artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
川口隆夫『Slow Body 脳は感覚を持たない』
JKダンスアトリエ、千駄ヶ谷・nagase[東京都]
川口隆夫からFacebookにメッセージが届いた。8月6日の夜のこと。そこにはヌードデッサン会の案内とともに次の言葉が添えられていた。「今ほど人体を見つめることが必要なときはない。/穴が開くほど、直視せよ!/目の前の人体を見て、そこにある感覚を自分の体に直結させる試み。/スケッチブック持参でぜひスケッチしてくれ。/(簡単な紙と鉛筆くらいなら用意できるかもしれない)」言葉に熱を感じた。文面から察するに、この会はかなりのハイペースで立て続けに開催される予定のようだ。「(人体を)直視せよ!」のメッセージには、昨今のろくでなし子の騒動やこのメールの数日後に起きた鷹野隆大の騒動が象徴する社会の暗さと対峙する、川口の思いが透けて見えた。ただ驚いたのはそれだけではなかった。メールの届いた2日後に、演出家の篠田千明も『機劇』(Bプロ)でヌードデッサン会を行なう予定なのだ。なんというシンクロニシティ。初回は見られなかったものの、8日の篠田の上演を見た翌日(8月9日)、第2回の「デッサン会」を見た。「見た」というか描いた。描きつつ見た。黒いシンプルな椅子に足を掛けて寝そべった川口の裸体を、白い紙に描く。肩、ふくらはぎ、筋肉のふくらみと骨の出っ張り、気になるところが出てくる。全体の一部として各部位は機能しているのだなと気づくと、バランスに意識が及ぶ。そんなことを思っていると、始まって3分くらいで突如川口はゆっくりと動き始めた(篠田のモデルはポーズをとって動かなかった。篠田が「デッサン会」を上演することに重点があったのに対して、川口は観客が人体と向き合うことを重視していた)。ああ、さっきの形が消えてしまった! 追いかけて次の形を掴まえようとするが、さらに新たな形がそれを消してゆく。デッサンする行為はただ見る際には気づかない肉体の有様を気づかせてくれる。けれども、その代わりに、時間をかけて一瞬のポーズを捕らえようとするから、動く身体にいつも遅れをとってしまう。あきらめてしばらく見ることに徹する。すると、見ることは描くことよりも柔軟に動きを掴まえ、味わっていることがわかる。デッサンが記録の一手段ならば、写真や動画はこれとどう異なるのだろう、などと思考が遊び始めたあたりで20分超の上演は終わった。8月16日の会にも足を運んだ。この回は千駄ヶ谷の美容室が恒例行事としている神宮外苑花火大会の鑑賞会のなかで行なわれた。約1時間弱。デッサンしながら、ときどき手を止めてじっと見つめながら、動く身体に向き合う。するとその実存が迫ってくる。そこにひとつの体があることにじんわりと感動する。会の終了後に、川口を囲んでデッサンの見せ合いが自然と始まった。観客が作り手となり川口が観客となる、主客の逆転が起きていて面白かった。この仕組みは自然と観客の主体性を引き出す。観客も表現したい! そんな欲求を引き出し解き放つのだ。川口は100回の上演を目指しているという。この仕組みからどんな出来事が生まれるのかは100回分の可能性があるはずだ。今後も追いかけてみようと思う。
*
8月16日には川口隆夫と篠田千明にこの「デッサン会」をめぐって話を聞かせてもらった。BONUS〈スペシャル・イシュー〉にて公開しているので、あわせてご覧下さい。
ダンスにおける保存と再生 第2弾:篠田千明/川口隆夫インタビュー「デッサン会という方法」
http://www.bonus.dance/special/02/
2014/08/09(土),2014/08/16(土)(木村覚)
捩子ぴじん『no title』(「トヨタ コレオグラフィーアワード 2014 ネクステージ最終審査会」)
会期:2014/08/03
世田谷パブリックシアター[東京都]
2002年の第1回から12年、今年で9回目となる「トヨタ」で、ぼくがもっとも優れた上演であると判断したのは、捩子ぴじんの本作だった。今年冬の『空気か屁』も印象的だったが、F/Tでアワード受賞をはたした『モチベーション代行』も含め、捩子ぴじんの上演に特徴的なのは毎回その様式が異なるということだ。その点でいえば、神村恵と福留麻里が参加した『syzygy』のアイディアはまさに前代未聞、空前絶後だった。捩子ぴじん本人は大駱駝艦に所属したこともあり、舞踏をベースにした優れた踊り手だ。ただし、その能力をほとんど封印して、演劇ともダンスともつかない、ユニークでしかしいま見るべきと思わせる上演を続けてきた。あえて共通点をあげるならば、捩子ぴじんの上演にはドキュメンタリーの要素が濃い。そして、そうした作家の傾向をあらかじめ了解したうえで見ると、本作もまさに出演する二人の、ダンサーとしての出自を問うところに重点を置いたものだった。捩子ぴじんと共演するYANCHI.は、ハウスダンス出身のダンサー。二人は横に並んで、舞踏とハウスダンスという別々のテクニックを交換し、それぞれが踊りのなかで両者を掛け合わせた。そこに生まれたのは、快楽要素の強い、しかし同時に奇妙きてれつな踊りだった。体内に宿してしまったエイリアンが自己主張を始めているかのように、外見上はハウスダンスを踊る捩子ぴじんの体には、舞踏的な痙攣的運動が顔を覗かせる。だからといって、二つのダンスがぶつかり合い、結果共倒れになるわけではない。奇妙な掛け合わせは、その奇妙さを残したまま、しっかりと進んでいった。そこには、シンプルにいって美しさがあった。ダンス的な快楽があった。その点において本作は他の上演を圧倒していた。とはいえ本作は「次代を担う振付家賞」の受賞を逃した。逃した理由というものがあるしたら、まさにその点においてだったのかもしれない。優れたダンスだった、それ故に、そのことの評価だけで片付けられてしまったかもしれないということだ。彼がいまコラボレーションしている作家がYANCHI.のほかにもう一人いる。韓国の振付家イム・ジエなのだが、彼女との作品制作とも関連するであろう捩子ぴじんの目下の関心に、出自の異なる者たちとの交流という事柄がある。本作でもそうしたコンセプチュアルな事柄を彼は扱っていたのだが、エステティックな側面、つまり快楽の要素が明瞭なために、コンセプチュアルな側面が弱まってしまった。ただ踊っている。多くの観客にはそう見えてしまったかもしれない。言い換えれば、コンセプチュアルな側面を明示するための編集作業が疎かだったのではないか。『no title』というタイトルに、それが示されているようにも思う。しかし、難しい。エステティクな快楽も悪くない。あんなに長い時間、あんな風に生き生きと踊っている捩子ぴじんが見られただけで、個人的には眼福だったのだ。
TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2014
2014/08/03(日)(木村覚)
サミュエル・ベゲット展─ドアはわからないくらいに開いている

