2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ドナルカ・パッカーン『女の一生』

会期:2019/11/06~2019/11/10

上野ストアハウス[東京都]

「誰が選んでくれたのでもない。自分で選んで歩き出した道ですもの。間違つてゐたと知つたら自分で間違ひでないやうにしなくちやあ」。

森本薫『女の一生』の主人公・布引けいの有名な台詞だ。2019年、ドナルカ・パッカーンは、文学座が杉村春子の主演で繰り返し上演してきた森本薫による戦後の改訂版(補訂:戌井市郎)ではなく、1945年4月に初演された「戦時下の初稿版」(『シアターアーツ』第6号掲載)を上演することを選択した。冒頭に引いた台詞は戦後すぐのものとして受け取るか敗戦間際のそれとして受け取るかで帯びる響きが変わってくる。そこにあるのが痛烈な皮肉であるならば、それは現在の日本にこそ有効だ。

『女の一生』はそのタイトルの通り、布引けい(内田里美)という女性の少女時代から初老に至るまでを描いた「大河ドラマ」だ。背景にあるのは日清戦争から太平洋戦争までの複数の戦争。日清戦争で親をなくしたけいはある偶然から堤家に引き取られ、長男・伸太郎(田辺誠二)と結婚し、やがて支那貿易に手腕を発揮する女傑となっていく。

[撮影:三浦麻旅子]

この作品が繰り返し上演されてきたのは、それが現在にも通用する、ある意味でベタなメロドラマとして書かれているからだろう。密かに思いを寄せていた次男・栄二(鈴木ユースケ)とは結ばれず、堤家への恩返しのために伸太郎との結婚を選ぶけい。しかし堤家のためと商売に注力するほど家族とはうまくいかず夫とは別居状態に。久しぶりに帰ってきた栄二をけいが特高に引き渡してしまったことをきっかけに娘・知栄(海老沢栄による人形遣いのかたちで演じられた)も家を出ていってしまう。時が経ち、再会した夫との間に再び思いが通い合うかに見えるが直後、夫はけいの腕のなかで息を引き取るのだった。改訂版ではさらに、戦後、帰ってきた栄二と堤家の焼け跡に佇むけいとが劇的な再会を果たす場面が物語の全体を挟み込むように冒頭とラストに置かれている。

「戦時下の初稿版」に戦後の場面は当然ない。冒頭とラストは1942年の正月、つまり真珠湾攻撃の直後に設定されている。栄二が不在の間、堤家は彼と中国人の妻との間にできた4人の娘(辻村優子、宇治部莉菜、城田彩乃、大原富如)を預かっている。家の外から軍歌が聞こえくるなか、けいは言う。「あなた方はみんな中国へ帰つて、新らしい時代を造る、お母さんになる人達です」。正月はけいの誕生日であると同時に彼女が堤家にやってきた日であり、そして先代しず(丸尾聡)の誕生日でもあった。ここには明確に「母」の継承の構図がある。

[撮影:三浦麻旅子]

改訂版では家を失ったけいが栄二と再会し、再びひとりの女として栄二の手を取り踊ろうとするところで幕となる。「私の一生ってものは一体何だったんだろう。子供の時分から唯もう他人様の為に働いて他人様がああしろと言われればその様にし、今度はそれがいけないと言って、身近の人からそむいて行かれ、やっとみんなが帰って来たと思ったら、何も彼もめちゃめちゃにされてしまい、自分て言う者が一体どこにあるんだか」と言うけいに栄二は「今までの日本の女の人にはそう言う生活が多すぎたのです。しかしこれからの女は又違った一生を送る様になるでしょう」と応じる。敗戦は同時に家からの解放となる、はずだった。

