2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

烏丸ストロークロック『まほろばの景2020』

会期:2020/02/16~2020/02/23

東京芸術劇場シアターイースト[東京都]

深い山。障がい者介助施設「太陽の家」で職員として働く福村洋輔(小濱昭博)は立ち込める霧のなか、盛山和義(澤雅展)を探していた。自閉症で足に麻痺があるという和義は半年前に施設からいなくなってしまったらしい。物語は福村が山で出会う人々とのやりとりと福村の過去の断片とを行き来しながら進んでいく。浮かび上がるのは業と弱さを抱えながらそれでも生きるしかない人々の姿だ。

東日本大震災で家をなくし、「夢みたいだな」「なんにもね」と呆けてしまう福村の父(小菅紘史)。福村は「想い出見ようや」とかつてそこで起きた大切な、あるいはささいな出来事を思い出すよう父に促す。やがて神楽を舞い始める父。だが習うのを途中でやめてしまっていた福村は最後まで踊ることができない。「親父、これ、どうだったっけ?」と福村が問うた先に父の姿はない。

[撮影:東直子]

山で出会う人は気づけば福村に縁ある人に姿を変え、そしてまたふいにいなくなる。それは現実だろうか幻だろうか。実際には、福村は父に声をかけることはできなかった。「怖かったんです、親父の悲しさにやるせなさ、さわんのが怖いんだな」。

和義の失踪に「何か前触れがなかったか振り返ります」と後悔を見せる福村だが、実は「この手に繋いでいた和義の手を離して、目を離した隙に、和義は山に入っていなくなったんです」と後に自らの罪を懺悔する。しかしそれすらも嘘だ。福村は「雨に濡れる和義を置いて、神社の前から去り」「振り返りもしなかった」。直視できない弱さとごまかし、後悔と贖罪。それすらもまた弱さのうちだ。

被災して風呂を借りに来たかつての不倫相手・ナナエ(あべゆう)に福村はよりを戻そうと提案し「後ろめたいことは今はいいから」と言われてしまう。そこにあったのは性欲か寂しさか優しさか。

大阪で働きながら仙台の父母に仕送りをする同級生・セージ(澤)は老人介護の仕事を辞め熊本に復興のボランティアに行くという福村に「それ、お前がやることなんかな」「生きようや」と説教をする。福村のやっていることは善意か偽善かそれとも逃げか。

[撮影:東直子]

和義の姉・橙子(阪本麻紀)は、両親亡き後、和義の世話をひとりでせねばならず、満足に仕事に就くことも難しい。やがて橙子は「洋輔さん、ウチに来て?」と福村に想いを告げるが、福村は和義を理由に決断を先延ばしにしようとする。「優しい顔で見てばっかり、なんも、なんも手くださへん」「仏さんみたいな洋輔さん、うち、好きや」という橙子の言葉は痛烈だ。結局、福村は三人で暮らすことを選ぶ。

だが、そこにある弱さは福村だけのものではない。彼らは福村の半身でもあり、互いに理解し合うことはできずとも弱さを、欲望を、優しさを分かち合っている。掴もうとすればするりと逃げる霧のように、複雑に絡み合った感情を切り分けることはできない。人はそれに耐えられず惑う。

作品の中心的なモチーフに据えられた神楽はひとりの人間のそれを越えた時間的スケールを舞台に呼び込む。延々と巡る営みと世界。劇中の祭文でも言及のあるように、世界の始まりには「みどのまぐはひ」があったとされる。聖なることと生きること、性の営みはなかなかに分かち難い。舞台にしばしば濃厚な性の気配が立ち上るのは必然だろう。

[撮影:東直子]

[撮影:東直子]

舞台上舞台とそこに垂れる幾筋もの白布(舞台美術:杉山至)はときに霧深い山中の風景となり、ときに福村の心中となり、ときに神楽の舞台となる。それを囲む俳優たちの祝詞や朗唱は観客の現実と舞台の上の現実とを接続し、音楽と音を融通無碍に行き来する中川裕貴のチェロもまた不定形の霧のように漂う。舞台の上で水飛沫をあげる不格好な神楽はそのまま、のたうちあがく福村の現実だ。

福村は山で出会う人々をきっかけに自身の過去を想起していくようであり、福山の過去が化身して彼の前に現われているようであり、そして彼らは福村自身の鏡像のようでもある。クライマックスの神楽のなかでそれらは渾然一体となり、頂に立った福村の「……俺がいる……山がある、」という最後の言葉に結実する。登る山は福村の人生そのものだが、同時にそれはもっとずっと大きい。烏丸ストロークロックと作・演出の柳沼昭徳は茫漠とした世界に生きる卑小な存在を描き続けてきた。峻厳たる孤独を引き受けるのは自分しかいない。傲慢になるでもなく卑屈になるでもなく、あるいは屈服するのでもなく、そのことをただ受け入れて生きることはかくも難しい。


