artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022
フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』
松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』

ロームシアター京都 サウスホール、THEATRE E9 KYOTO[京都府]

「美」という絶対的権威の下に女性の身体を搾取・消費してきたバレエの制度に対し、ポルノ・サーカス・フリークショー・スタントの猥雑さやキッチュさを総動員して過激なアンチを突きつけるフロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』。月経の理不尽さや痛みをコントロールするために、相撲の四股を参照した新たな「儀式」を開発する松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』。本稿では、「女性の身体の表象/不可視化されるもの」「身体の鍛錬・改造」「“痛み”をどう肯定的に取り戻すか」という共通項から、この2作品を取り上げる。

ウィーン出身の気鋭の振付家、フロレンティナ・ホルツィンガーは、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭2021 SPRINGで映像上映された『Apollon』においても、バレエとフリークショー、ボディビル、マシン・トレーニング、スプラッター、SMプレイ、スカトロを接続させ、全裸の女性パフォーマーによる血みどろの饗宴を通して、「規範的な美」「男性のポルノ的欲望の視線」の拘束からの解放を提示した。『Apollon』というタイトルは、1928年に同名のバレエ作品を振付け、バレエ界に父として君臨するジョージ・バランシンを示唆する。作中で『スター・ウォーズ』のパロディが示すように、「悪役かつ絶対的存在である父(=ダース・ベイダー/バランシン)」を女性たちが倒すというストーリーが、さまざまな身体鍛錬や「逸脱的」な快楽のプレイを通して描かれる。

一方、三部作の最後を飾る『TANZ』が下敷きにするのは、19世紀ヨーロッパのロマンティック・バレエ。儚く美しくこの世のものではない「妖精」を表現するために、トゥシューズを履く苦痛を女性だけに与え、ポワント(爪先立ち)で重力を感じさせない軽やかさを求め、実際に吊り物の使用で「飛翔シーン」が演じられた。ロマンティック・バレエの構成を踏襲し、二部構成の本作では、第一幕で「老いた女性教師が指導するバレエのバーレッスン」が展開する。ただし、女性教師は全裸。「暑いでしょ」と言われた生徒たちも次々と服を脱ぎ、全裸でのバーレッスンが淡々と続く。脱衣の指示にも「型の習得」にも従順に従う生徒たち。「教師による生徒の支配」を通じての、「(バレエのポジションという)規範的身体の獲得」という二重の身体の支配があぶり出される。だがそこに、サーカスの曲芸、マジック、スタント、フリークショーなど「ハイアートの領域外」が召喚され、スペクタクルとしての同質性を暴くと同時に、生徒たちは、トゥシューズとポワントに依存しない「超人的な飛翔能力」を試み始める。お団子に縛った髪で身体を吊るワイヤーアクション。回転する宙吊りのオートバイにまたがり、脚や腕だけで身体を支えるパフォーマーは、「危険なアクションをこなすスタントマン」というジェンダー規範を転倒させつつ、「バイクにまたがり腰を振る美女」というポルノの定番を示し、崇高さもまとう。

生徒たちが魔女やオオカミに姿を変え、血みどろの饗宴と惨劇を繰り広げる第二幕のハイライトは、肩甲骨辺りの肉に巨大な鉤針を貫通させてワイヤーで吊る、衝撃的な「空中浮遊」だ。ただし、女性たちの「勝利のポーズ」で終わる『Apollon』と比べ、ラストは皮肉。狂乱の末、魔女もオオカミも老教師も血糊まみれで死ぬが、何事もなかったかのように再びバーレッスンが開始される。「規範的身体の鍛錬」はそれほどまでに深く内面化されているのだ。



フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022)
[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]



フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』(2022)
[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]


一方、リサーチを元に、レクチャー・パフォーマンスとダンスを融合させる松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロの『女人四股ダンス』が扱うのは月経。近年、「生理の貧困」が構造的問題として指摘され、自治体や学校でのナプキンの無料配布や、女性の心身の不調をテクノロジーで解決を目指す「フェムテック」の商品開発が進み、月経についてオープンに語られる機会が増えてきた。だが、「舞台公演と月経」の関係は「ない」ことにされてきたのではないか。本作の出発点は、松本自身が、昨年のKEXでの公演を月経中の身体で踊った体験だ。月経=血の持つエネルギーを想像し、集めたエネルギーで大地を踏みしめ、増幅させる。かつて月経中の女性を隔離した「月経小屋」の目的が「月経で失われる霊的エネルギーの回復」でもあったことと、古来より邪気をはらう「足踏み」の儀式性を融合させた。もちろんここには、「月経」というまだ社会に根強いタブーと、「女性が大相撲の土俵に上がる禁忌」という、2つのタブーが重ねられている。