実際はどうか。「女も三十を越して一人でゐるといふことは、精神的に工合が悪いやうだな」「男つてほんとうに勝手なものだわ。結婚するまではさんざ気嫌をとつて、人の後からついて廻つておきながら一度一緒になつてしまふと、とたんに威張り出すんですからね。二言目には大きな声を出して怒鳴るし」「女には、どうしても女しかもつてゐないつていふものがある。お前にはそれがないのだ」。これらの台詞は初演から75年が経ついまなおリアルなものとして聞こえ得る。その事実はこの作品の普遍性ではなく、ある面において日本社会が一向に変わっていないということを如実に証立ててしまう。女傑として家を切り盛りするけいも結局は「家」に取り込まれた存在に過ぎず、さらにその営為を次代につなごうとする。構造の再生産。それはいままでのところ十分にうまくいっているようだ。

[撮影:三浦麻旅子]

「私は今感じるのです。自分よりも、家よりも、もつと大事なものがあるつてことをね」。栄二を特高に引き渡したけいはこう言っていた。『女の一生』は家という、国家という装置によって駆動するメロドラマだ。国策的なプロパガンダ組織である「日本文学報国会」の委嘱によって書かれたこの作品は極めて「教育的」であり、同時に痛烈にアイロニカルでもある。

家からの解放を結末においた改訂版ではなく「教育的な」初稿版をこの時期に上演するという選択は企画者であり演出を担当した川口典成のアイロニカルな慧眼であり、それはおそらくいくばくかは初演時の森本の意図とも重なっていたのではないだろうか。一部男女逆転の配役や人形遣いによって演じられる子どもなど、「普通」から外れた人々がひとりまたひとりと物語から退場していくのも不穏だ。ドナルカ・パッカーンはこれまでにも「日本における演劇と戦争の蜜月にあった『歓び』を探求」するという宣言の下、平田オリザ『暗愚小伝』、太宰治『春の枯葉』、森本薫『ますらをの絆』を上演してきた。ある大きな流れがあったとき、単にそれに反対するのではなく、そこに向かう動きをこそ注視すること。「同質性とは別の『異質の演劇』を志向する」川口の試みにはまだまだ見るべきものがあるだろう。

[撮影:三浦麻旅子]


公式サイト:https://donalcapackhan.wordpress.com/
ドナルカ・パッカーンブログ:https://note.com/donalcapackhan(作品背景についてはこちらを参照のこと)
森本薫『女の一生』(青空文庫):https://www.aozora.gr.jp/cards/000827/files/4332_21415.html

2019/11/8(金)(山﨑健太)

VISIONEN -ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズVol. 9 『HOMOHALAL(ホモハラル)』

会期:2019/11/23~2019/11/24

FLAG STUDIO[大阪府]

現代社会をテーマにしたドイツ語圏の劇作家の戯曲をリーディング公演で紹介する、「ドイツ同時代演劇リーディング・シリーズ」。9回目は、シリア出身のクルド人劇作家、イブラヒム・アミールによる『HOMOHALAL(ホモハラル)』(2017)。エイチエムピー・シアターカンパニーの俳優、髙安美帆の演出により、日本人の俳優によって上演された。アミール自身、シリアの大学で演劇を学ぶも、クルド人学生運動への参加を理由に退学処分となり、ウィーンに渡った経歴をもつ。本作は、劇場や支援機関と協同し、難民たちと対話する演劇ワークショップをもとに執筆された。

舞台は、難民受け入れ問題で揺れた2017年から20年後の、2037年のドイツという仮想の未来。当時、難民の庇護権を求めて共闘していた若者たちは、親世代となり、仲間の1人の葬式で久しぶりに再会する。シリア、イラク、パキスタンなど出自の異なる彼らは、ドイツ社会に馴染み、市民権も得て、恋に落ちて難民どうし結婚した者もいるなど、穏やかに暮らしている。だが、ゲイである息子を父親は受け入れることができず、夫婦や友人間の亀裂といった日常的な諍いから会話は次第に綻びや対立の相を見せ、社会に完全に溶け込めない疎外感、異文化間の軋轢、ヨーロッパ社会の偽善や自己満足に対する糾弾、同化吸収=文化的なルーツの喪失への批判といった「剥き出しの本音」が噴出し、「安全のためには自由を制限すべきだ」と叫ぶ者の演説で幕を閉じる。タイトルは「ホモ」と「ハラル」(イスラムの教えで「許されている」を意味するアラビア語)を掛け合わせた造語だが、「ホモ」には、「ホモセクシャル」(ひいては何らかのマイノリティ性を持つこと)と「同質性」(社会のマジョリティに同化吸収しようとする圧力)という二つの意味が引き裂かれながら内包されている。