公式サイト:https://www.karasuma69.org/

2020/02/17(月)(山﨑健太)

イエデイヌ企画『イマジナリーピーポー イン トーキョー』

会期:2020/02/14~2020/02/16

新宿眼科画廊スペースO[東京都]

イエデイヌ企画は2014年に発足した演出の福井歩による演劇プロジェクト。福井は立教大学映像身体学科に学び、2016年にはマレビトの会『福島を上演する』に演出部として、2017年にはフェスティバル/トーキョー17の「実験と対話の劇場」に演劇計画・ふらっとの演出として参加している(劇作は我妻直弥が担当)ほか、イエデイヌ企画としては2019年3月にピーター・ハントケの小説/映画『左ききの女』を舞台化している。

『イマジナリーピーポー イン トーキョー』は偶然に出会った家出人(米倉若葉)、作家(平山瑠璃)、会社員(野中知樹)の三人が深夜のトーキョーをひと晩中歩き回る話だ。家出人はひとり暮らしの「部屋に帰ると、誰かがいたような雰囲気を感じる」と2カ月も帰っておらず、チェーン店で時間を潰したり野宿をしたりして過ごしている。作家の役名は「便宜上作家と呼ぶが、劇中にそれらしい描写はない」らしい。彼はトマソン的なものを探し回り写真に撮っている。会社員は中学の同級生の葬式からの帰り道、酔い潰れて寝てしまう。そこがたまたま家出人が野宿していたすぐ近くで、二人が倒れている(寝ている)ところに作家が通りがかり、三人は出会う。

[撮影:瀬崎元嵩]

上演台本には皇居、旧築地市場近くの空き地、東京駅などと地名が書き込まれているのだが、上演から三人のいる場所をはっきりと特定することは難しい。むしろ、タイトルが示唆する「想像上の人々」と同じように、舞台となる(ことがタイトルによって示唆される)「トーキョー」もまた、架空の、どこでもない都市であるかのような手触りがある。場所を表わすものが何もない舞台空間と公演会場となった新宿眼科画廊スペースOの真っ白な壁もそのバーチャル感を強化する。

三人が歩く深夜のトーキョーに人影はほとんどなく、それは確かに非現実的な風景だろう。「みえてないだけで、実は人、たくさんいたりして」というセリフはある意味では真実だ。昼と夜、現実と虚構。三人は異なるレイヤーを生きている。いや、三人も普段はそれぞれに異なるレイヤーを生きていて、たまたまそれが交わったのがその夜だったのだ。

[撮影:瀬崎元嵩]

実は、この作品では三人が出会うまでの時間も描かれている。開演すると三人はさまざまな言葉を発しながら舞台上を不規則に足早に歩き回る。それはトーキョーの匿名的な人々を表わしているかのようだ。しばらく見ていると、言葉の発し方が奇妙なことに気づく。どうやら三人の俳優は自らが演じる役(それも一貫したものではないようだが)に聞こえている音を口にしているらしい。そこでは音源との距離や集中の度合いによる音の聞こえ方の変化も再現されている。

それはまるで音を介したキュビズムのようだった。確かに、知覚の主体たる私にとって音はそのようにして存在している。だがそのような音のあり方はあくまで唯一の「私」の内側に生じるものであるはずだ。それが外部化され、複数化されて舞台上に提示されることで、私にあるはずの世界の焦点が(いやそれは確かに私にまだあるのだが)取り出され、世界が裏返ったかのような感覚を覚えたのだった。言い換えればそれは、私が世界の側に裏返されたということでもある。

東京の人々の場面はやがて家出人・作家・会社員それぞれのエピソードへと収束していき、それとともに「キュビズム的」手法はほとんど用いられなくなっていく。深夜になり三人の周囲に人がいなくなったという以上に、無関係であった三人が互いの存在に焦点を合わせたことでそれ以外の人々が背景に退いたということだろう。顔のない人々に囲まれたトーキョーのなかで三人は「出会った」のだ。

[撮影:瀬崎元嵩]

「感じることで初めて存在が証明されるんじゃないですかね」とは作家の言葉だが、「トーキョー」で暮らす私はすぐそこにいる他人を、どれだけ人格のある他者としてきちんと見ることができているだろうか。例えば満員電車。私は自分の心身を守るために彼らを「イマジナリーピーポー」とみなしてはいないか。だが私が意識しようがしまいが、もちろん私以外の人々もまた生きる主体として、世界の焦点として日々を過ごしている。イエデイヌ企画は当たり前のその事実を演劇ならではの新鮮さで体験させてくれた。

