artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

日本女子体育大学ダンス・プロデュース研究部:ぴちぴち ちゃぷちゃぷ らんらんらん'14「あらたな挑戦」(マチネ)

会期:2014/05/24~2014/05/25

アサヒ・アートスクエア[東京都]

11年前に発足した日本女子体育大学のダンス・プロデュース研究部。彼女らはかねてからコンテンポラリー・ダンスの旬な振付家を招聘し、在校生・卒業生がダンサーとして出演するための作品を委嘱してきた。今年は、(上演順に)川村美紀子『乙女のシンボル』、上野天志『Je me Souviens de toi』、鈴木ユキオ『Lay/ered』が上演された。こういう企画は面白い。作家本人による作品上演の場合よりも、作家の本質がはっきり見える気がするからだ。今回、鈴木ユキオの振り付けにとくにそれを感じた。以前ここで、小・中学生を振り付けた作品についてレビューしたことがあるけれど(『JUST KIDS(ジャスト・キッズ)』 )、そのときと同様、カンパニーのダンサーではない即席の学生グループに与えるが故のシンプルな振り付けは、鈴木のダンスの方法をわかりやすく示していた。舞台に登場するダンサーたちは、電車や街中で出会う若い女性の雰囲気が濃密に漂よっているのだが、そんな「ただの女の子」が、けいれんしたような引きつった動作を同時多発的に引き起こす。例えば、誰か巨大な存在に腕を掴まれて、強引にじわじわと引っ張られているように、ある女の子は腕を前に上げたまま、こちらに迫って来る。こうして日常が歪む。「ゾンビ」みたいではあるが、ゾンビの動きは記号的で単純なのに対して、こちらは予測不可能。身体内部に充填された未知のルールが世界を変貌させる。優れた振り付けとはそうした世界を変貌させる力をもつのだ。川村の作品は、ダンサーたちの等身大の性(欲)がテーマなのだが、告白調なのでむしろ「告白する自分を受け止めてほしい」という承認のメッセージを強く感じる。ダンサーの実存が語られるその意味で、ロマンチックバレエに相通じるものに映るが、観客は身の置き所がない。上野の作品は、「南仏を旅していたら地元のかわいい女の子に恋をした」みたいな印象を受けた。ピナ・バウシュの方法を踏襲しているように見える振りもあるのだけれど、美に対してあえて醜を対置するような、バウシュらしいコントラストはここにはなかった。リアリスティックな川村やファンタジックな上野と比べると、「歪む」と先に形容したような鈴木の試みに、この場を変容させる力をもっとも強く感じた。自家中毒的になったり、自己忘却的になったりするよりも、自己変容の機会を与えることが、ダンスの作品としての質という意味でも、学生たちに振り付けを与えるというダンスの教育的意義を考えるうえでも、重要なのではないかと思わされた。

2014/05/24(土)(木村覚)

クリウィムバアニー『ニューーーューーューー』

会期:2014/05/17~2014/05/18

シアタートラム[東京都]

売り文句が「300ぷんぶっとおし」だったものだから、よっしゃと12,000円の300分券を購入した。ただしこれ、「300分の公演」と受け取ることもできるが、四等分し「75分を1公演」としてチケット販売してもいるのだった(むしろ、実際はマジョリティはこれを買っただろう)。75分の最初の20分はシアタートラムの空間にあれこれと縁日の「店」みたいな、小さなアトラクションがありそれを楽しむようになっていて、残り時間が上演タイム。Open Reel Ensembleとの共作であることも手伝って、予想していたものよりずっと「ちゃんとした公演」だった。なにせ、前回シアタートラムで行なった『がムだムどムどム』は「遊覧型ぱふぉーまんす!」と銘打つだけあって、空想の公園のような空間に放り出された観客は散策路を伝い、あちこちで勝手に起きていることを歩きながら観察するというものだったから、今回はさらに濃密になって、徹底的にクリウィムバアニー・ワールドを体感することになるだろうと勘ぐっていた。なので、75分ワンパッケージを4回繰り返すだけなら、酔狂なファンが見たいだけ見たというだけのことになってしまうよと最初の75分が終わったとき、危惧したのだ。しかし、それは2回目以降、杞憂だったことがわかった。まず2回目で音楽が変わった。1回目の明るいOpen Reel Ensembleらしい色調が薄れ、ダークなニュアンスが濃くなった。すると、白シャツの清楚男子とキャミソールの女子の二組が、対立的に見えなくなって、その分、振付家・菅尾なぎさが伝えたいだろう、「女子の孤独感」や「見せたい欲求」や「そのことに飽きている感じ」や「クレイジーなユーモア」など、彼女の繊細な感覚が伝わりやすくなっていった。人間以下の動物のように、空間を徘徊し、見る者の欲求に応えるかわいい商品のごとく媚を売る彼女たちは、現今の社会が規定してくる女性らしさに囚われながら、囚われからの解放を希求するといったシンプルな結論に逃げ込めずに、囚われの快楽を味わいつつも憎悪を密かに蓄えているかのようだ。憎悪はときに、若干用意された椅子席にたまたますわった観客を「いけにえ」と呼んで、舞台に上げ、オブジェとしてさらす暴挙に出る。丸い舞台の周りを車の付いた台にのって、女の子(クリームちゃん)たちが周回すると、優雅だが、回転寿しにも見えてくる。実際、彼女たちから絞られた(ビーチチェアに寝そべる女の子の下からイクラの粒が製造されていたのだ)イクラが軍艦になって、宙を舞うなんて演出もあった。意外かもしれないが、「女子」を見つめるまなざしは関かおりのダンスに似ていた。ただし、ダンサーたちを身体の内部に至るまで造形する関に比べると、菅尾が振り付けた女の子たちは、振り付けと身体が分離して見える。だからこそ、ここでは疲労する身体それ自体が見るべきものになっているのだろう。3回目あたりの疲労がピークのクリームちゃんたちの倦怠が一番見応えあったが、4回目はほぼ1回目の内容と同じだったのがちょっと残念。300分見たひとにだけわかる大団円があったらよかったのに(筆者が気づかなかっただけか?)。

