2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

gallop『ダブルプラス・グッドフル・アングッド』

会期:2020/01/31~2020/02/02

スタジオヴァリエ[京都府]

全体主義国家が監視網を張り巡らせて統治するディストピア的近未来を描いたジョージ・オーウェルの小説『1984年』をモチーフに展開されるパフォーマンス作品。gallopは、京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科出身のメンバーが共同演出・出演を行なうパフォーマンスグループである。

『1984年』がモチーフとはいえ、本作は、小説の具体的なシーンを描写するのではなく、身体表現やモノローグ的な発話で構成される断片的なシーンが展開していく。冒頭、上着の襟元を立てて顔を隠し、足早に行き交うパフォーマーたち。都市の雑踏のなかを他人への無関心と機械的な歩行がただ流れていくなか、一瞬立ち止まった彼らは、宣誓するように右手を上げる、笑い/泣きが区別不可能な表情で顔を歪ませる、目と耳を指さす、へそを露出させるなど、さまざまな身振りを無言で行なう。「中国のウイグル自治区では、街中に監視カメラが設置され、置き引きの軽犯罪すら発生しない『安全』が保たれている」と述べるパフォーマー。「愛」についての説明を、「境界を生み出す」「思考の放棄」「自由を奪う」「自立できない」など対立や従属、暴力をもたらすものとして列挙する、別のパフォーマー。「僕はあなたが嫌いだ」「僕はあなたを侮辱する」「唾を吐きかける」というヘイトの言葉は、初めモノローグとして不在の宙空に向かって発されるが、「あなたは僕が嫌いだ」「あなたは僕を侮辱する」「僕に唾を吐きかける」というように、主客が反転して発話され、憎悪の対象が不在のまま、エコーのように反響しながら増幅していく回路が示される。ビートの効いたダンスミュージックに乗せて、抱えた白菜の葉をちぎって口に含みながら、腰を官能的にくねらせる煽情的なダンス。「家の近くの交差点に爆弾が埋まっていて、区役所の職員が調査に来るのだが、いつ誰が落としたのか、誰の所有物だったのかが分からないと掘り出せない」と淡々と語られるモノローグ。戦争の痕跡と記憶の忘却、「日常」のなかに埋め込まれた暴力、管理システムがその平坦さの上を覆っていく。死体のように横たわったパフォーマーたちの傍らで、「ヒューン」「ドーン」「バババババッ」という空爆の擬音語が発されるが、それは子どもの無邪気な遊びなのか、花火の描写なのかは区別できない。



[撮影:脇田友]



[撮影:脇田友]


このように、監視と疎外、愛と憎悪、性の欲望と暴力がたたみかけるように展開される本作だが、『1984年』と最も重なり合って感じられたのは、「ダイビングのインストラクターが水中で会話するためのハンドサインについて話す」ラストシーンだった。それは、徹底した管理・監視社会が出現し、水中すなわち「沈黙を強いられた世界で話すための方法」の開発と解すれば、希望や抵抗の発露ではある。だが、にこやかに語るインストラクターの背後では、磨りガラス状の壁の向こう側に助けを求めるような手が張り付き、ゆっくりと壁をつたって落下していく。水槽に閉じ込められ、沈んでいく誰かの手。指の跡が一瞬白く残る、その生々しさ。私たちは、インストラクターとともに、声も息もできない水中の世界にこれから入っていくのか。指の白い軌跡が、生々しく脳裏に残っている。



[撮影:脇田友]

2020/02/02(日)(高嶋慈)

乳歯『スクリーン・ベイビー#2』

会期:2020/01/24~2020/01/26

トーキョーアーツアンドスペース本郷[東京都]

乳歯は振付家・ダンサーの神村恵と美術家の津田道子のユニット。『スクリーン・ベイビー』は主に「小津安二郎の映画作品からシーンをいくつか取り上げ、登場人物の動きを振付として捉えて、分析、スコア化、再現、撮影し、それを検証」するシリーズで、2017年にSCOOLで上演された『#1』に続く今回は「TOKAS OPEN SITE 2019-2020 公募プログラム パフォーマンス部門」での上演となった。

今回は『東京物語』から「紀子泣くシーン」「片付けシーン」と『麦秋』から「朝食のシーン」がそれぞれ検証された。取り上げられた三つの場面はそれぞれ異なる形式でスコア化されており、「紀子泣く」のスコアではx軸y軸によって画面を16分割したグリッドを使い「セリフ・音」「アクション」「グリッド位置」「顔の上下方向」「体の緊張度」の五つの項目が記述されている。

