artscapeレビュー
パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー
プレビュー:クリウィムバアニー『ニューーーューーューー』

会期:2014/05/17~2014/05/18
シアタートラム[東京都]
もう3年前になるのか、2011年に上演された『がムだムどムどム』は衝撃的だった。菅尾なぎさが主宰するクリウィムバアニーは、その前から、女性がとらえた女性的かわいさをむせかえるほど充満させた舞台で定評があったのだが、『がムだムどムどム』は「女の子たち」をいわばひとつの生物種として突き放しその生態を観察するといった作品で仰天させられた。日本のコンテンポラリーダンスには、ひとつの傾向として、エキセントリックな女の子=「不思議ちゃん」の生き様を見せるという特徴があった。ぼくはかつてから、その傾向には、踊り子と男性観客の疑似恋愛的関係が透けて見えるようで、その伝統的で保守的なところに問題を感じていた。菅尾のアプローチは、この傾向をなぞっているようで、それが徹底されることによって内破する不気味な力に満ちていた。なによりその「生態」を「観察」するといったつくりが凄かった。観客は、シアタートラムの会場につくられた公園のような、学校のような空間を遊歩する。あちこちで白い肌の女の子たちが生息していて、その肌を間近で眺めるともなく眺めながら、観客は音楽とともに突然始まるダンスタイムを待つのだ。いや、ダンスタイムはどこかこの上演のための口実みたいなもので、観客の喜びは「女の子たち」と一緒に時間を過ごすことそれ自体に向けられるのだ。新作『ニューーーューーューー』の会場は前作と同じくシアタートラム。それより気になるのはなんと上演時間が5時間(300分)ということ! こういうふざけた(=既成概念を無視する)上演を待ってました! これはきっと、上記したような徹底的な「生態」「観察」の作品となるに違いない。ぜひ、5時間チケットを購入して、「女の子たち」が生息する環境のなか、森林浴するみたいな気持ちで過ごしてみたいところだ。いっそそこで寝てしまいたい。寝ても覚めてもやっぱり「女の子たち」がいるって事態を体験してみたい。
2014/04/30(水)(木村覚)
かもめマシーン『ニューオーダー』

会期:2014/04/25~2014/04/29
北品川フリースペース楽間[東京都]
劇作家・萩原雄太が突然舞台で正座すると、役者たちは萩原に土を振りかけた。最後の場面がこれだった。「ああ、なるほど」と安堵のような気持ちに満たされた。本作の主題は「土地」。震災以後、これまで住んでいた土地を離れる者が少なからずいるなか、ここに生きていてよいのか、あるいはこの土地は本当に自分の生まれ死ぬ土地としてふさわしいのかと問わずにはいられない。そうした悶々とした思いが自分の内にあると、芝居が始まる前に萩原は舞台から客席に語りかけた。そして一言「これは僕のために上演する物語です」。つまり、最後の場面は、この最初の言葉にループしたわけだ。こうやって円環するまでの時間、要するに、芝居の中身はどんなだったかというと、暗澹たる話が続いた。アヤメとカホという姉妹がいて、カホは震災以後、住み慣れた土地を離れることにした一方、アヤメは離れなかった。しかし、アヤメは逡巡しており、バスターミナルで高速バスがあれこれの町へ旅立つのを眺めながら、時間を過ごしている。そこで猫がバスに轢かれてしまう。この猫はアヤメとカホがかつて二人の名にちなんで「アヤカ」と名づけた猫だ(時間がずいぶん経過しての再会だったから、野良猫を「アヤカ」と錯覚しただけかもしれない)。アヤメは猫を埋める場所を探す。町の公園にそんな土地はない。いや、奥の目立たぬところに丘があって、そこにアヤメは石で穴を掘りアヤカを埋めた。さて、最後の場面で萩原がかぶるのは、この猫を埋めるのに用いた土だった。彼は土だらけになったまま、「とてもよい土なので、とてもよい気持ちがします」みたいなことを口にした。この一言で、なんだか救われたような、妙だが「爽快な」気持ちにさえなった。暗澹たる話が語られてそのまま終わってしまったら、作家の不安や失望の念を観客はそこから読み取り、持ち帰るだけだっただろう。この上演が最後の場面を加えたことでさらに一層作家個人のために、ただただ彼の救済のために遂行された格好になったわけだが、そのことはかえって、見る者に納得する気持ちを与えていたように思う。演劇は何のためにあるのか? その答えは多様だ。萩原が「僕のためにある」と言い切ったことで、この上演は、とても独特なまとまりを宿した。土地を自分の土地と思うこと。この今日的難しさは、演劇を自分の演劇と思うことの今日的難しさともつながる。おそらくは、ぼくたちが共同体というものをどう獲得し、どう継続するかにかかっているのだろう。萩原が今回踏み出した一歩は、こうした大きな課題への一歩とも映る。