撮影:岸本昌也


本上演はリーディングだが、「演出」の要素が強く打ち出されていた。そこには、「ヨーロッパにおける難民問題」という主題が、「日本で日本人俳優が日本語で演じる」上演において、演出的な介入を必要とせざるを得なかったという力学が浮かび上がる。とりわけ肝となるのが、冒頭のシーンだ。登場した俳優は、自分自身の名前を(繰り返し)名乗りつつ、シリアから地中海をボートで渡る危険な航海を経てウィーンに辿り着いた経験を語る。そして、今や難民がプロの俳優に取って代わり、自身の体験の「悲惨さ」「非人道性」を語ることが引っ張りだこであるという、ヨーロッパ演劇界の「政治的正しさ」に対して強烈な揶揄を繰り出す。初演では、この冒頭のパートは、実際の難民が本名を名乗って登場/出演した。だが、「難民」が不可視化され、「単一民族」神話の浸透した日本という上演の文脈において、「ヨーロッパの観客」向けの強烈な批判をどう俎上に載せるのか? という難問が立ちはだかる。戯曲に書かれた内容を、日本人俳優がそのまま「難民役」として演じた場合、演劇の「約束事」に吸収され、無害化・無効化されてしまう。ドイツ語から日本語へ、という言語間の翻訳とは別に、「文脈の翻訳」の作業が必要となるのだ。本上演では、このパートを、別のマイノリティ性を持った俳優に発話させるという置換の作法により、マイノリティ性・異質性を担保してみせた。



撮影:岸本昌也


また、もうひとつの仕掛けとして、「演じる役のポートレート」が描かれたパネルの効果的な使用がある。1人の俳優が2~3役を演じ分ける際の視覚的なわかりやすさに加えて、難民を「固有の顔貌を持った個人」として顕在化させる機能を持つ。同時に、仮面としての「役柄」の提示は、日本人の俳優/中東出身の(元)難民というズレや乖離を常に意識させ続ける装置としても機能する。



撮影:岸本昌也


ラストシーンでは、それまでずっと「妻」「母」の立場で発話していた者が、「安全のためには自由を制限すべきだ」「誰かがドアを押さえないといけない」と語り出し、モノローグは激しさを増す演説へと変貌していく。そこでは鬱屈の噴出というよりも語る主体自体が曖昧化し、「保守主義の権化」が実体化してしゃべっているようにも見える。彼女を取り巻く他の俳優たちは、ポートレートの描かれたパネルを裏返し、裏面の「白紙」をプラカード/バリケードのように掲げる。それは、全体主義的な社会への同化吸収によって、個人の顔貌が消されて匿名化していく事態の暗示とも、排他主義的な演説に抗議して止めさせようとしている身振りとも取れ、極めて両義的だ。

ドイツの同時代戯曲の紹介という意義、「難民」「共生社会」というテーマに加え、「ヨーロッパにおける難民問題、劇場文化への批判」をどう日本での上演に接続させるかという困難な問題に関しても問いを投げかける上演だった。

2019/11/24(日)(高嶋慈)

はなもとゆか×マツキモエ『VENUS』

会期:2019/11/21~2019/11/23

京都芸術センター[京都府]

ポップでキャッチーな世界に潜ませた毒と批判精神が持ち味のダンスデュオ、はなもとゆか×マツキモエ。平塚らいてうのスローガン「元始女性は太陽であった。」に続き、「しゃもじをラケットに」と謳うコピーが付けられた本作では、「約1時間の上演時間中、安室奈美恵の楽曲が流れ続ける」という過剰な多幸感に満ちた世界で、ピンポン球=卵すなわち生殖や世間的圧力のメタファーが飛び交うなか、「ラケットで球を打ち返す」脅迫的な身振りの反復、男女間の支配や依存の関係、そして自立への意志が紡がれていく。



