artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
ほろびて『あでな//いある』
会期:2023/01/21~2023/01/29
こまばアゴラ劇場[東京都]
『あでな//いある』(作・演出:細川洋平)というタイトルはdenialに由来する。つまり作品に「否定」という単語が冠されているのだが、一見して「明らかでない」ように、そのことはタイトルを見てすぐさま了解されるわけではない。アルファベットは(不定冠詞のaを付されたうえで)ひらがなへと変換され、中央に置かれたスラッシュが単語を分断しているからだ。そもそもdenialという英単語を知らなければその意味はわかりようもないだろう。そこに「否定」があることは容易には認識され得ない。そういえば、denialには精神分析の用語で「受け入れがたい現実を認識することそれ自体を拒むこと」を意味する「否認」という意味もあったのだった。見えないものに目を向けるにはまずはそれが見えていないことを、見えていないものがあることを認識することが必要で、だからそれは途方もなく困難な道のりだ。
舞台は美容師(伊東沙保)と客であるいべ(内田健司)のやりとりで幕を開ける。「塀があるでしょ、このお店の向こう側、わかります?(略)ここからだと見えないと思うんですけど、あるんですよ塀が向こうが見えない塀が」。美容師はそこにバンクシーが来たのだなどと、ほとんどいべを無視するような勢いで延々と話し続け、いつまで経っても髪を切ろうとする気配がない。ようやく切ろうとしたところでアシスタントのリンなる人物が紹介されるのだが、いべには、そして観客にもその姿は見えない。「本当にいます?」と戸惑いながら問ういべに、美容師は「え、本当に見えないんですか?」「見えないわけないんですけど」と答えるが、いべは結局、本当はそんな人物などいないのだと結論づける。
ところが、である。次の場面ではリンは実体を持った人間として、というのはつまり、吉岡あきこという俳優によって演じられる人物として舞台の上に登場するのだ。それでもいべにその姿は見えていないらしい。これは一体どういうことなのか──?
一方、高層マンションの地下の一室では雨音(生越千晴)、花束(中澤陽)、油田(鈴木将一朗)が暮らしている。家族ではないながらも身を寄せ合って暮らしている三人はどうやら「この国」の人間ではないらしい。雨音と花束は油田の誕生日を祝ってスケッチブックをプレゼントするが、うまく喜ぶことができない油田は何か事情を抱えているようだ。
物語は主にこの二つの場面を行き来しながら進み、やがて雨音が美容室を訪れるに至ってようやく、いべには「この国の人間」以外の人間が見えていないのだということが明らかになる。雨音は「ここに私たちいるんですけど、この場所に、私たちはいるんですけど!」と自らの存在を訴えるが、その声はいべには届かない。いべは決してわざと雨音たちを無視しているわけではなく、本当にその存在を認識できない様子なのだ。美容師はそこにリンと雨音がいるのだということを繰り返し告げるが、いべはそのことを認めようとはしない。とはいえ、もちろんリンたちは確かに存在しているので、物理的な接触が生じればいべはよろめいたりもする。姿の見えない誰かが存在する気配はいべを不安にさせ、否定はますます激烈な調子を帯びていくことになる。
劇中で「この国」がどこであるかが具体的に示されることはない。舞台奥の崩れかけた壁とバンクシーのエピソードはウクライナを思わせ、油田の発する仮放免という言葉は例えば日本の入管施設の収容者や技能実習生への非人道的扱いの数々を想起させる。
あるいは、劇中でたびたび言及されるカトマジャペニールがクルド料理だということを知っていれば、私はこれをクルド人の(いる場所の)話として見ていたかもしれない。「この国」と「それ以外」という分断は世界共通だが、現状「自らの国を持たない民族」であるクルド人はどこにいっても「それ以外」の側に置かれてしまう。
いや、たとえカトマジャペニールをクルド料理だと知らなかったとしても、それは何だと調べてみれば、そこからクルド人が置かれている現在の状況を知ることだってできたはずなのだ。雨音たちの郷愁や団結、希望の象徴のような役割を果たしているカトマジャペニールは、見えていない(かもしれない)ものに観客が手を伸ばすための回路のひとつとしても存在している。