2014/04/28(月)(木村覚)
Q『迷迷Q』
会期:2014/04/24~2014/05/01
こまばアゴラ劇場[東京都]
主人公・園子の名は、親が公園でセックスして生まれたから。セックスの最中、母は黒人と日本人のハーフらしき女の子を眺めていた。身につけたかわいい服は女の子の立体的な筋肉質の体に滑稽なほど不似合いだったという。劇作家・市原佐都子がこだわっているのは、こうした設定に象徴されるような、(異種)交配への欲望と恐怖である。園子の母は11人の子どもたちを生み、「飼育室」と呼ぶ部屋に子どもたちを閉じ込めておくと、11人の子どもたちの服が回る洗濯機を覗きながら、後背位でセックスする。園子には友達(ノンちゃん)がいる。ノンちゃんはフランソワという名の犬を飼っている。フランソワはいつか園子の母に誘拐され、「ハワイ」という名で新たに呼ばれ、園子の家で育てられることになる。ハワイは園子の家で無理な交尾を強要され死んでしまうのだが、保健所で有料で処分してもらうくらいならばと、母は唐揚げにしてしまう。その他、母は自分の糞を食らった犬が糞をしているところを目撃したというエピソードなど、繰り返し舞台で展開されるのは、セックスや食事などによって、異物が身体に入ってきて自分が変容してしまうことへの快楽と恐れのオブセッションだ。今作はそこへと不気味なくらいに焦点が絞られていて、なんと言えばいいのか、この徹底性は演劇の枠を超え、現代アートの域に達している。不気味さは音楽の扱いにも及ぶ。確か音楽は同じものが二回流れた。ノンちゃんのハッピーな妄想に同調して、明るい(少し前のクラブでかかってそうな)曲が流れた。それは、曲の明るさを皮肉として受け止めざるをえないといった使い方で、しかも他にはどんな音楽も流れなかった。つまり、市原の描く世界に音楽はない。気分が高揚し、その気分に浮かれている自分を無邪気に肯定するような、登場人物たちにそんな心の余地がないのだ。身体への接触が性と食の問題からのみ取り上げられるように、絶望的に視野が狭い。市原はここを見つめて欲しいと望んでいるような気がする。ただし、観客として(少なくともその一人である筆者)は、若い女性たちがどぎついテーマを扱い、どぎつい台詞を口にしていることに面白がったり、戸惑ったりさせられているうちに舞台が終わってしまった、という印象を受けた。大人になった園子は、過剰な性欲を持て余す「ケンタウロス」と狭いアパートに暮らし、交尾で皮膚がひりひりし、しかし、そんな暮らしも続かず、ケンタウロスはやがてやせ細って死んでしまう。母も死んだ。園子はノンちゃんらしきバックパッカーの女の子と知り合い、彼女の友達と絵に描いたような「充実した夕食会」を過ごし、帰ってノンちゃんのFBをブラウズする。ここではないどこかを「ノンちゃん」を通して知る園子、しかし彼女が「死」を口にすると、唐突に芝居の幕は閉じてしまう。Qの呈示してきたテーマが徹底されていると同時に、Q自身がそこから自由になりたがっている、そんな作品に見えた。これまで作家の想像力に可能性を託してつくられてきたとすれば、少しそこから距離をとって、他人へのリサーチによって掴まえられた素材をもとに創作することがあってもよいのではないか、そんな思いを持った。
2014/04/26(土)(木村覚)
hyslom『Documentation of Hysteresis』
会期:2014/04/20
SNAC[東京都]