撮影:前谷開


本作を特徴づけるのは、歌詞やモノローグとして声に出されるものと、身体的な位相との落差だ。ひたむきな恋愛の純粋さ、ポジティブさに溢れた安室奈美恵の歌詞。恋バナや合コンでの出来事を語る、はなもとのモノローグ。その一方で、支配と依存、暴力といった男女間の力関係が、支配/被支配の関係性や主導権を流動的に入れ替えながら、短いシークエンスの連なりとして活写されていく。例えば、序盤と中盤で反復される、腹ばいで進む男の背に馬乗りでまたがる支配者としての女。一方、別のシーンでは、女の身体は2人の男に物体のように引きずり回され、仰向けに横たわった顔の上にはピンポン球が容赦なく落とされ続け、女性の身体に加えられる暴力を暗示する。男女が身体の一部を次々と接触させながら絡み合うシーンは、コンタクトによるダンスムーブメントと激しいセックスの境界を融解させていく。そこでは相手に馬乗りになる側が絶えず入れ替わり、支配/被支配の流動性を示すとともに、組み敷かれた側の者がコンタクトによって相手の動きをコントロールしている可能性もあるのだ。



撮影:前谷開


また、舞台上ではしばしば、生殖のメタファーとしての「卵」およびその相似物としてのピンポン球が飛び交うのだが、ラケットの素振りを反復する身振りは、見えない球を打ち返す、つまり見えないプレッシャーをはね返し続ける脅迫衝動を暗示する。あるいは、それぞれの長い髪の毛をひとつのお下げに編み込んだ男女は、文字通り一心同体となって足並み揃えたスキップで登場するが、依存/束縛から脱け出そうともがく女は、最終的に自分だけの髪の毛でお下げを編み直し、自立への意志を示す。

不気味なのは、これらの光景を、一段高い奥の壇上に身を置いて一見無関心を装いながら、実はコントロールしているような超越的な者の存在だ。ピンポン球=卵を容器から容器へと移し替え続け、何らかの秩序や選別を司るこの者は、ラストで大量のピンポン球=卵を舞台上にぶちまける。四方八方から飛んでくるその球=プレッシャーをはね返そうと素振りを続ける女たちは、相手が不在のまま、1人で戦う孤独なゲームにいつまで従事させられるのか。彼女たちのしんどさは、「延々と垂れ流されるアムロちゃんの曲が次第に暴力性を帯びてくる」体感のプロセスとして、観客にものしかかる。アップテンポの多幸感溢れるラブソングを聴かされ続けるしんどさ、「常に恋してキラキラしていないといけない」圧力をかけられ続ける暴力性に、観客もまた晒されるのだ。表面的なポップさとは裏腹に、身体を賭した切実な希求がここにはある。



撮影:前谷開


2019/11/21(木)(高嶋慈)

関田育子『フードコート』(昼のフードコート)

会期:2019/10/19~2019/11/17

TABULAE[東京都]

『フードコート』という作品にはテクストを書いた新聞家・村社祐太朗自身の演出による(いくつかの)上演のほかに、関田育子の演出によるバージョンが用意されていた。「関田育子の演出」とひとまず書いたものの、関田の近作において「演出」など職掌別のクレジットはなく、創作に携わった人間はみな「クリエーションメンバー」としてクレジットされている。よって、「関田育子の演出」と言ったとき、関田の名はチーム全体を指すものとしてある。また、公演の名義こそ「関田育子」となっているものの、新聞家の同名の公演期間中、同会場での上演であり、これは新聞家の企画でもあったのだと考えるのが妥当だろう。村社は新聞家の前回公演『屋上庭園』で初めて自分以外の人間が書いた戯曲を演出した。村社の側からすると今回はその逆、自分が書いたテクストを他人の演出に委ねる試みだということになる。新聞家は一貫して「他者と対峙すること」に取り組んでおり、これまでの戯曲の多くが「家族」についてのものだったのもその反映とみなせる。

