畜化されてきたからだ」という弾劾と自立への強い意志がここにある。

女性が「性」を語ることへの抑圧、性的な搾取に対する異議申し立てに始まり、「エロ本」を教科書代わりに「学習」する男性の性幻想、国境を越えて拡大する生殖産業、性風俗産業、人種差別(人種の「ハーフ」から「人間と動物のハーフ」に拡張される)、食肉・家畜産業/愛玩犬の対照性が示唆する「動物の搾取」など、現代社会に対する問題提起が、「リビング」すなわち「主婦」「家族」にあてがわれた私的領域において語られ、相互参照し合う。いや、むしろそうした私的領域こそ、性と生殖をめぐるポリティクスに浸食され、管理されているのだ。市原がユニット名に掲げる「Q」に込められた複数の意味──クエスチョン(問題提起)、クィア(「正常」に対する疑義)、そして卵子に侵入した精子の図示──をここで改めて思い起こすべきだろう。

また、すべて女性出演者のみで構成される本作が、「すべて男性俳優により、市民=男性観客だけのために上演されていた」古代ギリシャ悲劇に対するアンチでもある点も看過できない。同日に観劇した劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』が、非常に緻密で洗練された手法で「物語の解体・極北」を示し、(あえて)プロセニアム舞台を用いて「上演すべき物語などない」上演批判・物語批判を行なっていたのに対し、(彼ら「ヨーロッパ演劇」の根本たる)「ギリシャ悲劇」の物語や構造を換骨奪胎して、「いや、女性の側から語り直すべきことはまだある」という、強烈なアンチを突き付けていた。来年、ドイツで開催される世界演劇祭への正式招待も決まっている本作だが、国内での再演も強く希望したい。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


関連レビュー

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年11月15日号)

2019/10/13(日)(高嶋慈)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|小泉明郎『縛られたプロメテウス』

会期:2019/10/10~2019/10/14

愛知県芸術劇場 大リハーサル室[愛知県]

「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、現実/演じられたフィクションが秘かに通底する共犯関係、感情移入の回路とその露悪的な暴露について、「共同体の夢」であるナショナリズムや戦後日本社会が清算できない加害のトラウマと結び付けて提示する映像作品を制作してきた小泉明郎。VR技術を用いた上演形式の作品が、あいちトリエンナーレのパフォーミングアーツプログラムのひとつとして発表された。本作の肝は「二部構成」にあり、「前半30分」で観客がVRのヘッドセットを付けて知覚のめくるめく拡張を体験した後、「後半30分」では、同じ語りが、「見る/見られる」「虚構/現実」の反転とともに、没入/客観視、恍惚/覚醒、知覚の解放感/身体的束縛の落差をもって(再)体験される。

「前半」では、「子どもの頃に見たSF映画の続き」を夢見る、ある男性の語りが、ゴーグル越しのVR映像とともに展開される。徐々に身体が動かなくなり、呼吸も困難になっていったこと。自分の口で最後に言える言葉は「ありがとう」だろうと言う彼は、死後の魂の世界、そして自分の脳がコンピュータと繋がったSF的未来を夢想する。そこでは自己と他者、過去と未来が繋がり、彼は自分の(想像上の)息子と触れ合う喜びについて語る。VR映像は、初めモノリス/棺を思わせる黒い直方体だったものが無数の立方体に分裂し、不安の塊のような黒い球体が増殖した後、死後の世界やSF的未来の想像シーンでは、魂が雲上を浮遊する臨死体験的な感覚や、過去と未来を行き来する高速の光の矢に包まれるような感覚を味わう。



[Photo:Shun Sato]


一転して後半では、観客はVRのヘッドセットを外し、「VR体験空間」の裏に用意されていた、狭い通路上の空間に誘導される。対面する壁には「覗き窓」が開けられ、「次の上演回の前半」を体験中の観客たち(=過去の自分自身の鏡像)を眼差すことになる。また、モニターに流れる映像には、電動車いすに乗ったALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の男性が、かろうじて動かせる口回りの筋肉を使って、必死に発話する様子が映し出される。

スクリーンの表/裏の同期/ズレに仕掛けられた虚実の反転や「タネ明かし」、「逆再生」という時間的反転による意味の反転といった構造や、それがもたらす後味の悪さや残酷さは、これまでの小泉の映像作品においても顕著な特徴であった(例えば、故郷の母を気遣う電話(に見えたもの)が事務的な応対を繰り返すコールセンターの担当者との不毛なやり取りにスライドする《僕の声はきっとあなたに届いている》、戦地に赴く夫と見送る妻の「感動のドラマ」(に見える映像)が裏側の「メイキング」で暴露される《ビジョンの崩壊》、第二次大戦中に大陸で子どもを殺害した日本兵の証言が、実は事故で記憶障害を患う男性のおぼつかない暗誦であり、「加害の記憶喪失」を患う日本を批判する《忘却の地にて》、「逆再生」により、「宣言」と「蘇生」の儀式が「断罪」と「集団処刑」に反転する《私たちは未来の死者を弔う》など)。

本作においても、こうした反転作用や後味の悪さが複数の層で体験され、見る者にさまざまな問いを突きつける。それは、VR技術(ひいては、集団で虚構世界に没入する「演劇」)そのものや、私たちの知覚や想像力に対する反省的問いでもある。VRの疑似体験によって、知覚を拡張し、あるいは他者の知覚世界や感情をどこまで共有できるのか? それは、ALS患者の男性の独白であることが明かされることで、不可能性と切実な希求の落差として差し出される。また、VRがもたらす全能感にすら満ちた没入体験は、「今ここにいる私の身体」を希薄化し、ほとんど消去するが、その事態は「実際に身体が不随意な障害者」へと反転させられる。その落差を突きつけられる居心地悪さは、「自分自身の鏡像を見ること」に加えて、「無遠慮にまじまじと見るべきでない」とされる障害者の姿を直視し続けねばならないという、二重、三重に増幅されたものとして体験される。知覚が拡張される解放感と、「指示された座席に座り続けねばならない」という束縛。だがこの「束縛」は、(VR装置を外したにもかかわらず)「彼」の身体環境の疑似体験でもある点では、一種の希望の回路でもある。ここに、単なるVR/演劇批判を超えた、本作の真の意義がある。

最後に発せられる「私たちの垣根は無くなる 私たちはひとつになる」という宣言は、他者への共感と包摂に満ちた希望的未来の到来なのか? それとも、「個」が「全体」へと同化吸収されるディストピアなのだろうか。


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


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