artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:神村恵『腹悶(ふくもん:Gut Pathos)』

会期:2014/04/03~2014/04/08

STスポット[神奈川県]

3月は力強い新作公演を立て続けに見たし、宮城県名取市での砂連尾理の活動も取材できて、ダンスの可能性や将来的になすべきことなど、諸々考えることが多かった。それと珍しいキノコ舞踊団のフライヤーに「コンテンポラリーダンス卒業宣言!!」と謳われていたのも、今月の出来事だ。「私たち、コンテンポラリーダンスを卒業します! ただ普通にダンスをやりたいだけなんです! だって私たちにとってダンスは日常なんですもの!!」とのこと。彼女たちが以前から「コンテンポラリー・ダンス」というカテゴリーの束縛から解放されたい気持ちを強く持っていたということなのだろう、でも、いまやこの言葉を見かけることはほとんどない。要は、すべてが「ダンス」になったのだ。「コンテンポラリー・ダンス」という枠は足枷にも上げ底にもなっていたろうが、今後は個々の作家が「ダンス」をどう捉えるか、捉えた価値をどう発信していくのかが、よりダイレクトにシビアに問われていくのだろう。今月は早々に神村恵の新作ダンス公演『腹悶(Gut Pathos)』がある。最近は、ブレイン・ストライキなどダンス公演以外の広くダンスや社会を問う姿勢を示している神村だけれど、とくに高嶋晋一との協力関係で進められる制作活動のなかには、緊張感のある共同作業の様子が垣間見え、ダンスへ向けたアプローチに新しい展開が示されている。

神村恵カンパニー「腹悶(Fukumon)」PV

2014/03/30(日)(木村覚)

石川勇太『Dust Park2』(長内裕美「dancedouble#2」)

会期:2014/03/22~2014/03/23

横浜赤レンガ倉庫1号館[神奈川県]

フランスのトゥールーズを拠点に活動を続けている振付家・ダンサー石川勇太の日本初演作品。石川とは、2008-2009年に行なわれた「grow up! Danceプロジェクト」以来の付き合いで、とはいえ、今回が渡仏後の彼の成長を確認するぼくにとってははじめての機会となった。40分ほどの作品。率直な感想は、日本的な「空気」から自由で、とても開放感があって、そこに端的に感動した。観葉植物の鉢、椅子、奥に扇風機、荷物の詰まった巨大リュックサックなどが舞台空間に散らばっている。そこに、石川と男(アントワーヌ・オシュタイン)と女(竹内梓)がいる。リヴィングルームみたいだが特定されてはいない。ダンサーたちも、はっきりとした役柄やキャラクターがあるわけではない、といって、過度に抽象的でもない。始まって5分は過ぎていたろうか、うつぶせしていた石川がのそりと体を浮かせた。この瞬間、はっとした。できっこないポーズを逆回しの再生によってできたことにする動画みたいだった。軽い、そして、速い。「速い」というのは実際の速度が、というより、こちらの理解の速度を上回る速さということだ。だからちょっと目眩がする。痛快だ。立ち上がり、身体が運動を本格的にはじめた。なんと言えば相応しいのだろう、軽くて、ひょいひょいと進むのだが、その軽さは、イリュージョニスティックな軽さというよりも、先の表現に似てしまうが、考える速度よりも速いことから生まれる軽さだ。フレッド・アステアに近い、と言えば形容したことになるだろうか。次々と奇妙なバランスを掻い潜ってゆく動作は、一切難解ではなく、スリリングで目眩も起こすが、心地よい。今月見た、岩渕貞太や関かおりと同じく、ダンサーらしいダンサー(ダンス狂のダンサーの1人)なのだが、とくに関とは異なり、運動を造形的に美しく(あるいはグロテスクに)する意欲よりは、体が動いていることそのことに石川の狙いは集中している。ユーモアの要素も興味をひかれた。途中、フェルト製のカラフルな魚のオブジェが出てきて、頭にちょこんと載せると、三人はよちよちとステップを踏む。女の頭から魚が落ちると、やりなおし。そんなゲームがしばらく続いた。最後のシーンも、にやけさせられた。床の上にあるとき貼付けた白いビニールテープを追うように、三人は抱きつき塊になって転がった。塊は、テープを巻き付け進む。なぜそうしているのか、そうなってしまったのか、なんて説明はない。ただ、突然降ったスコールのように、三人は自然に転がり出した。それがちょっとおかしい。上手く調整して、過度に物語的にも、抽象的にもならず、ダンスは生成し続けた。こんな風にダンスを信じるダンス作品を久しぶりに見た気がした。

dancedouble♯2 Trailer

2014/03/23(日)(木村覚)