当日パンフレットに「昼のフードコート」と記載があったことから推察するに(予約時には明示されていなかったものの)、関田版ではどうやら昼夜で異なる演出が採用されていたらしい。私は夜の公演は見られなかったのだが「昼の公演では、新聞家の主宰である村社さんが書いたテキストを思考の中心におき、それとどう関係していくのかが論点に置かれた」とある。

戯曲としての『フードコート』は(おそらくは)ひとりの視点からの内省的な語りのテクストだ。ある場面が詳細に描かれることはなく、具体的な部分はあっても断片的なイメージが連なっていく。村社版の俳優はほとんど動かないまま、訥々と言葉を発するのみ。客席やガラス戸越しに見える屋外の空間も上演の一部としてデザインされていることは明らかだが、それらと語られる言葉との間にはほとんど関係がないらしいことは初見の観客も了解するところだろう。ひとまずは朗読のような(しかしテキストが眼前にあるわけではない)ものだと考えればよい。一方、関田版の俳優(中川友香)は屋外も含めた空間を動き回りながら言葉を発する。必然的に、観客はその動きと語られる言葉との「正しい」関係を探ることになるのだが、ときにガラス戸に外から張り付いたままカニ歩きをするような動きにどんな解釈が「正解」たりえるだろうか。言葉と動きとを結びつけて理解しようという試みはおおよそ失敗する。

私がギリギリ引っかかったのは、バナナのように剥いて噛みついたハンバーガーがレモンのように酸っぱかった場面だ。そんな場面はない。ないのだが、まず彼女は空の手を胸のあたりまで持ち上げると、バナナの皮を剥くような動作をする。それは握られることなく、肉まんを食べるときのように左右からそれぞれ添えられた五指によって顔の前に運ばれる。かじるように動いた彼女の顔は梅干しを口に含んだかのごとくゆっくりと歪み、戻り、また歪む。「二番目のレモン」と「黄色い包み紙」。かろうじてつながる単語と不可解な動作があり得ないイメージを私に植えつける。あるいはそれは、すでに村社版を見ている私による、言葉に先立った解釈だったようにも思う。いずれにせよそもそも戯曲に私の妄想と一致する場面はなく、多くの場面で言葉の落ち着きどころはない。

今までの関田作品では、言葉と動作の結びつきが明らかになる瞬間、そしてそれらがズレ、歪んでいく瞬間に演劇的快楽があった。そこでは基本的に、観客の想像は関田によって一定の方向に導かれている。だが、今回の上演ではテクストと上演とをどう結びつけられるかはほとんど完全に観客に委ねられていたように思う。そうであるならば、それは夜空に星座を描くのとどう違うのだろうか。


公式サイト:https://ikukosekita.wixsite.com/ikukosekita

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2019/11/17(日)(山﨑健太)

青年団若手自主企画vol.79 ハチス企画『まさに世界の終わり』

会期:2019/11/08~2019/11/24

アトリエ春風舎[東京都]

グザヴィエ・ドランによって映画化もされた戯曲『まさに世界の終わり』(映画邦題は『たかが世界の終わり』)。作者のジャン=リュック・ラガルス(1957-95)は現在、フランスでその作品がもっとも上演されている劇作家のひとりだ。

自らの死が近づいていることを知ったルイ(海津忠)はそのことを告げるため、何年も会っていなかった田舎の家族のもとに戻ることを決意する。老いた母(根本江理)、彼女と暮らす11も年の離れた妹・シュザンヌ(西風生子)、田舎に残り母のそばに住み工具工場で働く2つ下の弟・アントワーヌ(串尾一輝)、初めて会うその妻・カトリーヌ(原田つむぎ)。彼女たちは地元を離れたまま戻ってこない長兄に屈折した思いを抱いており、突然のルイの来訪は家族の関係を軋ませる。ギスギスし張り詰めた雰囲気と繰り返される言い争い。ルイはやがて訪れる自らの死を伝えることができないまま再び家を離れることになる。