では、どうすればいべは雨音たちを認識することができるのだろうか。相手が抽象的な概念としての存在に留まり続けるかぎり、その姿が目に見えるようになることはない。結末はここには書かないが、美容師のささやかな、しかし強い思いに裏づけられた提案は、目の前の、現実に存在する人間の具体性にいべを向き合わせるための一歩となるだろう。
さて、いべのそれのように抽象的な存在へと向けられた否定は具体的な現実によってその呪いを解くことができるかもしれない。だが、具体的な現実によって生まれてしまった否定はどうすればよいのだろうか。許せないことはある。それはどうしようもないのかもしれない。それでも。最後の場面で示されるのは答えではなく、そうして逡巡しながらも進もうとする意志だ。
本作は3月上旬から配信が予定されている。『あでな//いある』にはここには書ききれなかった一人ひとりの物語があり、何より、この作品は具体的な顔を持つ人間が演じる姿と向き合ってこそ意味を持つものだ。公演を見逃した方はぜひ配信をチェックしていただければと思う。
2023/01/25(水)(山﨑健太)
果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』
会期:2023/01/19~2023/01/22
アトリエ春風舎[東京都]
見えないものは存在しないものではない。スーパーカジュアル公演と銘打たれた果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(作・演出:升味加耀)は、カジュアルな地獄をカジュアルに描き出そうとする、いや、それがカジュアルに存在しているからこそこの世は地獄なのだという現実を抉り出してみせる作品だ。
果てとチークは青年団演出部に所属する升味が主宰する演劇ユニット。2019年には升味作の『害悪』が北海道戯曲賞の最終候補に選出されている。今回の「スーパーカジュアル公演」は一義的には「シンプルな作品をお安くご覧いただける機会になれば」と生まれた企画とのことで、前売り2500円で登場人物6人、60分ワンシチュエーションの会話劇が上演された。だがそこで描かれる現実は重い。
ある中高一貫の女子校。夏休みの前日、終業式を終えた放課後の教室。ミスコン実行委員のユミ(中島有紀乃)が、実はすでに投票まで終えたミス・ミスターコンが中止になったのだと言い出す。「外見に順位をつけるのはよくない」「性自認が揺らぐ」が理由らしい。アキ(井澤佳奈)とユミが「セージニン」「なんなんそれ?」「わからん」などと話しているとノザワ(升味)は職員室に行かなきゃだったと教室を出ていく。作品の(一応の)中心に置かれているのはこのミスコンをめぐる騒動に端を発する一連の出来事だ。実行委員長のソノ(川村瑞樹)は、だったら女がロミオを演じるクラス演劇はどうなんだ、レズビアンの設定にしたらどうなるんだと改めてサキちゃん先生(Q本かよ)に抗議に行く。まーちゃん(名古屋愛)はソノの案は乱暴で当事者のことを考えているとは思えないと諌めるが、ユミは「そういう人たち」がそんな割合でいるのか、言ってくれなきゃわからないし言ってくる人はいなかったと言い募り、挙句にノザワがユッキーと付き合っていることを暴露してしまう。まーちゃんと二人きりになったノザワは自分は自分を女とも男とも思えない、性別で判断されたくないと吐露し──。
性的マイノリティ(作中で明示されるのはアセクシャル、アロマンティック、レズビアン、ノンバイナリー)の透明化とその存在への無理解はこの作品のテーマのひとつだが、作中にはほかにも無数の「問題」が顔を出し、生徒たちのおしゃべりは次々と話題を変えていく。ミスコンの中止、専業主婦になること、出産への嫌悪感、ロミジュリ、校内に出た不審者、盗撮、ルッキズム(痩せたいと思うことと好きで痩せているわけではないこと)、演劇部の都大会での「知らないおじさん」からのコメント、大学進学、女装した露出狂(女装している人間がすべて犯罪者なわけではないということ、女もズボンを履くということ)、靴下は白でなければならないという校則(それを守っていない生徒に新しい白靴下を買ってきてまで履き替えさせる副校長)、有名な芸大の先生によるギャラリーストーカー、勤務中に生け花の時間がある銀行、隣接するビルから丸見えの屋上プール、帰国子女へのマイクロアグレッション、付き合いたいと思う気持ちがないことetc etc…。なんとここまででまだ作品の半分でしかない。