砂連尾理『新しい公共スペースを再考するためのダイアローグ──カモン! ニューコモン!!』

会期:2014/03/16

名取市文化会館[宮城県]

昨年8月から何度かのワークショップを繰り返し、3月にも3日間のワークショップを経て行なわれた「ボディミーテング」と称するイベントを取材に行った。ファシリテーターは砂連尾理。宮城県名取市は、東日本大震災によって911名の死者、40名の行方不明者、5,000棟以上の半壊以上の建物を出した被災地(データはウェブサイト「名取市における東日本大震災の記録」に基づく)。今回の会場になった名取市文化会館は、とても立派な建築物を有しており、大震災の際には避難所になったところでもある。避難所になったとき、通常の活動ではありえない数の市民が訪れ、利用した。市民はそこで主体性を発揮し自治を発生させたという。有名芸能人の公演以外にあまり興味を示さない受け身の市民が、生活が困難な状況のなかで、文化会館を主体的、能動的に利用した。その事実は残ったものの、通常の活動が再開されると、市民の多くは文化会館へ足を運ばなくなり、会館に対して大震災以前の受け身の状況に戻ったのだそうだ。いや、「戻った」といっても、多数の死者が出、多くの家屋が壊れ、ひとの繋がりが切れかかっている現実を顧みれば、市民の生活状況はかつてと同じはずはない。その危機のなかで、どう皆が協同する力を獲得するかという喫緊の課題に、市民は直面していた。砂連尾理の市民への働きかけはそうした最中になされた。2時間ほどの「ボディミーティング」は次のように行なわれた。市の文化財に指定されている「閖上大漁唄込み踊」を継承する婦人会の方々20名ほどが踊りを披露し、その後、ワークショップ参加者が踊りを習い婦人会の方々と一緒に踊った。後半は、ワークショップ参加者がつくった名取市をテーマにする詩を七等分し、言葉一つひとつに即興で振りを付けて、皆で踊った。簡単にいえば、伝統的な踊りと(コンテンポラリー)ダンスとが交流したという会だった。砂連尾は、地元のご婦人方を尊重し、そのうえで、新しいアイディアのもと、皆でつくったダンスにご婦人方を招いた。ワークショップ参加者は20代から50代のおおまかにいって地元の方たち。彼らは、伝統的なダンスと新しいダンスを同時に実演しながら、たんに古い/新しいダンスを知るだけではなく、コミュニティの形成という課題について考えることとなった。ダンスを交換したあと、ワークショップ参加者を中心にディスカッションがあった。そこでは、協同する力をめぐって議論が起きたが、主として話題になったのは会館の運営についてだった。どうすれば震災時の主体的だった市民の姿を再び見ることができるのか?それを望むならば、管理意識の強い現今の会館の運営はプラスに機能していないのではないか?会館が立派すぎて敷居が高くなっているのではないか?こうした企画と市民とが気軽に交流できる導線づくりが不可欠ではないか?などの問いが、議題に上がった。ここにあったのは、震災以後の問題にあわせて、ずっと問わずに済ませてきたかも知れない震災以前の問題であり、その二つの課題が一気に露呈しているところに、困難さとともに可能性もあるように思う。ただし、こうした試みが一過性のものであっては力にならない。継続的な活動が不可欠だ。

-カモン!ニューコモン!!- announce.1

2014/03/16(日)(木村覚)

関かおり『ケレヴェルム』

会期:2014/03/14~2014/03/16

シアタートラム[東京都]