立教大学映像身体学科とマレビトの会の演出部は福井歩のほかにも我妻直弥や関田育子、福井裕孝と極めて独自性が高く、しかし実直な思考と実践に基づいた作品を展開する若手の演劇作家を何人も輩出してきている。彼女たちは、立教大学教授でありマレビトの会代表でもある松田正隆が提唱する「出来事の演劇」の手法にベースを置き、あるいはそこから影響を受けつつも決して二番煎じには陥らず、師の先を行かんとばかりに演劇の原理を探究している。真に学ぶとはいかなることか。その最良の成果がここには表われている。

[撮影:瀬崎元嵩]


公式サイト:http://imaginary-people-in-tokyo-ideinu.mystrikingly.com/


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2020/02/16(日)(山﨑健太)

TPAM 劇団態変『箱庭弁当』/アブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』

今年のTPAMは、筆者がいくつか鑑賞した限りでは、政治的な題材を扱う作品は少なく、ほとんど人間が前面に出てこないハイネ・アヴダル&篠崎由紀子『nothing's for something』や、伝統舞踊の型を脱構築していくピチェ・クランチェン『No.60』など、むしろ美学を揺さぶるタイプの作品が目立った。ここではディレクションとフリンジからひとつずつ取り上げたい。


劇団態変『箱庭弁当』の出演者は全員、身体障害者である。五体不満足ゆえに、当然、根本から動きは変わらざるをえない。ただし、冒頭は個別の能力がわからず、もやもやした気持ちになっていた。わざと寝そべっているか、あるいは立てないのか? などが判別できなかったからである。またサーカス団の見世物のようにも見え、正直、戸惑った。しかし、やがて鑑賞するうちに、それぞれの出演者の個性を把握すると、通常の身体表現と全然違う動きがどのような仕組みで成立しているか、もしくはその新しい可能性を理解することができた。もっとも単純な立つ、歩く、掴むという行為でさえ、別の方法があるのだ。


TPAMフリンジのアブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』は、ベタな演劇である。取り上げている題材は、三重苦の重複障害者としてもっとも有名な偉人であるヘレン・ケラーだ。一般的には屋外で「水」という概念を理解した感動的なエピソードがよく知られており、この作品でもそのシーンは登場するが、むしろ重点を置くのは、その後の彼女の生きざまである。すなわち、ヘレン・ケラーとその教師の実話をもとに、いくつかの改変を加え、障害者差別と人種差別の問題を重ね合わせているのだ。もちろん、彼女に肌の色は見えない。ヘレン・ケラーが労働運動、婦人運動、公民権運動などに参加したのは事実である。だが、そうした彼女に対し、感動的な障害の克服だけを語っていろ、政治や社会に口出しするな、という圧力がかかる状況は、まるでいまの日本のようだ。これは昔のアメリカの話ではない。パラリンピックが開催される2020年においても(新型コロナウィルスの影響でどうなるか微妙だが)、ヘイトがなくなる気配がない現状への問いかけのように感じられた。

TPAM 劇団態変『箱庭弁当』 2020/02/09-2020/02/11 KAAT神奈川芸術劇場
アブラクサス『タブーなき世界そのつくり方』 2020/02/12-2020/02/16 サンモールスタジオ

2020/02/16(日)(五十嵐太郎)

ヌトミック『それからの街』

会期:2020/02/07~2020/02/11

STスポット[神奈川県]

2015年11月に初演され翌16年に再演、17年には第16回AAF戯曲賞を受賞し鳴海康平演出によっても上演された『それからの街』。作者の額田大志は音楽家でもあり、ミニマルミュージックの技法を用いて言葉や場面を細かく反復・変奏する戯曲の形式は大きな注目を集めた。「戯曲はほとんど書き換えずに臨みました」と言いつつ一方で「リクリエーション」と冠された今回の再再演では作品にどのような変化があったのだろうか。

戯曲に複雑な筋はない。描かれるのはまり(深澤しほ)・ハル(原田つむぎ)の姉妹とその友人の詩織(坂藤加菜)、そして詩織のバイトの後輩らしきオタベ(串尾一輝)らの日常と、彼らの住む街の風景だ。最近デモの多いその街では、参加者の溜まり場になるという理由で遊具が撤去されようとしている。それが理由というわけではないが街を出て行く人も多く、姉妹の住む団地では取り壊しの決まった棟もある。詩織もまた、家族とともに北欧へと引っ越すことになるのだった。