月経についての知識の問い、松本とゲスト出演者(内田結花)の「月経日記」を交えながら、股を開き、力強く地面を踏みしめる四股のムーブメントがひたすら繰り返される。もう一人の男性出演者(美術家の前田耕平)の参加に加え、2人の「月経日記」の朗読は月経の個人差や時期による症状差を示す。言語化の作業と同時に、「理不尽で共有も困難な痛みをどう想像するか」を徹底して身体化して落とし込んだ。



松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ『女人四股ダンス』(2022) 
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]



松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ『女人四股ダンス』(2022) 
[撮影:岡はるか 提供:KYOTO EXPERIMENT]


舞台上で不在化されてきた「月経中の身体」に対し、「女性の身体美の規範化」「制度化された大文字の芸術」の背後で不可視化されてきたものとして『TANZ』が暴くのが、男性のポルノ的な欲望の視線だ。チュチュという覆いを取り去り、開脚や脚を高く上げる全裸のダンサーたちは、「美しい」とされるポジションがポルノと同質であることを突きつける。四つん這いで開脚し、一列に並ぶダンサーたちの「ヴァギナの品評会」を老教師が行なうシーンは、その真骨頂だ。「男性不在」の本作だが、「教室」という舞台設定は、「教師と生徒」というヒエラルキーによる規範の再生産構造を提示する。

そして両作とも、「身体の鍛錬」を通して、ジェンダーの不均衡な構造下でこれまで声を与えられず、「ない」ことにされてきた「理不尽な痛み」にどう向き合い、どう肯定的に自身の手に取り戻すかという強い意志に貫かれている。特に『TANZ』における「肉に貫通させた鉤針で身体を吊る空中浮遊」のシーンが象徴的だ。纏足やコルセットにも通じる、「美」という大義名分に奉仕させられた、トゥシューズで足を痛めつける苦痛。一方的な消費の眼差しで搾取されてきた「痛み」。その両方の痛みを、現実に血を流す肉体の「痛み」でもって自分自身の手に取り戻すこと。「空中浮遊」を支えるワイヤーは、ほかの女性パフォーマーたちの手で支えられている。物理的なリフトも、「男性の視線」にもよらずとも、自分たち自身の力でこんなにも優雅に力強く「翔べる」ことを宣言していた。



公式サイト:https://kyoto-ex.jp

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』

会期:2022年10月1日(土)~10月2日(日)
会場:ロームシアター京都 サウスホール(京都府京都市左京区岡崎最勝寺町13-13)

松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『女人四股ダンス』

会期:2022年10月8日(土)~10月10日(月・祝)
会場:THEATRE E9 KYOTO(京都府京都市南区東九条南河原町9-1)

関連レビュー

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』上映会|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年04月15日号)

2022/10/10(月)(高嶋慈)

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オペラの舞台美術『浜辺のアインシュタイン』『ジュリオ・チェーザレ』

[神奈川県、東京都]

2日続けて、約4時間のオペラを観劇した。

まず神奈川県民ホールの芸術総監督をつとめていた一柳慧が亡くなった翌日、日本では30年ぶりに上演された、ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス『浜辺のアインシュタイン』である。まずスティーブ・ライヒなど、器楽によるミニマル・ミュージックはいろいろ聴いてきたが、生の合唱や台詞が付いた同ジャンルをホールで鑑賞するのは初めてだった。数字のカウントは英語を用いていたが、意味をもつ単語や文章はあえて日本語訳に挑戦しており、おそらく原語でも感じるであろう不思議な言葉の分節と反復を母国語で味わうことができたのは興味深い。また平原慎太郎による演出・振付のダンスが水平の移動を繰り返し、反復する音楽との相性が良かった。そして建築家の木津潤平による、おそろしく横長に引き伸ばされた大階段状の空間デザイン上に、ばらばらの要素が美しく、非統合的に同時進行する。オペラといっても、物語の推進力でカタルシスに導く、通常の作品とは全然違う。寄せては返す波のように、断片的なイメージが次々に提出され、黙示録的な余韻を残す(実際、タイトルは核戦争後を描くSF小説『渚にて』からインスパイアされた)。ともあれ、凄いものを目撃した。