これだけのトピックを60分のおしゃべりにまとめ上げた升味の筆と、それを上演として成立させた俳優陣の演技は特筆に値する。だが、作中にはジェンダーやセクシュアリティに関わるものを中心にあまりにも多くのトピックが詰め込まれ、それぞれの問題について丁寧に描き、あるいは深く掘り下げることはされていない。たとえばミスコンの話に物語の焦点を絞って書くという選択肢もあったはずだが、升味はそれを選ばなかった。おそらくそれは、特定の問題を選び出すという行為自体がある種の特権だからであり、現実はそういうわけにはいかないからだろう。無数の「問題」は「関ジャニで誰が好きか」といった雑談と同じ日常のレベルに存在している。ソノは性加害に否応なく直面させられる自分たちを「キモキモ変態キモリアルを日々プレイしてるJK」と表現していたのだった。男性向け恋愛シミュレーションゲーム『ときめきメモリアル』とは異なり、「攻略対象」を選ぶ権利はプレイヤーに与えられていない。それどころか、プレイを拒絶する権利すら与えられていない地獄こそが現実なのだ。
作中の時間は2012年に設定されており、ガラケーが使用されていることや言及される固有名詞などから観客にもおおよその年代は把握できるようになっている。だがこの設定は作中で描かれる現実が過去のものであることを示すよりはむしろ、10年を経て変わらぬ、それどころか悪化している部分さえある現実を示すためにこそ導入されたものだろう。なぜ変わらないのか。変える以前にそもそも見えていないものがあまりに多いからだ。私に見えていない地獄はそこら中に存在し、いまこの瞬間にもその地獄を生きている人間が無数にいる。ならばせめて、可視化された地獄くらいはそのまま受け止めることからはじめたい。
果てとチーク:https://hatetocheek.wixsite.com/hatetocheek
2023/01/21(土)(山﨑健太)
村川拓也『ムーンライト』
会期:2023/01/12
ロームシアター京都 サウスホール[京都府]
出演者の逝去を受け、「主人公不在」という異例の形式で「再演」されたドキュメンタリー演劇。村川拓也の演出作品『ムーンライト』は、70代の視覚障害者の男性、中島昭夫と村川の対話の合間に、「ピアノの発表会」が挿入される構造である。青年時代にピアノを習い始めた動機、同じ頃に発症した目の病気、娘のために買ったピアノ、中島自身の子ども時代、母親の思い出、ベートーヴェンの「月光」に惹かれた理由……。村川に質問を投げかけられた中島が語る、人生を彩った楽曲が、複数の演奏者によってピアノ演奏されていく。この作品は2018年に京都で初演、2020年に東京で再演されたが、2021年に中島が急逝したため、2022年の札幌公演は、主人公がいない「不在」バージョンとして上演された。本公演も同様の形式である。「不在」は村川作品の重要なキーワードのひとつだが、「主人公不在」という新たなバージョンは、単に現実的な要請にとどまらず、『ムーンライト』という作品の射程をより多角的で豊かに拡張していた。特に要となるのが、後述するように、「マイク」の秀逸な演出が示す、ドキュメンタリー演劇それ自体へのメタ批判である。
舞台上には、下手にグランドピアノ、中央と上手に2脚の椅子が向かい合って置かれている。村川が登場し、作品の経緯を説明し、「中島さんはいないが、作品の構成は変えず、できるだけ前と同じように上演したい」と述べる。「では、中島さん、どうぞ」という村川の声。やや長い「空白の間」は、白杖をついた高齢男性が舞台上をゆっくりと歩んでいく時間を想像させる。村川は、対面の無人の椅子に白杖を立てかけ、座面にマイクを置く。そして、もう1本のマイクを握った村川から、目の前の「中島さん」に向けて質問が投げかけられていく。
「今、客席はどんな感じで見えていますか?」「……」「あ、ほとんど見えていないんですね」。冒頭のこのやり取りは、「中島には観客が見えていない/観客には彼が見えている」という、初演バージョンでは存在した視線の非対称性を解消してしまう。それは、観客かつ晴眼者という二重の視線の特権性を手放しながらこの場に立ち会うことを意味する。また、「中島の回答の不在」は、「記憶の想起」という本作の核を二重化して強調する。初演では、村川のインタビューを受ける中島は、「過去を思い出しながら、現在時において語る」という二重化された時制のなかにいた。さらに本公演では、(筆者のように)初演を見た観客は、「中島が初演で何を話していたか」を思い出そうと、「初演時の記憶」を召喚して空白を埋めながら観劇することになる。
