2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

あいちトリエンナーレ2019 情の時代|劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネール『ものがたりのものがたり』

会期:2019/10/13

名古屋市芸術創造センター[愛知県]

オランダ南部を拠点に、青少年向けの劇団として約30年間活動している劇団アルテミス。同じくオランダ南部を拠点とする演劇カンパニー、ヘット・ザウデライク・トネールとつくり上げた本作は、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ演劇部門で銀獅子賞を受賞した最新作である。「劇場に住み着いた先住民」「トランプ一家(に見えるオランダ人家族)」「オブジェの劇」「『旅するものがたり』についての物語」という四層構造を通して、シュールな笑いを緩衝材に物語批判、上演批判、劇場批判に徹しつつ、「物語」が解体された極北の果てに、「(子どもの持つ/演劇の原初としての)想像力」への希求を提示した。


観客が席に着くと、すでに舞台の幕は上がっており、機材や舞台裏への扉が剥き出しになった舞台上には、「先住民」たちが陣取り、黙々とそれぞれの作業に従事している。「演劇」「劇場」という概念を持たない彼らにとって、劇場空間は生存のための自然的環境であり、「客席=獲物を釣り上げる狩場」にすぎない。実際に「先住民」たちは四足歩行で客席内に侵入したり、釣り竿を垂らして、奪ったカバンや靴を装飾品やブリコラージュの一部にしてしまう。



[Photo:Shun Sato]


そこに、「ハンス」「リア」の両親と8歳の息子の「サンダー」というオランダ人一家がピクニックにやって来る。だが彼らの姿は、トランプ大統領、歌手のビヨンセ、サッカー選手のロナウドの巨大な写真を板に貼ったハリボテであり、アテレコの声に合わせて口パクでしゃべる。固有名と人格を備えたオランダ人一家という設定だが、観客の目に映る物理的実体は「そうは到底見えない」というズレ(の極端な誇張)。それは、「演じる役者自身の身体」と「表象される役」のズレ/二重化という「演劇」が原理的に抱える矛盾を突き付ける(この「ズレ」は、アテレコを担当する俳優の性別を役と逆転させる仕掛けによってより強調される)。



[Photo:Shun Sato]


また、好奇心旺盛な息子に対して父親が諭す「(舞台の)縁の向こうに行ってはいけない」「(舞台の)額縁に気を付けろ」という台詞や、言いつけに背いて「縁の向こう」を覗いた息子が「人がたくさん座っているみたい」と言う台詞は、「劇場」という物理的空間、「舞台/客席」を分かつ不可視の境界線にメタ的に言及する。だがこの「境界」は、「唾を吐いて誓う」父と息子による男同士の儀式が、巨大な紙人形の「口」から客席に向かって「実際に水が飛び出す」仕掛けにより、暴力的に攪乱されていく。

こうしたハリボテの登場人物、物理的実体と役柄の乖離、自己言及的なセリフ、「第四の壁」の破壊は「演劇」に対するメタ批判だが、そもそも「演劇」「表象」という概念のない「先住民」にとっては、彼らもまた、現実の物理的世界に属するただの(時々動く)物体であり、食べられる「獲物」なのか、自分たちを攻撃してくるのかといった基準で判断される。最終的に彼らは「先住民」の手で文字通り解体され、「戦利品」として持ち去られてしまう(操作とアテレコを担当していた「中の人」も「露出」するシーンは爆笑を誘う)。



[Photo:Shun Sato]


そこに、第三の要素として絡むのが、「オブジェの劇」だ。立方体や三角形のカラフルなオブジェや発光体が、時折、舞台上を横切っていく。「トランプ一家(演劇・表象の世界の住人/政治的支配者・成功者)」にとっては、「先住民」と同様、「動くオブジェ」もまた意思疎通のできない、不可解な存在にすぎない。これらの「オブジェ」は政治的弱者や半ば不可視化された排除の対象であり、それらが「人間の形すらしていない」ことは、「トランプ一家(が象徴する支配機構)の視線に投影された世界」を「モノ化された演劇」として鮮やかに提示してみせる。ここには、客席から舞台上へと「表象を投影する視線」によって成り立つ演劇的営みが、さらに「舞台上」でも入れ子状に反復されて遂行されている。