観客は元となった映画の一場面の映像、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つを見比べながら「検証」に参加する。興味深かったのは、二つの映像の間にスコアと上演が挟まることで、その都度そこにズレが生じてしまう点だ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

ズレはいくつかの限界による。例えば記述の限界。映像に映るものすべてを記述することは(同じ映像でもないかぎり)不可能であり、スコアからは必然的に欠落する情報がある。あるいは身体の限界。映画のなかの俳優と画面外で彼女らの挙動を真似る神村たちの身体は異なっている。またあるいは反復の限界。人間は何かを完全に繰り返すことはできない(ダンサーである神村の反復の安定感は特筆に値するとはいえ)。再現はつねにいくらか失敗する。そして次元の限界。映画も元は3次元を撮影したものだが、2次元の映画が3次元の再現を経由して再び2次元の映像へ「戻って」くるとき、そこにはやはり欠落と余剰が生まれることになる。いや、これらはやはりすべて引っくるめて記述の限界であり問題なのかもしれない。

記述の限界はカット割りによってあからさまに露呈する。「片付け」と「朝食」では場面のなかで何度かカットが切り替わり、例えばあるカットで画面左側へと出て行った人物が次のカットで画面右側から登場するということが起きる。その映像を観た観客の多くは人物の一貫性を担保にカメラの視点が隣の部屋へと切り替わったことを了解する。だが、現実でそれは不可能だ。

もちろん、単に再現映像をつくるということであれば、映画と同じようにすれば(撮れば)よい。だが奇妙なことに乳歯の二人は、ひと部屋分のセットと一台のカメラで、かつリアルタイムの(つまり編集なしの)映像での再現を試みる。演者が瞬間移動することはできない。必然的にひとりの映画内人物の動きを複数の演者が担うことになる。例えばある人物が画面左側へと出ていく動きを神村が担い、直後に同じ人物が画面右側から再び登場するその動きは津田が担う、というような具合である。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

このような「再現」が「あり」なのは、まず第一に乳歯の二人が注目しているのが画面内の「意味」や「物語」ではなく「運動」だからだ。さらにここには、抽出した小津映画の場面の特性も関わってくる。カットが切り替わってもそこに映し出される空間の構造にほとんど変化がないのだ。日本家屋の特性だと言ってしまえばそれまでだが、カットが変わっても同じような空間が映し出されるようカメラが配置されていることは明らかだ。「再現」用のセットの手前(=カメラ)側には木の棒が吊るされており、それはカットが変わっても大体同じ位置に柱など縦のラインが走っているからだというのを聞いて笑ってしまった。

実は私は個人的には小津映画が苦手で、それは難しい話が展開されているわけでもないのにしばしばそこに何が映し出されているのかわからなくなってしまうからなのだが、それもこの空間の相似性が原因だったのではないか。私は映画内人物の移動、あるいは空間の移動についていけていなかったのだ。

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

[撮影:bozzo/画像提供:トーキョーアーツアンドスペース]

小津ではないが思い出したのが『スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』のあるシーンだ。主人公のレイと彼女から遠く離れた場所にいる敵役のカイロ・レンとがあたかも同じ場所にいるかのように剣を交える場面。それを可能にしているのはフォースの力(超能力のようなものである)だ。カットごとに目まぐるしく切り替わる背景。遠く離れた二つの場所に同時に存在し、あるいは二つの場所を瞬時に行き来することを可能にする時空を超越した力こそがフォース=映画なのだ。

人物さえ一貫していれば背景が切り替わっても観客はそこに連続性=物語を見出し折り合いをつけることができる。それを極端なかたちでやってみせたのが『スカイウォーカーの夜明け』だ。一方で乳歯は、空間内での人物の配置を運動/構造として抽象化して取り出し、そこに一貫性の根拠を置く。「映画をダンスとして見」るとはそのことだろう。そして観客には、元となった映画、配布されたスコア、神村らによる再現とそれを撮影したリアルタイムの映像の四つがほとんど同時に手渡される。時系列はキャンセルされ、四つのメディアの比較のなかから新たな何かが立ち上がる。


公式サイト:https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2020/20200124-6966.html
神村恵:http://kamimuramegumi.info/
津田道子:http://2da.jp/

2020/01/26(日)(山﨑健太)

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」

会期:2019/12/07~2020/01/18

EFAG East Factory Art Gallery[東京都]