十数回の暗転を繰り返して、5分ほどのシークェンスが淡々と繋がっていった。90分。ほぼ無音。唯一アンプから発せられたのは、数回のため息の声。肌色に近い灰色の衣裳と床に敷かれた鏡映りする素材のほかには、どんな飾りもない。猛烈にストイックな舞台に、関かおりの美意識が描かれた。1人のシークェンスもまた5人以上のシークェンスもあるが、多くの場合、ゆっくりと姿勢を変えながら、2人か3人かが体を絡み合わせる。互いに頬を重ね、こすったりと、親愛の情を示しもするが、彼らの様子は基本的に人間性を欠いている。フィクショナルな未知の生物? 動きに羞恥心を感じさせないところがあり、そんな無防備さゆえに被虐性が感じられると、ずいぶん昔に会田誠《ジューサーミキサー》(2001)に興味を惹かれると関が筆者に話してくれたのを思い出した。男性を女性が抱え上げるなど、アクロバティックな流れも生まれるが、ゆっくりなので、スピードがあれば可能な目くらましも、アスリート・ライクな派手さもない。もっと滑らかに動くことが目指しているのではと思わされるぎこちなさがないわけではないが、奇妙だが美しい生命体がうごめいている状態は、見応えがあった。滑らかな美しい身体の佇まいは、まるで陶器のようだが、この陶器は現代的なアレンジが施されていて、美しさに勝るグロテスクさが漂っている、そんな感じだ。「21世紀のアールヌーヴォー」なんて言葉も浮かんできた。バレエのように緻密なルールと身体訓練がなされた果てに達成しうるダンスであり、その意味で「新しいバレエ」と呼んでもいいのかも知れない。ただ、この一種の審美主義がどんな波紋を巻き起こしていくのか、ぼくにはまだよくわからない。

関かおり インタビュー「ケレヴェルム 金沢ver.」

2014/03/15(土)(木村覚)

大橋可也&ダンサーズ『ザ・ワールド』

会期:2014/03/08~2014/03/09

森下スタジオ[東京都]

仮に『あなたがここにいてほしい』(2004)から数えるならば、10年を少し越えた大橋可也の活動は、いつも一貫して「生きづらさ」にフォーカスしていた。新作『ザ・ワールド』を見ながら思っていたのは、絶えず変化と進歩を目指して走り続けていたこのカンパニーが、変わらずにずっとこだわってきたもののことだった。土方巽から始まり多様な派生物を生み出してきた舞踏というコンセプトが、たんなる歴史的な遺産としてではないかたちで、今日もなお生きて働く運動体そのものであるとすれば、例えば、大橋のこの10年ほどの試みを無視するわけにはゆくまい。その特徴は、暗黒舞踏の「暗黒」は日常とは別のところにあるのではなく、日常そのものが暗黒なのだと考えるところにある。比較の対象をあげてみよう。舞踏を今日も生きたものにしているもうひとつの存在に大駱駝艦がいる。彼らの公演もまた日常に依拠しているが、日常が非日常的なイメージへとスライドしていくところに彼らの特徴がある。まるでシュルレアリスムの絵画だ。あるいは少年漫画だ。白塗りが引きだす異形性は、そうして見方を変えることで気づかずにいた自分を掘り下げてゆく。そこにファンタジーも恐怖もエロティシズムもある。大橋は、白塗りも派手なファンタジーも用意しない。その代わりに、ごくごく日常的な衣裳を着た普通の男女が、突然、倒れたり、走り出したり、なにかに振り回される。自分の知らない自分のなにかが自分を襲う。大橋はいつもここにいた。このことにあらためて気づかされ、驚いた。今作は、長島確をドラマトゥルクに据え、大橋の住む江東区をリサーチして生まれた、という話だ。なるほど、冒頭で、街にひっそりと据えられた神輿の倉庫に暮らしたいと吸血鬼である男女2人が対話し、その後に10人ほどのダンサーたちが登場するのだけれど、彼らも街に徘徊する吸血鬼たちなのだろう、首や足首に噛みつく振る舞いが何度も繰り返される。「吸血鬼」や「リサーチ」という今作独自の試みは、きっと過渡的なものだろう、もっと街(土地)を感じさせたり、もっとファンタジーを巧みに利用する方途はありうるはずだ。そう感じつつも、そんなことは小さなことだと思った。それよりも大橋の試みてきたもっと大きなことが身に迫ってきた。吸血鬼は自分に戸惑い、自分を突き動かすものに抗えない。「噛む」という行為は彼ら吸血鬼の抗えない暴力性に違いない。大橋はこの10年、暴力の問題に向き合い、自分の作品に摂取してきたが、そのなかで「噛む」という「振り」は、こういっていいかわからないが、なんだかかわいい。エロティックな「愛撫」に転化できたらいいのだが、そうは簡単にはいかないもどかしさが、かわいい。こうして、人間のもどかしさ、生きることの難しさを見つめている大橋は、やさしい。大橋がこの10年の間貫いてきたのは、人間に対するやさしく繊細なまなざしだったのではないかと思う。

2014/03/09(日)(木村覚)