会期:2014/04/22~2014/08/03
早稲田大学坪内逍遥博士記念博物館[東京都]
オープンキャンパスでにぎわう早稲田大を訪れ、演劇博物館、サミュエル・ベケット展「ドアはわからないくらいに開いている」の最終日へ。『ゴドーを待ちながら』の初演、ほかの作品の記録、あいちトリエンナーレ2013のパフォーミング・アーツ部門におけるベケット関連のプログラム、また戦地・被災地や日本におけるゴドーの受容が手際良くまとめられている。音や映像も楽しめる工夫がなされており、演劇の展示手法の可能性を感じることができた。
2014/08/02(土)(五十嵐太郎)
ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある

会期:2014/08/01~2014/11/03
横浜美術館、新港ピア[神奈川県]
美術家の森村泰昌がアーティスティック・ディレクターを務めた今回のヨコトリは、その長文の副題だけでなく、作家と作品のセレクトにも大きな特徴があった。ひとつは屋内の展示にほぼ特化したことであり、もうひとつは物故作家も含めたさまざまな時代・世代・傾向の作品を揃えたことである。一見して思ったのは、昨今大流行している地域型アートイベントに見られる、アートを町興しのツールとして扱う風潮、あるいはアートを消費物のように扱う風潮へのアンチテーゼである。しかし、現状批判にばかりとらわれると、森村が掲げたテーマ「忘却」を見失うことになる。森村は、いまの美術界(あるいは世の中)で忘れられがちな、しかし決して忘れてはいけない問題意識を持った作品を取り上げ、その存在を多くの人に気づいて欲しいと思ったのではないか。2つの会場を見終わったとき、そこには森村から観客への切実なメッセージが凝縮しているように感じられた。「アートがアートであり続けるために、見失ってはいけないものがあるはずだ。皆そこに気づいて欲しい」と。
2014/07/31(木)(小吹隆文)
プレビュー:黒沢美香『薔薇の人 deep』

会期:2014/08/27~2014/08/28, 2014/10/22~2014/10/23, 2014/12/26~2014/12/27
横浜市大倉山記念館[神奈川県]
ぼくが「コンテンポラリー・ダンス」なるものに興味と期待を抱いて、あちこちの小さな会場の公演に足しげく通うようになったのは、20世紀の末。そのころに、もっとも独創的で奇怪で、しかし、もっとも「ダンスなるもの」を感じられるような気がして友人と通っていたのが、黒沢美香の主催するこの大倉山記念館での公演だった。『偶然の果実』と言っただろうか、その公演では、狭い舞台空間に、横一文字に二人か三人のダンサーが並んで、即興のダンスを行なう。時折、音楽が流れたりもしただろうか、見所は、その即興の時間のなかに、ふとした具合で生まれる「はっ」とする瞬間。タイトルの如き「偶然の果実」が生まれるときを、じっと待つ。釣りに似て、すっかり釣果の上がらないときもあるし、なんだかすごく取れ高の良いときもあった。観客としてそんな「果実」が生まれるのをじっと待つ時間は、いま思うととても贅沢なものだった。そういう「つれない釣りも釣り」と思いながらつき合うみたいな余裕が、情報の急流に足を浸しつつ、なにも得られていないような気持ちになるいまこそ必要なのかもしれない。と、思い出話をしてしまいましたが、今作は『偶然の果実』ではなく『薔薇の人』の最新作です。これは黒沢がソロで踊るシリーズ、今回で17回目を数えるのだそう。これはともかく見なければならない上演です。10月と12月にも上演が予定されていますが、きっと、季節が変わるごとにぼくたちは大倉山に行かねばならないことになるでしょう。
2014/07/31(木)(木村覚)


![DNP Museum Information Japanartscape[アートスケープ] since 1995 Run by DNP Art Communications](/archive/common/image/head_logo_sp.gif)