[撮影:タカラマハヤ]

[撮影:タカラマハヤ]

額田自身の演出による初演・再演では、ミニマルミュージックが持つイメージそのままに、幾何学的で機械的とも言える反復が俳優の演技の基調をなしていた。緻密で抑制のきいたその演技に感情の表出がなかったというわけではない。むしろ、淡々と繰り返される日常=演技の向こうには徐々に切実な感情が滲んでいく。別れと喪失の物語もあいまって、予感されるのはやがて訪れる破綻だ。無限に繰り返されるものなどない。

リクリエーションでは反復の不可能性はより直接的に表われる。何よりもまず、額田自身が初演再演の己の演出を繰り返すことが不可能になっていた。当日パンフレットに額田は「3年ぶりに戯曲を読み返したとき、今の自分とは考えていることも、言葉の扱い方も、音楽の価値観も、演劇への理解度も全てが違うなと思いました」と書いている。時間は経過する。

今回の演出ではミニマルミュージック的な戯曲の構成はそのままに、俳優の演技のモードはいわゆる「普通の」演劇に近づいていた。「自然」な感情と「日常的」な身ぶりがそこにはあった。もちろん、それらは寸断され反復されるので全体としては「不自然」で「非日常的」なものにならざるを得ない。だが発せられる個々の言葉の背後には確かに登場人物たちの感情が息づいているのが感じられたのだ。

しかし彼らのやりとりが孕む空気は反復のなかでときに急速に不穏さを増す。象徴的なのは詩織の「甘かったね」という言葉だ。もともとはフランス語、イタリア語、ドイツ語で「美味しい」を言ってみせ得意げなオタベに対して「私が行くの、北欧だよ」「詰めが甘かったね」と詩織が返すというだけの場面なのだが、繰り返されるうちにそのやりとりは変調し、やがて糾弾するかのような強い調子で「甘かったね」という言葉は放たれることになる。それはなかば観客に突きつけるかのようでさえあった。

初演再演では女性によって演じられていたオタベだが、今回の再再演では男性によって演じられた。拒絶とも取れる詩織の強い言葉は、オタベとの関係の危うさを匂わせる。交わされる言葉自体はなんということのないものでも、それが相手にどのように受け取られているのか、本当のところを知ることはできない。同じ出来事がまったく違ったように受け取られ、あるいは記憶のなかで変質していく可能性は十分にある。

[撮影:タカラマハヤ]

さまざまに調子を変えながら同じ言葉を、同じ場面を繰り返してみせる登場人物たちは、その場面を繰り返し想起しているようにも見える。だが記憶は思い返すたびに少しずつ色を変え、失われ、過去が完全に再現されることはない。思い出は互いに食い違い、想起は失敗する。

作中ではっきりと言及されるわけではないが、デモや他国への移住といったモチーフからは戯曲の背景に東日本大震災とそれに伴う原発事故があったことがうかがえる。初演の時点ですでに2011年からは4年が経過していた。それからさらに5年が経った。

初演再演が精緻に組み立てられたガラス細工だとすれば、再再演は砕け散りバラバラになった破片を拾い集める、まさにリクリエーションとしてあった。登場人物たちの想起がうまくいかないように、額田もまた、過去の自分を忘れていた。「あのとき抱えていた不安はいつの間にか消えていきましたが、あのとき書かれた言葉は残っていました」。そこに戯曲を上演するという演劇の形式のひとつの意義がある。

[撮影:タカラマハヤ]


公式サイト:https://nuthmique.com/

2020/02/11(火・祝)(山﨑健太)

ロロ『四角い2つのさみしい窓』

会期:2020/01/30~2020/02/16

こまばアゴラ劇場[東京都]

2019年に立ち上げから10周年を迎えたロロの新作は、作・演出で劇団主宰でもある三浦直之の原点に立ち戻りつつも新たな一歩を踏み出す、セルフタイトルにふさわしい作品となった。

劇団員俳優5人(と制作の坂本もも)によって演じられるのは、劇団溜息座が解散公演に至るまでの道ゆきと、旅先で出会いともに過ごすことになる2組の男女の道中だ。溜息座の公演を見て「一目惚れ」し、劇団員になろうとするサンセビ(亀島一徳)。だが団長であるヤング・アダルト(森本華)の遅筆(?)が原因で溜息座は次の公演で解散することになっているという。サンセビは解散をなんとか思いとどまらせようと劇団に同行するが──。一方、旅行で夜海原を訪れた七緒(望月綾乃)と春(篠崎大悟)は、駅で電車に轢かれかけたムオク(亀島)を助けたことをきっかけにムオクとユビワ(島田桃子)の二人連れと出会う。ユビワは二人の旅を新婚旅行だと言うがそれは嘘で──。