2014/05/18(日)(木村覚)

快快『へんしん(仮)』

会期:2014/05/09~2014/05/19

こまばアゴラ劇場[東京都]

篠田千明が在籍していた時期よりはそのトーンが抑えられているとはいえ、快快とは「つながり」の演劇を志向する劇団である。確かに、今作でも、上演前にお菓子が振る舞われたり、とくにぼくの見たのが子どもの観客を歓迎する回だったこともあって、子どもが舞台上の役者に話しかけたり、ものを放り投げたり投げ返したりするなど、客席と舞台とがインタラクティヴな関係を保っていたのは事実。けれども、舞台で展開されるお話は、そうした打ち解けた空気とはちょっと異質な、絶望や諦念がベースに漂うものだった。冒頭、女(大道寺梨乃)が語るのは、いまの自分に合った新しい洋服を買いたいとの思い、そしてそれが叶った直後に車に轢かれてしまったという話。次に男(山崎皓司)は、自分は同時にあらゆる存在であり得るのだと言い、しかも、床に水たまりをつくるおもらしをすれば、犬の遠吠えをはじめたりもする。タイトルの「へんしん(仮)」が暗示していると思われる、「変身の可能性」を無邪気に信じられないといった雰囲気が、細切れで連なったエピソードのなかから伝わってくる。何者にもなれるのが役者というものである。でも同時に役者は何者でもない。そんなメタ演劇的なメッセージも読みとれそうだ。ヴォードビルショーのような空間で、役者たちは踊ったり、コミカルなシーンをこしらえる。山崎が迫真の演技でゴリラになれば、観客は盛り上がる。自分たちが狙ったはずの変身の効果に、自分たちが戸惑ってしまう、そんなニュアンスが感じられると、どこまでも虚しさが消えない。変身は「死」を通過する。死を通過した再生。『りんご』という作品で取り上げられた「死」のテーマが、本作にも影を落としているように思われた。舞踏はこの死を通過する変身を扱ってきた。快快が死を通してつながる可能性を模索することもあるのだろうか。少なくとも彼らがいま触れているのは、そうした人間の暗黒部分ではないのか。

2014/05/11(日)(木村覚)

ふじのくに⇄せかい演劇祭 演劇公演『Jerk(ジャーク)』

会期:2014/05/03~2014/05/04

舞台芸術公園 稽古場 Boxシアター[静岡県]

ジゼル・ヴィエンヌ演出の『Jerk』には度肝を抜かれた。27人の少年を殺したテキサスのゲイの実話をもとにした作品である。椅子に座った一人の俳優が、人形劇や腹話術、観者に要請するテキストの黙読などを通じて、連続殺人事件を再現する。ぬいぐるみや人形なのに、おぞましい猟奇殺人の現場が生々しく伝わる。『Jerk』は、聴衆に語りかける形式ゆえに、観者も否応なく芝居の一部に引きずり込まれ、最後はここが監獄なのか精神病院なのかという疑問が生じ、これまで語られた内容に別の解釈も浮かぶ。人形に生命を与えながら、人をモノとして扱う犯罪を表現する、俳優ジョナタン・カプドゥヴィエルの演技力に感心させられた。

写真:磯崎新《静岡県舞台芸術公園 屋内ホール「楕円堂」》

2014/05/04(日)(五十嵐太郎)

ふじのくに⇄せかい演劇祭 『マネキンに恋して──ショールーム・ダミーズ──』

会期:2014/05/03~2014/05/04

静岡県芸術劇場[静岡県]

静岡のふじのくに⇄せかい演劇祭へ。自ら人形を制作するジゼル・ヴィエンヌ演出の『マネキンに恋して』を観る。マゾッホの『毛皮のヴィーナス』に着想をえた作品で、仮面とハイヒールの女性ダンサーが男のまわりで踊る。当初は人間とみまがう幾つものマネキンが舞台の背景に置かれるのだが、終始、動かないのに異様な存在感を維持していた。

2014/05/04(日)(五十嵐太郎)