もちろん、初演を見た観客はすべての会話を記憶しているわけではないし、初演を見ていない観客もいる。だが、本作の構造が「モノローグ」ではなく「村川との対話」であること、さらに「中島が視覚障害者であること」により、中島の語りはまったくのブラックボックスではなく、ある程度輪郭を保って保存・伝達される。ここに「不在」バージョンの成立の鍵がある。村川は、対話相手の言葉を繰り返す「ミラーリング」のテクニックをしばしば駆使し、要所要所で「話の流れの整理」をし、「では、いま話してもらった○○の曲を演奏してもらいます」といった「進行役」を務める。また、背景のスクリーンには、中島の自宅のピアノ、子ども時代や大学生の頃の写真が投影されるのだが、「何が写っているか」が「見えない」中島に対し、村川は視覚イメージを「言葉」に置き換えて伝達するからだ。
このことは逆説的に、「ドキュメンタリー演劇」を自己批判する事態へと変貌する。「インタビューに基づき、本人が出演して自身の言葉で語る」ものであっても、舞台上のやり取りは原理的に「何度でも再現可能」で「編集・再構成されている」ことをさらけ出すのだ。「中島が質問に答えて話している時間」を「適切に」取る村川は、「そこに中島がいる」フリでふるまう「演技」と区別不可能になっていく。また、しばしば質問から「脱線」してしまう中島に対して「○○の話はもういいので」と遮り、「ナマの会話では予測不可能なはずの脱線のコントロール」さえも「再現」してみせる。「ドキュメンタリー演劇」も「演劇」である以上、再現可能性と演出家のコントロール下に置かれていることの露呈。この原理的枠組みの強調により、「何が話されたか」は相対的に軽くなっていく。その極点としての「出演者の消去」がここに露出する。
「出演者不在」でも、「制御する演出家」さえいれば「ドキュメンタリー演劇」は上演できてしまうという暴力性。だが、村川は、この暴力性や権力性に対し、終盤の「マイクの仕掛け」により、極めて自覚的かつ誠実に向き合ってみせる。青年時代に目の病気を発症し、同年代で聴覚に障害を抱えたベートーヴェンに対して同じ苦悩を抱えた者どうしとして惹かれ、特に「月光」の曲が弾けるようになりたいと思ってピアノを習い始めた中島の人生。その語りの合間に、中島の娘、母親、ピアノ教師の役を務める女性たちが登場してピアノ演奏を披露する。そして終盤、中島自身による「月光」の演奏が『ムーンライト』のハイライトだ。「不在」バージョンでは、「白杖をもつ中島の腕」に手を添えた村川がゆっくりと舞台を横切り、ピアノの椅子に白杖を立てかけると、中島が演奏した「月光」の録音が流れる。だが、「演奏」は何度も途中でつっかえ、止まってしまう。「74歳になり、記憶が衰え、ここまでしか弾くことができない」と弁明する中島の録音音声が流れる。
「不在」バージョンで唯一、「中島の声」が流れるこのシーンの最大のポイントが、「マイク」である。村川がマイクをピアノの椅子の上に置くと「中島の声」が流れる。ここで重要なのが、「中島が座っていた空白の椅子」に置かれたマイクBではなく、「村川自身が使っていたマイクA」であることだ。これは、演出家が握っていた「発言権・発言能力」の譲渡である。もし、単純に「マイクBをピアノの椅子に置くと中島の声が流れる」のであれば、それまでが「声の封印」という暴力的事態だったことの露呈にしかならないからだ。
1ヵ月前に再演された村川の『Pamilya(パミリヤ)』も、同様に「マイク」の戦略的な使用により、「日本社会で不可視化された要介護の認知症高齢者の声」が、外国人介護士との擬似家族的で親密な関係の中で確かに存在したことを、「抑圧と不在化」を潜り抜けた先に、倫理的態度とともに提示していた。本作でのマイクの転倒的な使用もまた、ドキュメンタリー演劇における演出家の倫理的態度の表明である。舞台上のやり取りが演出家によってどれほど「再構成」されていようとも、ここで中島が語ることは、「彼の記憶力の限界」すなわち「演出家・村川の支配できない領域」が存在することを示す。「途中でつっかえ、それ以上曲を弾けないこと」も含めて、「中島の人生で流れた時間の堆積」の尊厳を否定せずに示すこと。出演者の「不在」によって、『ムーンライト』という作品の輪郭はむしろクリアに浮かび上がったといえる。
なお、「出演者不在」でも、「演出家」さえ存在すれば、「上演」は成立できてしまうという構造は、同時期に上演された相模友士郎『ブラックホールズ』でも共通しており、同公演評をあわせて参照されたい。
公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/96108/
関連レビュー
