artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

Aokid city vol.4: cosmic scale

会期:2014/07/26

SHIBAURA HOUSE[東京都]

1年前の前作公演でも思ったのだが、「Aokid city」は〈劇場のフォーマット〉では表現することの難しい上演だ。Aokid(青木直介)が作・演出・出演する「Aokid city」は、ある環境に観客が入り込んだという設定で展開する。今回、タイトルにあるようにその場は宇宙。でも、リアルというよりファンタジックな空間で、サメの巨大な背びれが床を走ったり、そうかと思えば、トマトパスタが振る舞われたり、宇宙を表現するのに観客一人一人が構成体になってポーズを決めさせられたりと、ここにはあれこれの出来事が詰め込まれている。Aokidのダンスはヒップホップが基になっている。まるで路上で練習している状態そのままに(実際、そんな映像もありつつ)、ダンサーとシンガーらは円陣を組みながら、時折こちらに顔を向けて、歌いかけ、踊りかける。これを黒い壁に囲まれた劇場という場で上演しても息苦しくなるだけだろう、そんなことをずっと思っていた。前回同様、会場はSHIBAURA HOUSE。ここは壁の二面がガラス張りで、天井が高く、都会で室内なのに開放感があって、野外フェスのような気分になれる。フジロックで見たらさぞかし気分が良いだろう。ストーリーはほとんどなく、伝わってくるのはパフォーマー側が観客と「愛」や「情熱」を交換したいというシンプルな思い。こういうものも〈劇場のフォーマット〉に置いたら、ちぐはぐな感じになるだろう。最後のほうで、入場の際に観客の腕に貼った小さな丸形の絵(星)を客席を回って回収し、ダンサーたちはその星を黒いシートに貼り直して宙に掲げた。観客の星が散らばる宇宙。こういう素朴にも感じられるアイディアをベタに推し進めてでもその場を成立させてしまうのはAokidの真骨頂。Aokidには芸術と評すに値する方法がないなどと言い切るよりも、既存の枠からはみ出してしまう彼のような表現を愛し続ける方法をぼくらが持っているかどうかのほうが重要なのかもしれない。

2014/07/26(土)(木村覚)

MuDA × Humanelectro「SPIRAL」

会期:2014/07/19~2014/07/20

山本能楽堂[大阪府]

2010年の結成以来、「生命、身体、負荷、儀式、宇宙」をテーマに、多様なメディアを駆使したパフォーマンス活動を行なっている MuDA (http://muda-japan.com)と、ベルリン在住のヒューマンビートボクサーでエレクトロニックミュージシャンの「Humanelectro = Ryo Fujimoto」によるコラボレーション公演が大阪の山本能楽堂で開催された。国の重要有形文化財である能楽堂を舞台とした今回は、来年以降に予定されているヨーロッパやアジア各地でのMuDAの世界ツアー・プロジェクトの初回公演でもあり、それだけにMuDAのパフォーマンスという求心力に改めて注目したいところであった。ダンサーたちが激しくぶつかり合いながら揃って跳んだり倒れたり、動作を反復するその独特のパフォーマンスに音響、照明のエフェクト、そしてHumanelectro = Ryo Fujimotoのビートボックスのリズムがときにドラマチックに重なる舞台。これまで私が見た中でも演出にダイナミズムを感じる見応えのあるステージだった。かたや、ダンサーたちの動きが、やや窮屈で固い印象だったのが気になる。能舞台でのパフォーマンスとは斬新だったが、そのマッチングの魅力はもうひとつ発揮されていない感じがしたのが惜しい。公演を見るごとに、ダンサーたちの動き、パフォーマンスは全体に旋律的な美しさの厚みが増していると感じる。のびのびとそれを発揮できる舞台にまた期待している。




写真:辻村耕司

2014/07/19(土)(酒井千穂)

大友良英、contact Gonzo「Tokyo Experimental Performance Archive」

会期:2014/07/18

スーパー・デラックス[東京都]