続いて、新国立劇場において、ヘンデルが作曲したバロック・オペラ『ジュリオ・チェーザレ』である。これも通常のオペラよりも歌詞のリフレインが多く、4時間半の長丁場だった。なお、チェーザレ、すなわちシーザーとその政敵の役は、かつてカストラートが担当していたり、高い音域であることから、女性が歌ったりしている。ローマ帝国の英雄やクレオパトラが登場する古代の物語だが、その背景で当時の建築を再現することはせず、ひねりが効いた空間デザインだった。2011年にパリのオペラ座で初演されたロラン・ペリー演出、シャンタル・トマの舞台美術によるもので、エジプトの博物館のバックヤードを設定し、現代と古代が交錯する。例えば、ポンペーオの首をチェーザレに差しだす場面は、巨大な彫像の頭が運搬されるという風に、いかにも博物館にありそうな古美術や展示ケースなどが効果的に使われていた。また大きな絵画を移動させながら、歌手の背景を変化させるなどの手法もダイナミックである。

ちなみに、宮本亞門が演出したワーグナーの『パルジファル』(東京文化会館、2022年7月)も、舞台を現代のミュージアム(美術や自然史系)とし、黙役の少年が中世の神聖祝典劇に紛れ込み、壁が回転しながら、展示室のめくるめく変化を楽しむものだった。演出の方法は類似していたが、『パルジファル』の美術がまさに小道具的だったのに対し、『ジュリオ・チェーザレ』に登場するいくつかのオブジェは、リアルにとんでもなく大きいために、なるほど古代エジプトのスケール感を想起させることに成功している。



神奈川県民ホール『浜辺のアインシュタイン』より[撮影:加藤甫 写真提供:神奈川県民ホール]



新国立劇場『ジュリオ・チェーザレ』より[撮影:寺司正彦 写真提供:新国立劇場]



新国立劇場『ジュリオ・チェーザレ』より[撮影:寺司正彦 写真提供:新国立劇場]


ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス『浜辺のアインシュタイン』

会期:2022年10月8日(土)~10月9日(日)
会場:神奈川県民ホール 大ホール(横浜市中区山下町3-1)

『ジュリオ・チェーザレ』

会期: 2022年10月2日(日)、10月5日(水)、10月8日(土)、10月10日(月・祝)
会場:新国立劇場 オペラパレス(東京都渋谷区本町1-1-1)

鑑賞日: 『浜辺のアインシュタイン』は2022年10月9日(日)、『ジュリオ・チェーザレ』は2022年10月10日(月)

2022/10/10(月・祝)(五十嵐太郎)

手話裁判劇『テロ』

会期:2022/10/05~2022/10/10

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

ドイツの小説家/弁護士のフェルディナント・フォン・シーラッハによる観客参加型の裁判劇『テロ』を、「ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)による2人1役で演じる」という意欲作。『テロ』は2015年の発表直後からドイツで大きな反響を呼び、翻訳も刊行されている(東京創元社、2016)。この裁判劇が描くのは、「乗客164人を乗せた旅客機をテロリストがハイジャックし、観客7万人で満員のサッカースタジアムに墜落させようと目論んだが、緊急発進した空軍少佐が独断で旅客機を撃墜した。乗客164人を殺して7万人を救った彼は有罪か? 無罪か?」という難問だ。さらに、「判決」は観客の投票によって決定され、有罪と無罪、2通りの結末が用意されている。この問題提起的な戯曲を、字幕や「舞台端に立った手話通訳者」という従来の補助的な情報保障ではなく、「手話と発話のペアで一つの役を演じる」という形でバリアフリー上演のあり方そのものの大きな更新を試みた(なお、字幕も併用されている)。演出は、「ももちの世界」主宰の劇作家・演出家のピンク地底人3号。



[撮影:河西沙織]