[撮影:三上ナツコ]

かつて溜息座に所属していたムオク。同じく亀島が演じ、ムオクに似ていると言われるサンセビがそうであったように、ムオクもまた公演を見て「一目惚れ」し、溜息座に入団したのだった。亀島というひとりの俳優を介して、二人の男の演劇との出会いと別れが重ね合わされる。

重ね合わせられるのはムオク/サンセビだけではない。望月と篠崎はそれぞれ溜息座の団員である「屋根足りない」と「フィッシュ&チップス」も演じ、二つの旅を、劇団の内外を往還する。そこにはロロのメンバーとしての俳優たちの、そして彼らの劇団外の姿も重なってくる。旅の終着地点は公演会場となる世界初の透明な防潮堤・ゴーストウォールだ。二つの旅は交わり、そして再び離れていく。現実とフィクションの、「こっち」と「そっち」の行ったり来たり。

[撮影:三上ナツコ]

作品のタイトルはロロという劇団の名前を示し、同時に人間という存在のさみしさを表わしてもいる。私は私自身の二つの目を通してしか世界を見ることはできない。私がいるところはいつまでも「こっち」のままだ。本当に「そっち」に行くことは叶わない。いや、行けたとして、そのときには「そっち」は消えてしまうのだ。「あたしが彼方と出会ったら、もうこの道はなくなってしまうでしょ」。

もちろん劇中で言われるとおり、「そっち」は「舞台上と客席の間に透明な壁」が存在していない演劇のように「ほんとは、もともと危ないもの」だ。境界は簡単に踏み越えられ、傷つけ傷つけられる可能性がそこにはある。にもかかわらず、本当に「そっち」に行くことは決してできない。私自身の輪郭が「透明な壁」として立ちはだかる。「四角い窓」が「2つ」なのはそこに私と「あなた」がいるからで、なのにその窓は決して通り抜けられない。だから「さみしい」。

しかし、それでもなお、三浦は「こっち」と「そっち」を行き来することの可能性を信じている。「ねえ、真実 こっちにおいで/ねえ、真実 こっちであそぼう/ウソとホントのアイスダンスをしよう/ねえ、フェイク そっちいっていい?/ねえ、フェイク そっちで歌おう/ウソとホントもなくしたあとで/オリジナルたちのパレードをしよう」。江本祐介による劇中曲の歌詞のなか、「こっち」と「そっち」は魔法のように同じ側を指し示す。

[撮影:三上ナツコ]

俳優は、演劇は、フィクションは、想像力は、少しのあいだ壁の向こう側を見せてくれる。これまでも三浦は折に触れフィクションへの、先行作品への愛を語り無数のオマージュを捧げてきた。「そっち」に触れて惹かれたサンセビの、そしてかつてのムオクのように、三浦もまた「そっち」からの声に応えるようにしてフィクションを紡ぐ。

夜海原の特産品だというマガイは「ホヤみたいな」ものだった。だが、ホヤはWikipediaによれば「俗称でホヤガイ(海鞘貝、ホヤ貝)と呼ばれることがあるが、軟体動物の一群に別けられる貝類とは全く分類が異なっている」らしい。マガイはホヤの紛い物だが、一方でホヤは貝の「紛い物」であり、マガイを真貝と書くならば、マガイこそが本物(の貝)なのだということになる。本物と偽物は絡み合って見分けがつかない。

創作を、劇団を続けるということはどうしようもなく現実で、三浦はそれさえもフィクションへと折り返す。メンバーはいつか劇団を離れるかもしれない。観客はいつか劇場に足を運ばなくなるかもしれない。だが、ユビワがそうしたように関係を名づけ直し、ムオクがそうするように「何回だって彼方と此方を往復」し「再会し続け」ることはいつだって可能なはずだ。ラストシーン、「こっちこっち!」と舞台上から客席に呼びかけ手招きし続ける5人の俳優の姿は優しく、でもやはりさみしいのだった。

移動式の芝居小屋のような舞台美術(杉山至)で上演された本作は、溜息座と同じように旅に出る。徳島と東京での公演を終えた彼らの次の目的地は4月の福島と5月の三重。再演を見据えてつくったという本作の、彼らの旅はまだまだ続く。

[撮影:三上ナツコ]


公式サイト:http://loloweb.jp/window/

2020/02/05(水)(山﨑健太)

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