百瀬文の個展「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」は三つの映像作品で構成されていた。《Jokanaan》は二面スクリーンの作品で、一面にはシュトラウスのオペラ「サロメ」の一場面を踊る男性ダンサー(武本拓也)が、もう一面にはモーションキャプチャーで男性ダンサーと同じように踊るCGの(陶器像のようなテクスチャーの)少女が映し出される。だが、両者の動きは次第に乖離していき、サロメというモチーフも相まって、虚構の存在であるはずの少女が場を支配していくかのようである。

興味深かったのは、両者の体の動きが次第に乖離していくのに対して、顔の表情は最初から一致していなかった点だ。顔の表情をトレースしてCGに反映する技術も存在するが、今回のモーションキャプチャーは体の動きだけを対象としていて、顔の表情はその範囲外だった。するとあの場を支配していたのは男でも少女でもなく振付だったのだと言ってみたくなる。外部からの指示によって動かされる体と、その動きが呼び起こす情動。顔は唯一許された自由の場だ。曲が終わりに近づくと少女は操り人形のように奇妙に捻れながら崩れ落ち、モーションキャプチャースーツを脱ぎ捨てた男もまた床に横たわる。振付が尽きたとき、二人には動くためのモチーベーションは残されていない。

《Social Dance》はろうの女性とその恋人である男性の手話による対話を映した作品。彼女は恋人の過去の言動を責め、男は彼女をなだめようとしながらもときに強い調子で反論する。激昂する彼女の手を男が取るとき、「愛」と暴力は一体のものとなる。親密な接触が言葉を奪う。

ところで、残念ながら私は手話を解さない。二人のやりとりの内容は画面中央に映し出される日本語と英語の字幕によってしか知ることができない。だが例えば「だって私が介入すると/You got angry」で彼女の言葉が遮られたとき、彼女の手話は日本語英語どちらの内容に対応していたのだろうか。言葉はすぐに再開され、文全体としては日本語と英語とで意味の違いはないことがわかる。しかし彼女は「私が介入すると」と「あなたは怒る」のどちらを先に伝えていたのか。日本語で示されていた「私が介入すると」の方だろうとなんとなく思ってしまうのだが(しかも日本語字幕は英語字幕の上に表示されている)、映像では彼女の頭部はフレームアウトしており、外見から話している言語を推測することはできない(いや、そんなことはそもそも不可能なのだが)。作品に英語タイトルが付されていることから考えれば、むしろ英語の方が主なのだと考えるのが妥当かもしれない。あるいは彼女はまったく別のことを話していて、そもそも二人は喧嘩などしていないという可能性もある。

《I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.》はカメラ=鑑賞者の方を向いた女性がひたすらにまばたきをし続ける作品。女性は初めのうちは落ち着いた様子でゆっくりとまばたきしているが、7分弱の映像のなかでだんだんと顔は歪み、その調子は激しい(あるいは苦痛に満ちた?)ものになっていく。まばたきはモールス信号でI can see youと発しているらしいのだが、手話と同じくモールス信号も解さない私がそれを知っているのは、会場で配布されていたハンドアウトにキュレーターによるそのような記述があったからでしかない。だが、I can see youというメッセージは誰から誰へと向けられたものなのか。それが作品のタイトルにもなっていることを考えれば、画面に映る彼女から鑑賞者へと向けられたメッセージだろうか。だが、彼女から鑑賞者が見えるわけもなく、すると「私にはあなたが見えます」という言葉は端的に嘘になってしまう。作品鑑賞の場において「私にはあなたが見えます」という言葉が正しく成立するのはそれが鑑賞者から彼女に向けられたときだけだ。だが、それは本当だろうか。彼女は確かに見えている。しかし「解説」を読んだ私は彼女の「モールス信号」を自ら解読する努力を放棄してしまった。いや、そもそもあれは本当にモールス信号だったのか。私は本当に彼女を見ていたか。タイトルの裏に潜んだDo you see me?という問いかけは展示全体へと敷衍される。


公式サイト:http://ayamomose.com/icanseeyou/?ja

2020/01/20(月)(山﨑健太)

KAAT DANCE SERIES2019『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』

会期:2020/01/10~2020/01/19

KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]

如月小春の戯曲『NIPPON・CHA! CHA! CHA!』が描くのは敗戦からおよそ20年、東京オリンピックを直前に控えた日本。初演されたのは五輪から24年後の1988年、バブル崩壊前夜のことだった。周囲の期待を背負いマラソン日本代表への道をひた走るカズオ。だが、代表選考がかかったレースの直前に足を捻ってしまう。それを隠したままトレーニングを続けた結果、足は悪化。ついにコーチにも気づかれてしまうが、カズオはそれでもレースに出ると言うのだった。そしてレース当日──。