『テロ』が提示するのは、「大量殺人を未然に防ぐためなら、“より少数の命”の犠牲は認められるのか?」という倫理の問題だけにとどまらない。裁判長、検察官、弁護人、被告人、証人のやり取りを通して、さまざまな問題提起が浮かび上がってくる。作中では、9.11のテロを受け、緊急事態には国防大臣の判断による武力行使を容認し、ハイジャック機の撃墜もやむなしとする「航空安全法」が制定されたが、ドイツの最高裁判所で違憲判決が出されたことが描かれる。この判決に対し、元国防大臣は、ハイジャック機の撃墜を命じる超法規的措置の必要性を発言した。国家による殺人の正当化、法の遵守と人命の尊厳。ハイジャック発覚からスタジアムへの墜落予定時刻まで52分と、避難には十分な時間があったにもかかわらず、誰もスタジアムからの観客の避難指示を出さなかった空軍幹部の無責任さや無能さ。「飛行機の乗客は自分がテロに遭う可能性に承諾している」と主張する被告の自己責任論。

そもそも、裁判と演劇は親和的で、「裁判劇」はメタ演劇でもある。法廷=舞台、傍聴席=観客席という二重性。過去の事件の「言葉による再現」。さらに本作では、観客が「参審員」(ドイツの裁判では一般市民が任期制で審理に参加する)となって評決に一票を投じる。観客を傍観者ではなく、裁判の当事者に巻き込むこの仕掛けは、メタ演劇性を強調すると同時に、「上演」の結末自体を決める力を委ねることで、より大きな意味を持つ。法廷での審理=社会の縮図とすると、投票という仕組みを上演に組み込むことは、民主主義の機能に対する信頼と希求でもある。「この社会がどうあってほしいか」方向性を決めて変えることができる力を一人ひとりが有していること。同時に、「自分とは異なる(真っ向から対立する)意見をもつ他者が同じ場にいること」を否応なく可視化させる。

では、この戯曲を「ろう俳優による手話劇」として上演する必然性とは何だろうか。演出のピンク地底人3号は、ろうの母親とコーダ(聴覚障害者の親を持つ聴者の子ども)の息子を軸に描いた『華指1832』(2021)で初めて手話劇に挑戦した。『華指1832』では、基本的に、聴覚障害者の役をろう俳優が手話で演じ、聴者の役を聴者の俳優が手話と発話の併用で演じていた。一方、本作では、「ひとつの役を、ろう俳優(手話)と聴者の俳優(発話)のペアで演じる」という実験的な形式を試みた。この形式の採用は、「字幕や舞台端の手話通訳だと、舞台上の俳優の動きを同時に追いにくい」という技術的な問題の解決にとどまらず、戯曲そのものに対して、以下の2方向の批評を加えていたといえる。



[撮影:河西沙織]


ひとつめは、検察官の台詞が端的に示すように、「より多くの人の命が救える場合、もう一方の命を放棄することは許されるのですか?」という問いに関わる。この問いは、「有罪の判決文」で裁判長が判例として挙げる、難破船での殺害事件に変奏される。船長と水夫の3人は、より立場が弱く、孤児で、脱水症状で余命わずかと思われる給仕係の少年を殺害し、人肉を食べることで生き残った。ここに圧縮されるのは、「より多くの成員を生かすために、コミュニティで最も弱い者を殺すことは正当化されるのか」「社会的弱者は全体の犠牲になってよいのか」という戯曲の核心だ。だが、健常者の俳優だけで上演すれば、「結局、マジョリティだけで言っている正論」になってしまう。本作では、ろう俳優に加え、全盲の俳優などさまざまなマイノリティが出演することで、戯曲の核と意義がよりクリアに浮かび上がった。

また、「2人1役」は、1人の人物の二面性や複雑な両面性を示唆するという演出的効果ももたらした。例えば、同じ役を、感情を露にする片方の俳優と、押し殺した表情で演じる俳優は、「理性と感情」の相克を示す。また、筆者の観劇回は「有罪判決」だったが、判決が言い渡されたラストシーンで、被告のひとりはがっくりとうなだれ、もうひとりがその肩にそっと手を置く。理性と感情、俯瞰的に冷静視しているもうひとりの自分、あるいは良心。「2人の演技」に微妙な、時に劇的な差を出すことで、内面の複雑さや奥行きを伝える。それはさらに、「無罪か有罪か」「正義か犯罪か」「英雄か殺人か」という二項対立を突きつける戯曲世界に対する批評でもある。