最後に、第四の要素として挿入されるのが、「『旅するものがたり』についての物語」だ。砂漠で生まれ、海を渡り、孤独で困難な旅を続ける「ものがたり」の物語は、ナレーションで語られるが、しばしばノイズが混入して中断され、「機能不全」に陥っていることが示される。「ものがたり」は長旅の果てに「海辺の街(=名古屋)」に辿り着くが、その存在に気付く者はおらず、人々は「光るスクリーン(=スマホ画面)」に没入している。SNS内のコミュニケーションにその座を奪われたことへの皮肉だ。だが、「この劇場」を見つけ、「人々の脚の間」を潜り抜け、舞台上に辿り着いた「ものがたり」の(見えない)存在に、少年だけが気づき、会話することができる。「子どもの想像力」が演劇の原初であり、自己批判を潜り抜けてなお最後の希望であること。青少年向け劇団として子どもとのコラボレーションも行なう劇団アルテミスの本分が示されるシーンだ。だが、「ものがたり」は消滅し、「ものがたりさーん」という少年の必死の呼びかけと、観客に「一緒に探して」という懇願とが空しく響くばかりだ。

ラストシーンでは、消滅した「ものがたり」の代わりに、オブジェの発する光や回転運動が、「先住民」の飛ばすシャボン玉とともに、つかの間の美しいイリュージョンを発生させて終わる。「演劇」「劇場」「物語」の外側にある存在、「人間」から排除された者たちが集合的に紡ぐそれは、「物語」への希求を響かせつつ、人間的尺度を超えた視点から捉え返そうとする企てを指し示していた。



[Photo:Kurt Van der Elst]


公式サイト:http://aichitriennale.jp/


関連レビュー

あいちトリエンナーレ2019(6回目)|五十嵐太郎:artscapeレビュー

2019/10/13(日)(高嶋慈)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代(6回目)

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター、名古屋市美術館、名古屋市芸術創造センター[愛知県]

6回目のあいちトリエンナーレ2019である。名古屋市美術館では、復活したモニカ・メイヤーの《The Clothesline》の展示も、開幕当時に比べると、ものすごい書き込みの量が増え、迫力を増していた。そして長かった展示閉鎖時の状況も一部残されていた。

また映画『ジョーカー』を観た後で、愛知県芸術文化センターにおけるウーゴ・ロンディーネの《孤独のボキャブラリー》を再訪すると、なんだか怖い。ともあれ、いったん閉鎖された作品の再開をすベて確認することができた。一方で閉鎖時に寄せられた来場者のメッセージも残されている。最後の訪問は情報系の作品を中心にじっくり見てまわったが、改めて今回のあいちトリエンナーレ2019は同時代的なコンセプトに沿った作品が粒ぞろいだったと思う。なお愛知県芸術文化センターの周辺では、街宣車が「河村市長の言うとおり!」と絶賛していた。彼の言動がそうした状況を導いたわけだが、右翼に擁護される市長というのは驚きである。



モニカ・メイヤー《The Clothesline》展示風景。展示再開を告知する用紙も吊り下げられていた




モニカ・メイヤー《The Clothesline》より。展示閉鎖時の状況も一部残されていた


まとめてパフォーミング・アーツのプログラムを鑑賞した。劇団アルテミスの『ものがたりのものがたり』(名古屋市芸術創造センター)は、先住民、抽象的なオブジェ、ファミリー、劇場にやってくる「ものがたり」という4つのばらばらのレイヤーが同時進行しつつ、観客も安心して鑑賞できないような物語を解体する演劇だった。トランプ/ビヨンセ/ロナウドによる家族(!)の巨大な肖像がそれぞれ動き、唾を吐き、逆立ちする演出は、バカバカしさとともに鮮烈な印象を残した。

続いて参加した、ドミニク・チェンのレクチャー・パフォーマンス『共在言語をつくるために』(愛知県芸術文化センター)は、膨大なスライドを用意され、気合いの入ったプレゼンテーションだった。彼の個人史に重ねつつ、メディア・アート、ドゥルーズ、ベイトソン、マクルーハンと、ガチの講義スタイルで語っていた。そして初めて観た市原佐都子の作品『バッコスの信女─ホルスタインの雌』(愛知県芸術文化センター)は冒頭からフルスロットルで飛ばしていた。とある住宅のリビングで主婦が性/生をあからさまに語った後、同性愛、牛の人工授精、異種交配のテーマが同じリビングでめくるめく展開し、「種」も「性」も「家族」も解体されていく。またミュージカルのごとく、途中でさまざまなタイプの歌をはさみ込む。女性のみの役者陣の、振り切った演技にも刮目した。

観劇が遅くまでかかり、高山明/Port B『パブリックスピーチ・プロジェクト』のライヴ・パーティは、後からニコ生で視聴することになった。当初の予定だったアジアの複数の都市を中継する企画は実現できなかったが、それだけ今回のトリエンナーレの激動に巻き込まれ、代わりの抵抗の方法として、コールセンターの立ち上げに高山の時間が割かれたと察する。それでも、3名のラッパーによるアジアの解釈に、音楽と詞の可能性を十分に感じることができた。