文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年02月15日号)
地域の課題を考えるプラットフォーム 「仕事と働くことを考える」(その2) 村川拓也『Pamilya(パミリヤ)』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年01月15日号)
2023/01/12(木)(高嶋慈)
江口智之×小寺創太「回顧展」
会期:2022/12/17~2022/12/28
GALLERY10[TOH][東京都]
アーティストの小寺創太がインタビューされ、アーティストの江口智之が編集した《Artist Inteview》(2022)がスクリーンに投影されている。この映像作品は白い部屋の縦型カーテンの傍らで撮影されている。椅子がぽつんと1脚だけ置いてあって、そこに小寺が入ってくるのが冒頭だ。インタビューのアイスブレイクのように小寺が身に着けている服についての質問から応答が始まるのだが、これが何度かカットされてカチンコが鳴って同じような質問とやりとりが繰り返される。正直、なぜカットが入ったかはわからなかった。このことから、このインタビューにはおよそ台本があるか、質問事項だけが先に決まっていて小寺が返答を定めてきたかというように、作意の次元がいくつか見えてくる。
インタビュー映像は何度かカットされつなぎ合わされているが、前後の映像がホワイトアウトしたりクロスオーバーするようなディゾルブ編集が入ることはないから、映像にテンポをつけるような素振りはまったくない。自己紹介や展示に至った経緯、「いる派」とは何か、好きなアーティストや作品は何か。個人についてのことや展覧会に即したテンプレート的だが初見の観賞者にとっても入りやすい質問が配されていて、問答に拮抗はなく、小寺も衒いなくザクザクと答える。最後の「あなたにとってアートとは」という質問に小寺は「蔑称」である旨を説明して終わった。小寺は椅子から立ち上がり、映像のフレームから消えて、おのずと冒頭のシーンと同じ構図になって、作品はループする。ループした瞬間も同じ構図だが、少し外が明るい。映像は10分程度だが、撮影は数時間に渡っただろうかと推察できるようにつなげてあると言えるだろう。
GALLERY10のプライスリストにはいつも出展作品に併せた何かが商品化されている。今回の展示作品は非売品で、小寺にインタビューする権利と江口にインタビューされる権利が販売されていた。この双方へのインタビュー関連行為だけが販売されているさまは、展示作品である《Artist Inteview》の前述した映像としての成立ないし存在がサンプルで、なかったことにしてもいいと言っているようにも思えるし、映像の存在自体、あるいは、作品は手放さなさないものなので手放しませんと言っているようにも思える。発言や映像よりも、プライスリストが気になって仕方なかった。
なお、展覧会は無料で観覧可能でした。
展覧会情報(GALLERY10[TOH]Instagram):https://www.instagram.com/p/ClvdMv7yTcJ/
2022/12/28(水)(きりとりめでる)
文化村クリエイション vol.2 相模友士郎『ブラックホールズ』
会期:2022/12/23~2022/12/25
なら歴史芸術文化村 芸術文化体験棟ホール[奈良県]
傾斜した板に観客が身体をもたせかける、特殊な「スタンディング観客席」でダンスを鑑賞する『エイリアンズ』(2019)。舞台上に並んだ鉢植えの植物と、照明と音響の変化だけを見せる『LOVE SONGS』(2019)。演出家の相模友士郎は近作において、観客の身体への負荷、「身体と視線の固定」の強調、出演者不在、不動の物体/舞台上で流れる「時間」の可視化など、「観客の身体や視線も含め、何が舞台空間を構成し、支えているのか」を問う実験的な作品を上演してきた。
本作は、招聘アーティストがリサーチを経て作品を発表する「文化村クリエイション」の第2弾。ツアー、レクチャーパフォーマンス、「出演者不在の上演」を組み合わせた参加型の作品だ。そして後述するように、ある種の極北を指し示す作品である。
10名の観客はまず、相模に案内され、昨年3月にオープンしたなら歴史芸術文化村の建物の中を回る。子ども用ワークショップスペース、山や池の見えるテラスを経て、相模が滞在制作に使ったスタジオへ。前半は、相模自身が制作動機やリサーチ内容について語る、一種のレクチャーパフォーマンスの時間を過ごす。不眠に悩んだ経験から「睡眠」をテーマにリサーチを開始したこと。覚醒時は自分の身体の輪郭をクリアに意識しているが、睡眠時はゆるい網目のニットのようにその輪郭に穴が空き、外部から何かが侵入してくること。無意識は見えない領域でつながり合っていて、地下茎でつながる竹林に似ていること。