日本パフォーマンス/アート研究所(小沢康夫)が企画する新イベントの第一弾。これはインターネット上にアーカイヴすることを前提として行なわれる上演であり、現在存在する、価値あるパフォーマンス表現を未来へとつなぐための試みであるという。今後は、8/30に室伏鴻と伊東篤宏、9/23に山崎広太と恩田晃のパフォーマンスが予定されており、9/15にはアーカイヴをめぐるカンファレンスも予定されている。さて、今回は音楽家の大友良英、ダンスのcontact Gonzoの上演が行なわれた。両者のパフォーマンスは、当然のごとく素晴らしく、とくに大友の二台のターンテーブルを駆使した演奏は「音を出す」というシンプルな出来事に「人間のあらゆる営み」が表われているように感じられた。たんに審美的な価値ではなく、倫理的な問題や自然との共生への問いが、生半可な通念がはぎ取られた状態で、問いかけられている、そんな気持ちにさせられた。レコードの代わりにシンバルがターンテーブルに乗っている、そんなシンプルな入れ替えがされただけなのにどうして上記したような気持ちが喚起させられるのか、不思議だ。それゆえ、パフォーマーの力量を感じる演奏だった。contact Gonzoは三人のダンサーがこれでもかと互いの体を素手でぶん殴り続けた。その凄まじい音とうめき声が、撮影という特殊な機会に促されてのことなのか、いままで見たなかでもっとも凄惨だった。この凄惨さは、映像に残るのだろうか。そもそもどうすればそうした生々しさが残るのかという課題も含めて、この企画のトライアルは、映像の可能性をめぐっても議論を引き起こすことだろう。約8台ものビデオカメラがパフォーマーを囲んでいた。カメラはなにを映したのか。のちに生み出されるアーカイヴ化された映像を見なければ、この企画を十全に観賞したことにはなるまい。なるほど「一生懸命に練習して、踊れるようになった振り付けを披露する」というだけでは、上演としては不十分なのだ。そういう状況へと突入していることを、この企画は示唆しているのだろう。「上演することに意義がある」という発想では足りないのだ。上演をどう記録・保存し今後の環境につなげていくか、そこまでも含めて上演である、そう考える時代になりつつある、そう予感させられた。

2014/07/18(金)(木村覚)

神村恵「訪問者vol. 7」

会期:2014/07/16

SNAC[東京都]

SNACで連続公演していたこの「訪問者」シリーズを、ぼくは今回初めて見た。前回は田畑真希が担当したというのだが、今回は、畦地亜耶加が招かれ、神村恵の与える「指示書」に従ってパフォーマンスを遂行した。「指示書」は観客にも配られる。その最初には「X(エックス)は、身体の中にある何かである」と記されている。この「X」をダンサーが自由に設定しその後の指示を遂行する。指示は五つに分かれていて、たとえば「1」にはまず「Xを身体から掘り起こす」とあり、具体的には「3種類の動きによって身体を物質的に確かめる(持ち上げて落とす/引っ張って伸ばす/縮める)/これらの動きにはそれぞれ方向を持たせ、空間のどこかの点に差し向ける/動きはその都度Xに響かせるようにし、そのありかや感触を確かめる/Xに仮の名前を付け、その名前を呼ぶ」と書かれている。畦地はこれを舞台に置いて時折読んで確認しながら指示を実行していった。ぼくが見たときには「ゼリー」と畦地はXの名前を声に出して呼んだが、その行為も含めて、すべてを畦地は即興で行なったという(アフタートークでの畦地の発言に基づく)。数日前に見た篠田『機劇』でも、スコアが配られ、観客の目は舞台とスコアを行ったり来たりしていたのだけれど、その点で本作は『機劇』ととてもよく似ていた。たんに「神村が振り付けし、ダンサー畦地が踊る」というベタな公演ではなく、「神村の指示に畦地がどう応答したか」といったメタ・レヴェルを観賞する公演なのだ。だから、畦地の動作の審美性は観客にとって見所の一部でしかなく、むしろなぜそこで畦地はそう動いたのかと問うことこそ観客の楽しみとなる。「指示とはなにか」あるいは「指示されるとはどういう事態か」そうした問いも観客のうちに生まれるだろう。観客は、頭に浮かぶそうした数々の問いを、畦地の身体の状態を通して惹起させられる。その意味で、最大の謎は身体そのものだ。指示書は言語で書かれるが、それが実現される場(身体)のうえに言語ははっきりと現われない。このもどかしく、判読し難い身体とどうつき合っていくか。アフタートークで、複数の観客が「これは(観客に)見せるものになっているのか」と神村に質問をしていたことは示唆的だった。こうした上演を観客が楽しむ際の方法的錬磨はさらに求められるだろう。ただし、これはたんに習慣の問題でもあろう。こうした上演が当たり前になるならば、ダンスをメタ・レヴェルで観察し、楽しむ習慣が浸透するのも、案外そう遠くないのかもしれない。