このように、本作では、「2人1役の手話劇」という実験的な試みは成功していたといえる。ろう俳優の表情の豊かさは魅力的で見入ってしまう。また、「ろう者にとっての音楽」を映像化した映画『LISTEN リッスン』でも手の表現の繊細さが際立っていたが、本作では、上空を行き交う飛行機の群れや空を飛ぶかもめを俳優たちが身体的に表現するアンサンブルのシーンで活かされていた。ただ、「2人1役の手話劇」には戯曲との相性もある。本作のような「裁判劇」では、「裁判長」「弁護人」「検察官」「証人」といったポジション(役およびどこに着席するか)は固定的で明快で、混乱なく見ることができた。「バリアフリー上演の更新」という点でも、ピンク地底人3号には今後も手話劇の可能性に挑戦してほしいと願う。



[撮影:河西沙織]



[撮影:河西沙織]


公式サイト:https://www.kavc.or.jp/kp2022/

ももちの世界:https://momochinosekai.tumblr.com/

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LISTEN リッスン|高嶋慈:artscapeレビュー(2016年09月15日号)

2022/10/09(日)(高嶋慈)

東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』

会期:2022/10/07~2022/10/09

東京芸術劇場ロワー広場[東京都]

芸術にできることは何か。東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』にはこの問いに対する力強い、そして切実なひとつの答えがあった。芸術には、声を奪われてきた者たちがそれを取り返すことを、そしてその声を響かせ見知らぬ誰かの耳へと届けることを可能にする力がある。

東京芸術祭ファームはアジアの若いアーティストの交流と成長のためのプラットフォームであったAPAF(Asian Performing Arts Farm、アジア舞台芸術ファーム)を前身とし、2021年にスタートした人材育成と教育普及の枠組み。その一環であるFarm-Lab Exhibitionは「アジアを拠点に活動する若手アーティストが、文化、国籍やバックグラウンドが様々に異なるメンバーとクリエーションを行い、東京芸術祭やアジア各地での上演を目指したワークインプログレスを発表する創作トライアルプログラム」だ。今年は日本を拠点とする(そして私が参加する)y/nと日本以外のアジアを拠点とする3人のアーティストによる『Education (in your language)』と、フィリピンを拠点とするセリーナ・マギリューと日本を拠点とする3人のパフォーマーによる『「クィア」で「アジア人」であることとは?』の2作品が上演された。セリーナ・マギリューは昨年、同じ東京芸術祭ファームのAsian Performing Arts Campというプログラムに参加していたことから今回のFarm-Lab Exhibitionへの参加が決まったということで、東京芸術祭ファームにおける人材育成の取り組みが単発で終わるものではなく、長期的な視野に立って企画されていることが窺える。

トランスピナイ(=トランスジェンダーのフィリピン人)の俳優、パフォーマンスアーティスト、アクティビストであるセリーナ・マギリューが掲げたコンセプトは「QUEER ASIA(クィア・アジア)」。「西洋の二元的な性の概念とは異なる、アジアにおけるクィアのアイデンティティを、私たちの手に取り戻す必要」があると語るマギリューは日本拠点のパフォーマーとの共同制作の過程で日本の昔話に着目した。例えば「かぐや姫」のかぐや姫(ノマド、𠮷澤慎吾)や「花咲かじいさん」に登場する犬・シロ(葵)。両者は物語上、きわめて重要な存在であるにもかかわらず物語のなかでその内面が語られることはない。繰り返し語られてきた物語において声を奪われてきた者たちの声を取り返し、物語を語り直すこと。規範から逸脱するものを抑圧する社会で、自らもまたクィアとして生きるパフォーマーたちが自身の声を発し、自らの視点から社会を語り直すこと。二つの語り直しが重ね合わせられ、パフォーマンスは立ち上がっていく。


[撮影:松本和幸]