あいちトリエンナーレ2019 情の時代 公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/10/13(日)(五十嵐太郎)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代|「表現の不自由展・その後」再展示、ほか

会期:2019/10/13~2019/10/14

愛知県芸術文化センター、愛知県芸術劇場大リハーサル室[愛知県]

本当は9月にも一度訪れる予定だったが、やむ得ない事情でキャンセルとなり、およそ2カ月ぶり、通算5回目のあいちトリエンナーレ2019である。以前、これで見納めになるかもしれないと書いた「表現の不自由展・その後」がついに再開されたことが、最大のトピックだろう。ここに至るまでさまざまな出来事が起き、展示の状態が次々と変化し、これだけドラマティックな展開を見せた日本の国際展はほかにないはずだ。オープニングのとき、芸術監督の津田大介はレガシーにすると宣言していたが、まさにその通りになった。

再開された展示の入口の新しいあいさつ文には「壁が横に倒れると、それは橋だ」というアンジェラ・デービスの言葉が引用されていた。筆者はこの入口について、当初の状態、閉鎖時、そして再開時という3パターンを目撃したが、なるほど途中はずっと、ここの入口には壁が立てられ、それがなくなったわけである。世界的にも一度閉鎖に追い込まれた展示が復活した事例はないらしく、会期が長かったおかげもあるが、終了の直前、土壇場で奇蹟が起きたことは貴重な前例となった。



再開された「表現の不自由展・その後」の鑑賞についての説明パネル


入場者は厳重な持ち物チェックを受けてから会場に入る



会場の一角には、展示の再開を求める書き込みが残されていた

 さて、大浦信行の映像作品《遠近を抱えて Part II》をフルで鑑賞するツアー形式に参加し、確かにこのほうが理解は深まると思った。改めて全編を見て気づいたのは、もし作家が単純に天皇のことが憎いのであれば、まず顔から焼くはずだろうということ。だが、慎重にそれは避けられており、こうした細かい映像の表現が議論されなかったことは不幸だった。再開された「不自由展」に対し、ネットでは「鑑賞の不自由」などと揶揄されていたが、現代アートにはガイド型や一度にひとりしか入れない展示の形式など、さまざまな鑑賞のやり方があることを知らない人が批判しているのだろう。

 その日の夕方、今回のパフォーミング・アーツでよく使われている愛知県芸術劇場の地下のリハーサル室において体験した小泉明郎の『縛られたプロメテウス』は傑作だった。前半は鑑賞者がゴーグルを装着し、いわゆるVRによる拡張された現実世界に没入する(一部、筆者は機器の不具合で違うものを見ていたが)。それなりに刺激的な映像だったが、これだけだとテクノロジーを活用したエンターテインメントでしかない。作品の本領はむしろ後半で発揮され、ここで別のものを鑑賞/観劇することによって、思索的なアートに昇格し、従来の小泉作品とも見事に繋がる。おそらく詳細を記すとネタバレになってしまい、これから体験する人に申し訳ないので、ここでは記さないが、前半の謎めいた言葉の意味が腑に落ちるとだけ述べておこう。


あいちトリエンナーレ2019 情の時代 公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/10/12(土)(五十嵐太郎)

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HANA’S MELANCHOLY READING 〈風〉

会期:2019/10/05~2019/10/06

green&garden[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019 フリンジ「オープンエントリー作品」。HANA'S MELANCHOLYは、一川華が戯曲執筆を、大舘実佐子が演出を分担する演劇ユニットである。東京を拠点とする彼女たちが、2020年の上演を目指し、京都の俳優たちと新作戯曲『風』のリーディング上演を行なった。初見のユニット、しかも上演に先駆けてのリーディングだが、「性風俗と女子割礼を取り扱う」という戯曲の問題設定に興味があり、足を運んだ。


手作りの洋服を着せ、自分の望むままの人形のように振舞うことを期待する母親に反発し、「自分の身体は母親のものではなく、自分のものだから」と背中に大きな龍の入れ墨を彫った「奈菜子」。だがその身体は、恋人には拒絶され、働き始めた性風俗店では「低ランク」とされ、他の女性より安い給料しかもらえない。

個室の中で客からの指名の電話を待つ彼女のもとに、ある日突然、「ルーシー」という黒人の少女からの電話がかかってくる。「ルーシー」は他の少女たちと納屋に監禁され、結婚相手の男性の希望を叶えるために、「身体に付いていたらいけない呪い」とされる外性器を切除させられるのだと言う。「奈菜子」は「ルーシー」を助けるため、身体を売って得た札束を「紙ひこうき」にして彼女のもとへ飛ばし続ける。それは「奈菜子」の妄想の世界かもしれず、だからこそ美しくも儚い。