[撮影:渡邉織音]

この戯曲にはト書きがほとんどない。台詞は基本的に家族の会話、あるいは彼らの独白だが、その境目は極めて曖昧だ。冒頭に置かれたルイの独白は実家に戻る決意を告げる。だがそれはいつ誰に向けて語られたものなのか。演出の蜂巣ももと舞台美術の渡邉織音は、舞台空間を「記憶の場」として上演を立ち上げてみせた。

会場となったアトリエ春風舎は地下にあり、観客は螺旋階段を降りて劇場に入る。観客が入って来たのとはちょうど逆側にも階段があり、舞台裏に通じるそちらは俳優やスタッフの出入り口となっている。冒頭、懐中電灯を手にしたルイがその階段を降りてくる。階段を降りてすぐの場所にはダイニングテーブルと椅子。舞台上方には屋根の枠組みのようなものが吊られているが、それは半ば分解しかかっている。少し外れたところに子どものおもちゃにしては大きい木製の馬。周囲にはガラクタが散らばっている。落ちかかる窓枠から射し込む光。

地下室に転がり埃をかぶったガラクタには、しかし家族の思い出があったはずだ。ルイは地下室=実家に足を踏み入れ、それを確かめようとする。だが、家族といえど必ずしも思い出が共有されているわけではない。ばらばらの記憶と思い。ある意味では長年のルイの不在こそが家族が共有する唯一のものだ。彼らはかつて共に過ごした時間をよすがに再び家族であろうとするが、互いに持ち寄ったピースがうまくはまることはない。ぶつかる破片が軋みをあげる。

[撮影:渡邉織音]

[撮影:渡邉織音]

戯曲に描かれているのは「もちろんある日曜日、あるいはほぼ丸々一年の間の出来事」だ。それはルイが家族と再会したある日曜日のことであり、それから彼が死ぬまでの一年間のことだろう。場面はときに突如として中断し、同じく中断した音楽とともに不自然に繰り返される(音響:カゲヤマ気象台)。AV機器の再生不良のようなそれもまた記憶の再生、あるいはその齟齬を思わせる。ルイは再会の記憶を、それがうまくいかなかったとしても、いや、むしろうまくいかなかったからこそ反芻し続ける。家族の記憶を映し出しうつろう光は美しくも切ない(照明:吉本有輝子)。

だが、家族との記憶を反芻するのはルイだけではない。第二部第三場には12ページにも及ぶアントワーヌの台詞がある。「ルイ?」という呼びかけで終わるその長い独白は死者への語りかけの響きを帯びる。ルイもまた、思い出される家族のひとりとしている。

戯曲の解説で訳者の齋藤公一は「この戯曲が確固としたメッセージを伝えてはいないのはどうやら明らかなようだ。何かが語られてはいる。だがその内実は聞こえそうで聞こえて来ない。うまく噛み合わない対話が続き、空しい独白があいだを埋めていく」と書いている。だがそれは無関心や憎しみではなく、愛ゆえのことだ。だからこそ不協和音は痛切に響く。蜂巣演出と渡邉美術、俳優たちの演技はそこにある哀しみを見事に可視化し触知可能なものとしていた。

[撮影:渡邉織音]

蜂巣はこれまで、イヨネスコやベケット、別役実やカゲヤマ気象台らの戯曲を演出してきた。難解な戯曲にも粘り強く取り組み舞台上にその核を立ち上げる手腕はすでに一部で高い評価を得ているが、ある意味ではスタンダードな家族ものである『まさに世界の終わり』の上演は演出家・蜂巣ももの力量を改めて示す結果となった。戯曲の魅力を引き出すたしかな力を持った若手演出家として、今後は外部企画での戯曲上演の機会も増えていくのではないだろうか。


公式サイト:https://www.hachisu-kikaku.com/
円盤に乗る派『おはようクラブ』(蜂巣もも演出)劇評:http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/kangekisusume/2019/12/noruha.html

2019/11/11(月)(山﨑健太)

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