「地下の見えない領域」の話は、「奈良では地面の下に色々埋まっているので、土地を買うのも博打」という話を介して、古墳のリサーチに展開する。相模が話す対照的な2つの古墳は、「演劇」「舞台」についてのメタ的な語りでもある。盛土が失われたため、巨石でできた石室が剥き出しの石舞台古墳は、人気観光スポットだが、「墓」としては機能していない。一方、巨大な前方後円墳である行燈山古墳は、「神聖な中心」を覆い隠しつつ、結界と視線の誘導という空間の演出によって、「見えないからこそ、“内部に石室がある”実在性を信じさせる」ことで、「墓」として機能し続けている。そのとき、「墓石」は視線の客体ではなく、見ている自分自身の中にある、と相模は語る。
その後、階段を下り、搬出入の車両が荷物を積み降ろすトラックヤードへ案内されると、舞台の幕が上がるように巨大なシャッターが昇降する。そしてバックヤードを通り、地下のホールの薄暗い舞台上へ。土が敷き詰められ、発掘現場のような起伏の上を、ライトが催眠的なリズムで揺れている。しばらくして幕が開くと、客席の空間にはベッドが用意され、横たわるよう相模に指示される。「今から『ブラックホールズ』の上演を始めます」「だんだん暗くなります。ごゆっくりお休みください」という演出家の声。上演時間の「最後の30分」は、文字通り「眠る」ための時間にあてられる。暗闇のなか、すぐに何人かのイビキが聴こえてきたが、「誰かが階段を上り下りする足音」が断続的に流れ、私は眠ることができなかった。「物音に遮断されつつ、知らない他人と同じ空間で眠(ろうとす)る」経験は、入院や夜行バスを思い出させたが、避難所を想起した人もいたかもしれない。
少人数でのツアーとレクチャーパフォーマンスという時間を共有した後、知らない他人と同じ空間(劇場という公共空間)で眠れるか? 相模はここで、「演出とは、観客の身体や心理状態のコントロールである」ことを露呈させる。その極限状態が「眠ること」だ。「観客」として規律=訓練された身体が、「劇場空間で眠ること」への抵抗をいかに手放せるか?
これは「規範を破れという要請に従う規範的身体」というひとつの矛盾だが、ここにはさらにもうひとつの矛盾が発生する。睡眠とは意識を手放すことである以上、上演自体が知覚不可能な「ブラックホール」と化してしまうのだ。もし、観客10人が全員眠りに落ちたら、その状態こそが「完全な上演」なのか? そのとき、私たちの無意識が地下茎のようにつながり合った状態が「上演」されているのか? だが、その状態を誰も「意識的に」体験できない。「上演」自体を共有不可能で原理的に「鑑賞」不可能な「ブラックホール」と化す本作。それは、「30分」という始点と終点を伴う「切り取られ、分節化された時間」に局所的に発生して閉じていく、見えない「(複数の)穴」である。
そして、この時間の分節と支配は、演出家の手に握られている。「今から○○の上演を始めます」という「前説」、「上演開始」を告げる演出家の宣言こそが、時間を分節化し、「上演の時間」を存在させ始める。それは極めて行為遂行的な言葉であり、政治性を帯びている。多くの上演において、その言葉は上演の「外部」にあるように置かれ、政治性は覆い隠されている。だが、実はその言葉こそが「上演」を担保し、入れ子状に存在させていることを、本作は剥き出しにしてみせる。だから、上演の「中身」はもはや眼差されなくとも問題ない。ただ、時間を分節化し、支配する「演出家の宣言」だけがあればよいのだ。これは極北の宣言である。
なお、「出演者不在」でも、「演出家」さえ存在すれば、「上演」は成立できてしまうという構造は、同時期に「不在」バージョンとして再演された村川拓也『ムーンライト』でも共通しており、同公演評をあわせて参照されたい。
公式サイト: https://www3.pref.nara.jp/bunkamura/item/2023.htm
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村川拓也『ムーンライト』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年02月15日号)
2022/12/25(日)(高嶋慈)