現代日本の性風俗産業において、「商品価値が低い」ものとして扱われる、入れ墨=傷のある「奈菜子」の身体。一方、アフリカの農村部において、結婚の条件として女性器切除を受けさせられる「ルーシー」の身体。遠く隔たったように見える両者に通底するのは、「男性によって一方的に、女性の身体が性的な商品として価値付けられる」という構造的暴力だ。戯曲は両者の同質性を通して「(女性の)身体は誰のものか」「価値基準を決めるのは誰か」という問いを投げかける。その糾弾には深く賛同するが、「ルーシーからの電話が突然、かつ偶然に繋がる」という設定は唐突で、強引な接続に感じた(特に前半はリアルベースの会話劇であったことも大きい。もちろんここには、「奈菜子」が待つ「客からの指名コール」との連続性をもたせるという意味で、「電話がかかってくる」ことの必然性もあるのだが)。

この「両者が接続される回路の唐突さ、強引さ」は、実際の上演では「演出」によってクリア可能かもしれない。だがここには、作劇上の粗さやリーディング公演の段階であることにとどまらず、より本質的な問題が横たわっているのではないか。「ここ」と「そこ」、「日本」と「アフリカの僻地」のあいだにある「隔たり」──そう思い込んでいるが、本質的には同じ構造的暴力を有する──を架橋するには? それは、私たち自身の想像力の貧困の問題でもある。戯曲の問題提起の要でもあり、最大の難関をどうクリアするか。「かかってくる電話」の必然性を担保しつつ、どう強引さの違和感を払拭するか。上演に向けて期待と課題を記したい。



[撮影:大舘実佐子]


2019/10/06(日)(高嶋慈)

きたまり/KIKIKIKIKIKI グスタフ・マーラー交響曲第2番ハ短調「復活」

会期:2019/09/20~2019/09/22

THEATER E9 KYOTO[京都府]

「マーラーの全交響曲を振り付ける」という壮大なプロジェクトに挑む、ダンサー・振付家のきたまり。シリーズ第4弾となる本作は、マーラーの交響曲第2番「復活」が使用された。過去の3作品が上演された京都のアトリエ劇研は、2017年に惜しまれつつ閉館。同劇場のディレクターだった演出家・劇作家のあごうさとしを中心に新たに立ち上げた劇場「THEATER E9 KYOTO」のオープニングプログラムのひとつである本作は、「劇場の復活」という意味でも示唆的だ。舞踏出身の山田せつ子、バレエを基礎に持つ斉藤綾子という異なる出自を持つダンサーを共演者に迎えた本作は、それぞれの身体性の相違に加え、それを際立たせるソロ→デュオ→トリオという構成の流れ、扉の開放のタイミング、背後のスクリーンを染め上げるライブペインティングによる音と視覚の相乗効果など、演出力の高さが際立っていた。

冒頭から約30分ほどは、山田せつ子のソロが続く。変幻自在に展開し、掴みどころのないマーラーの楽曲に抗うように、陶酔とカタルシスの彼方へ押し流そうとする力に拮抗するように、ミニマルな微動に徹し、時に痙攣的に身を震わせる山田。音楽に支配されるのではなく、音楽を含むその場すべてを支配しようとする強い意志がみなぎる。重厚に張りつめた空気は、だが、山田が退場とともに開け放った扉から、外気と夕暮れの風景が流れ込んでくることで一新される。続けて、きたと斉藤のデュオが展開されるが、左右対称を保ったユニゾンの厳密性は、むしろ両者の身体性の違いを際立たせる。



[撮影:中谷利明]


きた、斉藤のソロを挟んで、3者が揃った後半のトリオは圧巻だ。腰を落とし気味に頭を左右にリズミカルに振り、マーラー(とその背後にある「ヨーロッパ」)を異化するようなきたの動き。両手を広げて天を仰ぎ、永遠に終わらない恍惚あるいは拷問のように、倒れるまで回転し続ける斉藤。毅然さを保ち、かと思うと2人を挑発するように撹拌的な動きを繰り広げる山田。重厚なコーラスが響き、仙石彬人によるOHPを用いたライブペインティングの投影が、無彩色からマーブル状に混じり合った鮮烈な色彩に背後の壁を染め上げていく。細胞の増殖、あるいは燃え上がる炎、極彩色に開く花びら、沸騰する赤い血潮。「なぜマーラーなのか」という問いを吹き飛ばす、「踊り続ける、なぜなら生まれてきてしまったから」とただ主張する強い3つの身体がそこにあった。



[撮影:中谷利明]


2019/09/22(日)(高嶋慈)

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