hyslom(ヒスロム)は、加藤至、星野文紀、吉田祐の三人組で、大阪の造成地に毎週通っては、その土地と自分たちとを接触させ、そのさまを4年以上にわたって映像に収めてきたという。今回のSNACでの上演は、前半部がその映像集の上映で、後半部は実際に彼らがその土地で行なっているようなことを実演した。前半部で上映された映像には、自然とも人工ともつかない、中途半端な状態でむき出しにされた土地の荒々しいパワーみたいなものが映っている。現在42才の筆者にとって、この光景は子どもの頃に親しんでいた田舎の空き地そのものだ。ベッドタウンと期待されて、山が削られていく。人間が暮らすのに都合の良い、平たい地面がつくられてはいるものの、通り抜ける風の強さとか、人目の届かない場所故の「しん」とした感じが、人工物ばかりの暮らしからは生まれてこないような妄想をかき立てる。そんなことがあったなと思い出す。そう、つまり、hyslomが空き地で続けているのは、ぼくが思うに、アートとか、パフォーマンスとか、ワークショップとか以前に、子どもの遊びみたいなことだ。例えば、造成された土地に残された複数の幹をのばした木に登り、3人がそれぞれ1本ずつ幹をもってぶつけ合ったり、その結果根元が割れ、割れたところから現われた虫の幼虫を観察したり、雨水が溜まった巨大な水たまりに裸で潜ってみたり、小さな円形の山をリングに見立てて頭突き合いの競争を始めたり、巨大なトンネルにかぶせられた巨大な幕に向かって石を投げつけてみたり。映像はすべてきわめて美しい。とはいえ、特別な被写体を映しているわけではない。自分の身体を被験体にして、その場のありさまを調査していると言えばそうだし、わざと危険なことして、乱暴を冒したが故に開けてくる光景をまさに子どもみたいにただただ楽しんでいるようにも見える。この作業から目立った何かが生まれてくるのかはよくわからない。けれども、彼らの活動は人間の思考を引っ掻き回し、生き生きとしたものに作り替える力に満ちているとも思う。思考の「土壌」を改良する営み、とでも言えばよいか。後半部で三人が登場して、重そうなドラム缶をゆっくりと三人がかりで舞台中央に移動させると、刺したパイプに何度も爆竹を投げ込んでいった。爆竹のデカい音が響く。悪ふざけのようで、でも、破裂音は美しくもある。パイプを抜き取り、倒すとドラム缶は蓋が取れ、大きな石と少量の水とが現われた。今度はドラム缶を右から左から転がした。三人の戯れが、じわじわと見ている自分の思考を揺さぶる。この揺さぶりに、hyslomと観客とがつくるユニークな関係性の核があるように思われた。
Documentation of Hysteresis - Trailer -
2014/04/20(日)(木村覚)
神村恵カンパニー『腹悶(ふくもん:Gut Pathos)』

会期:2014/04/03~2014/04/08
STスポット[神奈川県]
今作は「老い」がテーマだという。確かに、前半のある瞬間から、若い女性ダンサーは、腰をぐうっと屈めはじめて、歩みは1歩3センチくらい、老婆に変貌した。けれども、それ以上に、ぼくにはテーマが「介護」に見えた。後半から男性ダンサーがはいってきて、彼と女性は対話(「対話」というよりは介護者と被介護者とが交わす「問診」に見えた)をした後で、2人でデュオを踊ったからだ。この踊りは、不意に、互いが互いの感情を剥き出しにするところがあって、その暴力性が特徴的だった。「介護」といえば、村川拓也『ツァイトゲーバー』(2011)を連想させた。ただし『ツァイトゲーバー』が最初から、パフォーマーが観客に語りかけ、これから始まる実演内容について、丁寧な説明を用意していたのとは対照的に、「腹悶」は、2人がなぜこのようなデュオを踊るのかについての説明がなかった。説明があると、観客は冷静にこれから始まる実演がどう遂行されるのかに意識が集中するけれども、説明がないと、いまここで起きていることを観客は自分なりに推測してゆくほかなく、ゆえに、作り手との関係に緊張が保たれる。多くのダンス上演は「説明なし」なので、ことさらいうことでもないかもしれないが、こう比較すると、その緊張自体に意味があるのか、ないのかが気になってくる。神村の今作は、介護者と被介護者とが互いに内面を隠しながら、互いの立場を生きつつ、時々、その隠しごとに耐えられなくなる瞬間をフォーカスしているように見えた。その意味では、この作品の「説明なし」は、その内容と一致していた。
2014/04/05(土)(木村覚)


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