artscapeレビュー

砂連尾理(振付・構成)『とつとつダンスpart. 2──愛のレッスン』

2015年01月15日号

会期:2014/11/28~2014/11/30

アサヒ・アートスクエア[東京都]

この上演は、京都府舞鶴市の特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」で進められてきた「シリーズとつとつ」の延長線上で行なわれた。振付家・ダンサーの砂連尾理、看護師・臨床哲学者の西川勝、文化人類学研究者の豊平豪による活動(ワークショップや勉強会など)は、四年半に及んだという。さて、本作で注目すべきは、岡田邦子という電動車椅子のダンサーが砂連尾理とデュオを踊るというその趣向。いま岡田のことを「ダンサー」と書いたが、今回砂連尾に誘われたから舞台にいるだけで、もともと岡田はダンサーではない(ゆえに私も岡田に「さん」をつけないで文を進めることに、若干の躊躇を感じつつ書いている)。この上演を意義深くまた悩ましいものにしているのが、この微妙な関係である。コンテンポラリー・ダンスの上演の舞台に踊り手として一人の素人を、しかも障害をもっていることを理由に老女を招くこと。これが、老女を無条件に讃えるつもりで呼ぶのであれば、観客は安心する。そうした態度のひとつの極端はテレビ番組『24時間テレビ 愛は地球を救う』のなかでしばしばかいま見られる類いの「ドラマ」かもしれない。そこでは障害者は尊重されているようで、しばしば「可哀想」で「人柄が良く」「努力している」など〈ステレオタイプの障害者像〉を体現する人形として招かれる。砂連尾の岡田への態度は、そうしたステレオタイプとは縁遠い。とはいえ、リアルな「岡田邦子」を引き出そうというのでもない。砂連尾はあるイメージを取り上げ、そのイメージに岡田を置く。そのイメージが喚起するテーマは「愛」。ほぼ冒頭のあたりで映された映像には驚かされた。舞鶴なのかどこかの街を俯瞰した光景。そこに砂連尾と車椅子の岡田が浮かぶ。ファンタジックなイメージには、さらに二人の手と手が雲間から伸び結びあうクロースアップまで付け加えられる。この甘いファンタジックな光景は、正直、観客の度肝を抜いたに違いない。さらに、愛がテーマの音楽とともに、二人が踊るなんて場面や、終幕近くには「十牛図」をモチーフにして、二人が牛になって踊る、しかも背景に爆音のノイズが鳴っているという場面もあり、さらに観客は不安にさせられた。岡田が若い健常者でさらに訓練されたダンサーであれば、観客はどんな不安も生じまい。そうか、と思う。岡田の脆弱さは、舞台というものがそもそももっている暴力性をあらわにしてしまったわけだ。砂連尾の導きにぼくらが不安にさせられるのは、岡田と共存しているのが、ファンタジックなイメージであり、爆音の音響であるということ、すなわち、舞台空間にうごめく暴力的性格であることゆえなのだった。ところで、砂連尾は知的な作家だが、だからといって舞台の暴力性を露出させて「反舞台」あるいは「反上演」なるものを訴えたいわけではないはずだ。ぼくが推測するに、むしろこの暴力性を踏まえまた抱えた状態で、砂連尾は岡田とダンスを踊る可能性を求めていたのではないか。電動車椅子でカーヴを描く岡田に、砂連尾が手回しの車椅子で追従する場面があった。それはじつに美しいデュオの瞬間だった。でも、二人の身体性の違いが目につき「岡田は結局、踊っているというよりも踊らされているのでは」との疑念も浮かんでくる。その最中、小さなリモコン操作の車椅子が二人に割り込んできた。救いの神だった。救いの神は、二人の実像をキャンセルし、二人を再びイメージのなかへと誘った。砂連尾の試みは、こうして「異なる」二人の関係を「リアル」を基に引き裂くのではなく、「異なり」をときにキャンセルすることで二人のあいだに物語を成立させることだった。ぼくはそう受け取った。それは現実を見ない身振りではないだろう。でも現実を見ること以上に大切なものがあるのではないか、たとえばそれは二人のあいだに物語を置くことではないか、そう砂連尾は舞台を通して語っている気がした。そうであるならば、砂連尾の挑戦にぼくはほとんど賛成だ。ただそのうえで、どんな物語を語るのかの選択権が岡田にもあってもよかったのかもしれない(今回どこまで創作に岡田が関わったのかの詳細を筆者は知らないのだけれど)。その選択で砂連尾が岡田の論理に巻き込まれるという力関係が露呈するなんてことになったら、舞台という暴力装置にひとつの風穴が空く気がするから。


とつとつダンス part2-愛のレッスン/巡回公演予告

2014/11/30(日)(木村覚)

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