今回は創作トライアルということでクリエイション期間も短く、上演された作品は完全なものではなかったのだが、それを差し引いても「かぐや姫」と「花咲かじいさん」という二つの物語の接続は甘く、「私はこの世界を、この人生をありのままの自分として生きたい」「私は、男でも女でもない」などといった台詞はあまりに直接的だ。作品としての(あるいは芸術としての?)クオリティは必ずしも高かったとは言えない。しかしそれでも、この作品が上演されたことには大きな意義がある。


[撮影:松本和幸]


東京芸術劇場ロワー広場という誰でも出入り自由な空間で上演されたこの作品は、いわゆる劇場の閉ざされた空間での、作品を観たいと自ら望んでやってきた観客だけに見せることを前提としたものではない。もちろん、クィアとして生きるパフォーマーが自身の声を発する姿は(あるいは客席にいたかもしれない)同じくクィアとして生きる人々に力を与えるものであっただろう。パフォーマー自身もまた自らの声を発することによってエンパワーされていたかもしれない。しかしそれ以上に重要なのはこの作品が、例えばクィアという言葉も知らない(かもしれない)通りすがりの人に、そのようにいまこの世界を生きている人がいるのだという事実を、その声を、その言葉を、生身のパフォーマーの存在を通して知らしめるものになっていたという点だ。地下の広場で発せられた声は吹き抜けを通して上階にも響き、それを聞いた人々の一部は少しのあいだ足を止め、パフォーマーに目を向けその言葉に耳を傾けていた。本当に声を届けるべき相手は客席の外側にいるのだ。

声を上げることは難しい。これまで声を奪われてきた者たちにとってはなおさらだ。例えばSNSやデモなどを通じて声を上げることは(残念ながら)現状では攻撃される危険と隣り合わせの行為となっている。開かれた空間で上演されたこの作品においても、パフォーマーたちの負担は相当なものだっただろう。だがそれでも、舞台作品の上演という設えには声を上げる者の危険を少しだけ減じ、あるいは言葉を聞く者の警戒を幾分か和らげる作用があったはずだ。現実を変革するための手段としての芸術。今回の創作トライアルで提示されたその可能性の先に見える景色はどのようなものになるだろうか。


[撮影:松本和幸]



『「クィア」で「アジア人」であることとは?』:https://tokyo-festival.jp/2022/program/fle-serena
東京芸術祭ファーム:https://tokyo-festival.jp/tf_farm/

2022/10/09(日)(山﨑健太)

国際芸術祭「あいち2022」 百瀬文《Jokanaan》、『クローラー』

会期:2022/07/30~2022/10/10

愛知芸術文化センター、愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]

愛知芸術文化センターでの展示作品《Jokanaan》(2019)と、1対1の体験型パフォーマンス作品『クローラー』。本稿では、百瀬文の秀逸な2作品を、「女性が欲望の主体であることの回復」「見る/見られるという視線の構造」「他者の欲望の代演」という繋がりの糸から取り上げる。

2チャンネルの映像作品《Jokanaan》では、オペラ『サロメ』でヨカナーン(預言者ヨハネ)への狂信的な愛を歌い上げるサロメの歌が流れるなか、左画面ではモーションキャプチャースーツを着て口パクで踊る男性パフォーマーが映され、右画面では、男性の動きのデータを元につくられた3DCGの女性像が映る。ユダヤ王の娘サロメは、幽閉されたヨカナーンに恋焦がれるが、愛を拒絶されたため、踊りの褒美に彼の生首を所望し、銀の皿に載せられた生首の唇に恍惚状態で接吻する。独占欲、プライド、絶望、歓喜がない交ぜになった倒錯的な愛のアリア。同期する二人の男女は、激情をぶつけ合う恋人どうしの二重唱のように見えるが、「なぜ私を見つめてくれないの」というサロメの台詞を文字通り遂行するように、両者の視線は同じ方向を向き、いっさい交わらない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)[© 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:ToLoLo studio]


一方、映像の後半では、(カメラワークの妙もあり)二人の動きは次第にズレをはらみ、男性がモーションキャプチャースーツを脱いで動きを止めても、CGの女性は歌い踊り続ける。女性の足元には(CGの)血だけがついた空の皿が置かれ、男性の足元には実物の銀色の皿が置かれている。ラストシーンでは、男性が身を横たえて皿の上に首を載せ、「ヨカナーンの生首」を演じる一方、右側の画面は血のついた皿だけを映し、女性の姿は映らない。



