2017年12月15日号
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artscapeレビュー

劇研アクターズラボ+村川拓也 ベチパー『Fools speak while wise men listen』

2016年10月15日号

会期:2016/09/23~2016/09/25

アトリエ劇研[京都府]

演出家・ドキュメンタリー映像作家の村川拓也はこれまで、観客の1人を「被介護者」役として舞台に上げて、本職の介護労働者が障害者介護をデモンストレーションする『ツァイトゲーバー』や、「出演者候補」に指示書を送り、要請に応じて現われた出演者(と「不在」の出演者)によって舞台上の出来事が進行する『エヴェレットゴーストラインズ』などの作品において、演劇の原理的枠組みを鋭く問い直してきた。本作『Fools speak while wise men listen』は、日本人と中国人の「対話」の体裁を取りつつ、「対話」の不均衡さを露わにしながら、「反復構造とズレ」によって「演劇と認知」の問題に言及し、モノローグ/ダイアローグという演劇の構造へと鋭く迫っていた(本作は来年に再演が予定されている。以下はネタバレを含むことをご了承願いたい)。
白線テープで床に印された矩形のフレームの中に、2本のマイクが置かれ、舞台奥のスピーカーとつながっている。舞台装置は極めてシンプルだ。開演前に(あるいはすでに上演は始まっているのか)、ボーイッシュな雰囲気の若い女性が客席に向かって、中国語とジェスチャーで「携帯の電源を切って下さい」といった前説を述べる。2本のマイクは、向かって左側が「Japanese」、右側が「Chinese」であることも伝えられる。前説を述べ終えると、彼女はそのまま舞台の壁際に留まり続け、舞台中央に囲われた「フレーム」の中で、日本人と中国人の「対話」が始まる。


ベチパー『Fools speak while wise men listen』(2016年9月)演出:村川拓也

女性ペア、男性ペア、もう1組の女性ペア、女性3人と男性1人。対話相手は固定されたまま、計4組の対話が(ほぼ同じ内容で)4セット繰り返される。「初めまして。お名前は何ですか?」と互いに名乗り合い、にこやかなムードで始まる会話は、全て日本語で交わされる。中国人たちは皆、流暢な日本語を話し、日本での居住年数が長いのだろうと思わせる。だが、「初対面」という設定、微妙に隔たった距離感、マイクの介在という間接性、といった仕掛けによって、相手との適切な距離感を計りかねている緊張感が微温的に漂っている。雑談めいた会話はそれぞれ、「結婚と国籍」「日本のフーゾク」「中国人観光客のマナー」「アベノミクスと安倍首相」「パンダ」というキーワードを巡るものだ。だが、例えば「安倍首相についてどう思うか」という中国人からの問いかけは、「生活が良くなった実感がないので支持しない」という答えによって経済問題にすり替えられ、安保法制や憲法改正といったきわどい話題に触れることは回避されてしまう。あるいは、「日本のフーゾク」について尋ねる中国人男性は、女性差別と一体化した民族差別を発言するが、対面する日本人男性は、彼の声が聞こえていないかのように無視し、黙ったままだ。
だが、こうした「日本」と「中国」のあいだに横たわる政治的緊張感や心理的な隔たり、隠れた差別意識は、あくまで本作の表層に過ぎない。本作は「日本と中国の対話」という体裁を通して、むしろ対話の場における不均衡さや強制力を露呈させる。通訳者を介さず、同一言語(日本語)の使用を課すという強制力が働くこの場では、関係性は圧倒的に不均衡なものとしてあるからだ。そして、所在なげにずっと壁際で佇む彼女。「対話」を形づくるフレームの「外部」に置かれ、対話の場から疎外された彼女の存在は、この白線で囲われた空間が、「日本人」「中国人」というナショナリスティックな枠組みにはめ込んで発言させる場であることを示す。それは、より抽象的には、国籍によってカテゴライズ/分断する認識の枠組みだ。「対話」シーンの切れ目のタイミングで、彼女はフレームの中に足を踏み入れてマイクを手に取るが、もじもじと躊躇ったまま何も話さない。ある時は「右側(=中国人)」のマイクを取り、次は「左側(=日本人)」のマイクに持ち替える姿は、「中国人として発言するのか」「日本人として発言するのか」という、2つのナショナルアイデンティティの選択の狭間で躊躇していることを示す。
そして本作のもう一つの真の主題は、「反復構造とズレ」がもたらす、「演劇(本物らしさ)は観客の認知によって決まる」というテーゼである。本作の基本的構造は、計4組のほぼ同じ対話が4セット繰り返される反復構造にあるが、反復される度に少しずつズレが侵入してくるのだ。会話のテンポ、発話の「間」の取り方、笑い声のトーン、声のボリューム、身振りの大きさなどが少しずつ変化を加えて「再生」されることで、「ごく自然に見える/演技としては控えめ/ぎこちない演技/不自然で違和感を感じる」という印象のグラデーションが発生する。それは、「演出家が俳優に対して、少しずつ注文や条件を変えながら、出力のチューニング調整を行なう稽古を見ているような感覚」だ。
そして、「演技のグラデーション」が虚構の枠組みを突き抜けて「リアルな心情の告白」の極へと一気に振り切れるのが、疎外されていた彼女の「独白」とその後に続く、最後の1セットである。あんなに躊躇っていた彼女がついにマイクを持ち、中国語と日本語を交互に交えながら、やや震えを帯びた声で観客に語りかける。中国での幸せな子供時代、迫害を受けて日本に渡ったこと、日本の学校でのいじめ、日本社会になじめない日々、それでも日本で生きていく決意をしたこと…。抽象化された詩的な語りだが、彼女自身の半生だろう(と思われる)。真偽は定かではない。村川の書いた「台本(フィクション)」かもしれない。しかし、「台詞」として固定された対話の反復・再生を経験した後では、彼女の語りは「今ここでのリアルな告白」として迫ってくる。前半の時間を通して「虚構」に染められた「ダイアローグ」の形式と対置された、「モノローグ」であることも大きい。
この「語り」を経由した後では、再開・再生される「対話」は、もはや同じものとして目に映らない。会話の「間」を長めに取り、身振りや声のトーンが抑制されることもあいまって、嘘臭さが抜けたように感じるのだ。そして出演者の一人は、今までの「対話の台本」には無かった個人的なことを語り始める。マイクを介さず、一歩相手の方へ踏み出すことで、その語りはより親密さや切実さを帯びる。だが、その虚飾のない切実さは、「モノローグ」の形式へと回収されてしまうことで、目の前に対面する相手には届かない。リアルで切実な語りであるからこそ、いっそう残酷さが際立つ(この、感情的な揺さぶりと論理的な形式の明瞭さとに引き裂かれる経験が、村川作品に通底する「残酷さ」である)。
このように本作は、「(不在の)演出家が俳優の演技をチューニング調整する稽古風景」それ自体を舞台上で「再現」することで、演劇を成立させる「本物らしさ」とは、見る側・受け手(観客)の認知の問題であることを鋭く照射していた。その「稽古風景」はまた、「日本と中国が困難な対話を重ねようと努力する練習風景」でもある。3日間の上演が終われば、舞台装置としての(多くを物語っていた)白線テープはきれいに剥がされて消えるだろう。しかし、私たちの意識の中の「白線テープ」が全て剥がされる時は来るのだろうか。

2016/09/24(土)(高嶋慈)

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