戦争、オリンピック、バブル、そして再びのオリンピック。歴史は繰り返すという言葉があるが、「戯曲を上演する」という演劇の形式のひとつの意義はここにあるだろう。込められたアイロニーは痛烈だ。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

ヨシダ、キシ、タナカ、ミキ。登場人物の名前は歴代総理大臣からとられている。周囲の期待に応えようとして果たせず、そして消えてしまったカズオは犠牲者だったのだろうか。カズオはこう言っていた。「皆、お膳を囲みながら思ってるんだ。もっと大きなお膳が欲しい、もっと大きなお皿が欲しい、大きな冷蔵庫が、洗濯機が、風呂が、(略)そんな皆の熱い想いが、電波に乗って俺の中に入り込むのがわかる。(略)皆が俺に望んでいるんだよ」。あるいは「僕は皆の夢なんだ。夢は無理矢理さまされるまで、見続けなくちゃいけない。(略)僕は日本だ。日本そのものなんだ」と。レースの対抗馬はニクソン、シュミット、カストロ、モウ、シュウたちだ。国を背負って立とうとしたカズオは、同時に擬人化された国そのものの姿でもある。小さな個人と国とに分裂した登場人物たちは歌う。

「なーんでもない どーうでもいい そーんな気分になっちゃうよ(略)ぼくら けなげな 小市民 胸のここには せつない願い 消費生活 楽しくやろうぜ 小さな脳ミソ キリキリ絞って そのうちいいこと 何かあるだろ(略)NIPPON・CHA! CHA! CHA!」

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

同じくKAATの企画で2019年6月に昭和・平成ver.、令和ver.とふたつのバージョンが上演された多田淳之介演出『ゴドーを待ちながら』(作:サミュエル・ベケット)を思い出す。キャッチコピーは「男たちはいつから待っていたのか。そして、これからも待ち続けるのか」。二幕構成の『ゴドー』は一幕二幕とほとんど同じことを繰り返す。その繰り返しをさらに昭和・平成/令和へと拡張すること。そこには変化は待つものではなくもたらすものではないかという問いかけがあった。「そのうちいいこと 何かあるだろ」。

結局、カズオはレースの最中、失踪してしまう。夢想として挿入される未来において、カズオの存在はほとんど忘れられ、しかし人々は豊かな暮らしを送っているようだ。回顧されるべき過去は忘れられ、ときに捏造される。それは同時にまぎれもない「現在」のことでもある。加害者としても被害者としても無自覚な、能天気な人々。我が身の情けなさに涙が出た。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」演劇版[撮影:宮川舞子]

今回の山田うん演出版では、演劇版に続いてダンス版が上演された。演劇版の途中に10分の休憩はあったものの、それは文字通りに続けて上演される。演劇版のラスト、カズオがひとり亡霊のように立ち尽くす場面は、彼がふらりと動き出すことによってそのままダンス版のオープニングとなる。歴史は繰り返す。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」ダンス版[撮影:宮川舞子]

ダンス版に言葉はなく、構成も戯曲をそのまま「再現」しているわけではなさそうだ。ところどころに見覚えのある場面がある気がするものの、意味内容を正確に汲み取るのは難しい。それでも、演劇版をすでに見ている私は、目の前の動きを物語と結びつけようとする。ダンサーの存在は、その運動は否応なく物語に巻き込まれていく。カズオという存在が、オリンピックにおけるスポーツがそうであるように。

しかし同時に、ダンスは純粋な運動の喜びでもある。演劇版から引き続き主役を演じ舞台上を伸び伸びと動き回る前田旺志郎からは開放感にも似た心地よさを感じた。そこに物語からの解放を重ねて見るのは、それこそひとつの物語に過ぎないだろうか。だがそれこそが、如月のアイロニーに対する山田からのド直球の返答のように思えたのだった。

「NIPPON・CHA! CHA! CHA!」ダンス版[撮影:宮川舞子]


公式サイト:https://www.kaat.jp/d/chachacha

2020/01/19(日)(山﨑健太)

ゲッコーパレード『ぼくらは生れ変わった木の葉のように』

会期:2020/01/10~2020/01/20

旧加藤家住宅[埼玉県]

