artscapeレビュー
川村美紀子『インナーマミー』(「トヨタ コレオグラフィーアワード2014 ネクステージ(最終審査会)」)
2014年12月01日号
会期:2014/08/03
世田谷パブリックシアター[東京都]
2014年度の「次代を担う振付家賞」は川村美紀子が獲得した。ダンサーの動きの要素、空間構成、音響や舞台衣装などどの点においても凡庸な作品だった。にもかかわらず、どうして受賞したのか? 思いめぐらすうちに、ひとつの仮説が脳裏をかすめた。以下はその仮説に基づく推理である(受賞からすでに数カ月が経過しているがまとめておきたい)。推理とは、この作品が狡猾な「賞レースにかこつけたゲームの実演」だったのではないかというものである。「賞レース」とは抽象的な「賞一般」ではない、当の「トヨタ コレオグラフィーアワード2014」(以下「トヨタ」)である。川村は「賞レース」に出場しつつ、本来のレースとは別のゲームを設定した。そして実際にそのゲームを上演/実演したうえで、まんまとゲームに勝利した。さて、それはどういうことだろうか? 川村は会場で配られたコンセプト・ノートの欄にこう書いている。「【インナーマミー】 // これは、心の中にひそむ母親を撃退するゲームです // 自分の欲望を放棄する…1ポイント 全体の一部として機能する…1ポイント 他者の関心を惹き付ける…3ポイント 要求に応える身体を持ち合わせる…5ポイント 受身的な存在であり続ける…2ポイント/30秒毎 優しさと従順さを披露する…3ポイント 抱いた幻想を具現化する…4ポイント」このテキストはなにを示唆しているのか? たんなる「不思議ちゃん」的な振る舞いのひとつ? いや、そうではない。これはこの上演に際して川村が設けたゲームの内実を示すものではないのか。もっと積極的にいうならば、これは彼女が自身に課した指示であり、ゆえにこれこそ本作のコレオグラフィそのものであるはずだ。そうであるならば本作が「凡庸な作品」であったのは当然である。彼女はこのゲームに忠実に作品を制作し、自分とダンサーたちに振り付けを与え、上演を遂行した。では、なぜ彼女は、そんな凡庸なゲーム(=コレオグラフィ)を思いついたのだろうか? ヒントになるのはタイトル。「内なる母」。これは誰だ? おそらく「母」とは川村にとって、自分にそうした指令(「自分の欲望を放棄せよ」など)を課してくる存在だ。この「母」に忠実になるゲームを遂行することで、川村がいうとおりならば「母親を撃退する」のである。これはいささか奇妙なルールだ。このゲームでは、娘の忠実さが「母」を撃退する結果を招く。なぜそんなことが起きるのか? 「母」の理想が娘によって具現化されることで、母の抱いていた理想は凡庸で愚かしいということが露わになるからだ。さて、この「母」とは誰か? もし川村が賞を逃したならば、この「母」とは純粋に彼女の内に潜む母となり、本作は川村の娘性が作品化されたものと解釈すればそれでよいことになる(いや、筆者の仮説を例外的解釈とすれば、大方の理解はそうしたものだろう、だが、しかし、そうであるならば、なんであんな凡庸な作品を川村はあえて「トヨタ」に提出したのか)。川村が賞を受賞したことで、この仮説に従えば、「母」は「トヨタ」になった(「トヨタ」は川村の母になることを選んでしまった)。そして「トヨタ」は、川村に賞を与えることで、川村によって撃退されてしまった。川村はゲームを完全犯罪的に遂行し、そして勝利した。しかし、この二重の勝利は自爆的ではないか。その余波はどれほどのものとなろう。ただし、上記のすべては、あくまでも仮説に基づいたひとつの推理である。
2014/11/30(日)(木村覚)