国際芸術祭「あいち2022」展示風景
百瀬文《Jokanaan》(2019)


これは、「視線」と密接に結び付いた、「欲望の主体の回復」についての秀逸な逆転劇だ。前半では、「性に奔放で、男を破滅に導くファム・ファタール」という性幻想が、まさに男性の身体を通して生産され、CGであるサロメは他者の描く欲望を忠実に代演し続けるしかない。だがこの従属関係は次第に歪み始め、男性がスーツを脱ぐことでサロメはコントロールから解放され、最終的には画面から「消失」する。すなわち「見られる対象」ではなくなり、「サロメ自身の視線」が捉えたイメージ(だけ)が映し出される。しかもそこには、それまで欲望の主体の側だった「左画面」に投影され、上書きし、奪い返して占拠するという二重の転倒が仕掛けられているのだ。


一方、パフォーミングアーツのプログラムで上演された『クローラー』では、観客はたった一人で暗闇のなか、車椅子に座り、肩にかけたウェアラブルスピーカーから聴こえる、極めて親密な女性の語りに耳を傾ける。脳性麻痺のため、車椅子に乗っている硬直した身体。うまく開かない股の割れ目に差し入れる不器用な手。遠くに小さな灯がともる。声の指示に従い、車椅子に座る私は、その灯に向かってゆっくりと車輪をこぐ。慣れない車椅子の操作、暗闇と静寂に包まれる不安と緊張感。そのぎこちない道のりは、声が語る「遠くの灯台へ向かって漕ぎ出すような、オルガズムへのゆるやかな到達」と同時に、「障害者女性の性」という遠く隔たった存在へ向かっていく二重のメタ性を帯びている。誰の姿も見えない暗闇は、「社会の中で不可視化されていること」を文字通り指し示す。その暗闇はまた、絶対的な孤独と同時に、「誰からも見られていない」という安全の保証でもあり、多義性を帯びている。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


灯に近づくにつれ、車椅子をこぐ指が冷たくなり、2つに見えた灯が実は水面に映る影で、浅く水の張られた水面を進んでいたのだと分かる。そして灯の向こうに、おぼろげな白い人影が揺らめく。声が語る、お気に入りのアダルトビデオ。障害者専門のセックスワークに従事した経験。絶頂を感じる瞬間、身体の日常的な痛みから解放される、それが自慰行為の目的であること。人影はちゃぷちゃぷと水音を立ててこちらに歩み、車椅子の隣にかがんでともに灯を見つめる。オルガズムへの接近を告げるように明るさを増す灯。対峙の恐怖から、「誰かが傍にいて寄り添ってくれる」安心感へ。ゆっくりと車椅子を押して灯の周囲を一周してくれるその人は、メタレベルでは、オルガズムへの到達に導いてくれる存在だ。ちゃぷ、ちゃぷというリズミカルな水音は、濡れる粘膜が立てる音へと想像のなかで変換される。だが私の身体、特に下半身は水の冷気で冷たくこわばっていく。15分という短くも長い上演時間は、語り手とともに想像のオルガズムを共有するために必要な時間だったのだ。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


百瀬は、障害者専門のセックスワークの経験がある障害者女性への取材を元にテキストを書き、その女性自身が朗読を担当した。「舞台上の障害者を一方的に眼差す」という非対称な関係性ではなく、(「誰にも姿が見られていない」ことも含めて)観客自身が当事者に近い状況に置かれたとき、身体感覚と想像力をどこまで接近させられるのか(あるいは、どのように接近できないのか)。「障害者女性の性とケア」という社会的に不可視化された領域を、車椅子、灯、水を用いた緻密な構築により、まさに暗闇の中でこそ(擬似)体験可能なものとして身体的にインストールさせる本作は、VRとは別の形で、「抑圧され、共有困難な他者の欲望をどのように代演・想像できるか?」という困難な問いに応えていた。



百瀬文『クローラー』 (2022)[撮影:今井隆之 © 国際芸術祭「あいち」組織委員会]


*『クローラー』の上演日は2022年10月6日(木)〜10月10日(月・祝)。


公式サイト:https://aichitriennale.jp/artists/momose-aya.html

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2022/10/06(高嶋慈)

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