埼玉県蕨市を拠点に活動を展開してきたゲッコーパレードが新たな演劇祭を立ち上げた。その名も「ドメスティック演劇祭」。ドメスティックは「国内の、家庭内の、業界内の、家畜化された」などの意味を持つ英単語だ。第0回と銘打たれた今回は唯一のプログラムとしてゲッコーパレード『ぼくらは生れ変わった木の葉のように』(作:清水邦夫、演出:黒田瑞仁)が彼らの本拠地である一軒家・旧加藤家住宅で上演された。

舞台はとある一軒家。物語はそこに自動車が突っ込む事故が起きた直後から始まる。「よく見ると、自動車が壁を突き破って、ある家のリビングルームにめり込んでいた」。乗っていたのは学生運動崩れの男(堀井和也)と家出してきたらしい女(鶴田理紗)。居合わせた夫(浅見臣樹)と妻(河原舞)とその妹(崎田ゆかり)はしかしなぜか彼らを歓待し、男と女はずるずるとその家にいることに──。

[撮影:瀬尾憲司]

これまでにもさまざまな作品を旧加藤家住宅で上演してきたゲッコーパレードだが、一軒家が舞台となっている作品を上演するのは今回が初めてなのだという。当日パンフレットには「多くの演劇は劇場で上演され、舞台の上には王宮なら王宮の舞台セットが作られて上演されます。(略)なら私たちもゲッコーパレードとして活動5年目の節目に、ほかの多くの演劇がするようなことをしてみようと思いました。日本の一軒家が舞台の物語を、日本の一軒家で演劇として変わったことをせずに上演しようと思ったのです」と記されている。しかしこれは明らかにおかしい。なるほど、一軒家を舞台とする戯曲を劇場で上演するためには舞台セットを立て込まなければならない。だが、一軒家でそれを上演するならば舞台セットは必要ない。一軒家を舞台にした戯曲を一軒家で上演するというのはたしかに捻りのない企画ではあるかもしれないが「ほかの多くの演劇がするようなこと」にはなっていない。

しかも、本物の一軒家での上演を選択した結果、舞台からは自動車の姿は消えてしまった。本物の一軒家に本物の自動車を突っ込ませるわけにはいかず、舞台美術として自動車が用意されることもなく、それが「ある体(てい)」で演技は行なわれる。本物の一軒家というリアルとあからさまな虚構の奇妙な同居。

[撮影:瀬尾憲司]

もちろん、演劇というのは大なり小なり嘘をつくもので、どこまでを「リアル」とするかについては作品ごとに線を引かなければならない。自動車を「あることにする」というのは許せる嘘の範疇にも思える。だがそれでも、本作における果物の扱いはあまりに奇妙だ。劇中、食べ物が登場する場面では基本的に本物が用いられている(飲み物だけは「ある体」なのだが、百歩譲ってそこはいいとしよう)。バナナにせよみかんにせよ、登場人物たちはそれを食べようと皮を剥くのだが、彼らはそれを実際に食べることはなく、「食べた体」で芝居は進行する。皮を剥かれたバナナやみかんはテーブルの上にゴロンと置かれたままだ。その演出に明確な意図や効果があるとも思えず、私は釈然としないままその約束事を飲み込むしかない。

[撮影:瀬尾憲司]

そもそも、なぜこの戯曲がドメステッィク演劇祭の演目に選ばれたのだろうか。第0回の開催にあたりゲッコーパレードは「誰にとっても我が事のような演劇を」という言葉を掲げているが、1972年に初演され、学生運動の気配を引きずるこの戯曲の上演が果たして、「誰にとっても我が事のような演劇」になり得るのだろうか。

戯曲が描くのは非日常=外部が日常=家=内部に侵入し、やがて絡めとられていくまでの時間だ。この戯曲が収録されているハヤカワ演劇文庫『清水邦夫Ⅰ』の解説で古川日出男は「劇場には外がある。体制にも外がある」と書いている(「外」にはそれぞれ傍点)。だが、外部など本当にあるのだろうか。

ゲッコーパレード版の上演では、そもそも自動車はリビングルームに突っ込んでいない。外部ははじめから侵入などしていない。リビングルームの外にあるべき劇場はなく、そこには地続きの一軒家があるだけだ。観客である私も奇妙な約束事を飲み込んで共犯者としてそこにいる。外部はない。

この戯曲の上演が「誰にとっても我が事のような演劇」となり得るとしたらそのようなパラドックスにおいてだろう。内部の論理が肥大し外部を飲み込みんでいくその様子はたしかに、あまりに2020年の日本的だ。

[撮影:瀬尾憲司]

[撮影:瀬尾憲司]


公式サイト:https://geckoparade.com/

2020/01/11(土)(山﨑健太)

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