2014/07/16(水)(木村覚)

篠田千明『機劇──「記述」された物から出来事をおこす』

会期:2014/07/11~2014/07/13

SNAC[東京都]

快快脱退後、本格的なものとしては初となる篠田千明の公演は、演劇を「『記述』された物」という点から考察し上演するという、言ってみればとても意外なものだった。篠田と言えば「つながり」を重視する快快のなかにあって、おもに演出を担当していた中心人物。「パーティ・ピープル」と受け取られることもある彼らのなかで、もっともパーティ寄りの存在ではないかとぼくは勝手に思っていた。もちろん『アントン、猫、クリ』などでは、多重のレイヤーを駆使して、きわめて方法的なアプローチも見せてはいた。それにしても、正直、今作ほど方法的な考察を重視した上演をするなどとは想像していなかった。とはいえ、それは、やや大げさに言えば、今後の日本の演劇やダンスの環境に強い刺激を与えるものであったと確信させられる上演だった。
本作は、二つの作品で構成されていた。最初の『The Short Chatri / タイトルコール』は、同じく快快を脱退した中林舞が伝統的なタイ舞踊を習った過程をめぐる作品。幼少のころからバレエに親しんでいた中林が、継承者の絶えたタイ舞踊とどう出会い、どうそれを咀嚼し、体内化したのかを舞台にしたのだが、それを説く構成が丁寧だった。最初中林が登場し、自分のルーツを話し、またタイ舞踊との出会いを紹介した後、バレエの動きから次第にタイ舞踊独特の動きへと身体を変容させていった過程を踊りながら示し、次にリハーサルと称して踊りの確認を行なったうえで、最後に、猫のかぶり物を身につけ、音楽も鳴らして、いわば「本番」を踊った。それぞれの段階にそれぞれの身体がその個別の表情を見せていたことが興味深かった。そしてなによりも、師匠が体内化しているタイ舞踊をバレエの身体へ転写していく、そのブロセス自体を演劇(篠田はそれをまた独特な言い回しで「機劇」と呼ぶ)にしていることに、驚きに近い感動があった。
二作目のタイトルは「ダンススコアからおこしてみる」。ポスト・モダンダンスの文脈で理解されることの多いアンナ・ハルプリンの『ファイブ・レッグド・スツール』(1962)をダンサーの福留麻里(ほうほう堂)が1人で上演した。興味深いのは、95分ほどの作品を6分で行なったことと、五つのパートを1人で遂行したことだ。どう1人で遂行したか、それは舞台に置いた3台のモニターのなせる技で、スコアの一番上に書かれたパートを遂行し終えると、次に福留は舞台では二番目に書かれたパートを遂行するのだが、その際、舞台の福留とタイミングをあわせて、モニターに先のパフォーマンスが映写されるのだ。舞台上ではライブの身体と記録された身体が同時にディスプレイされているというわけだ。三番目のパートが遂行されると、モニターは一番目と二番目のパートを重ねた映像を映した。95分が6分になった時点で「正しい」上演ではないと評定することもできよう。しかし、この「正しくない」アレンジによって、スコアから「出来事をおこす」仕方を、ぼくたちは驚きとともに考えることができるのだ。篠田の「機劇」はさしあたり、そうした地平をひらいたことにその意義を見出すことができるだろう。

ちなみに、この上演をめぐって、筆者がディレクターを務める「BONUS」にて篠田千明にインタビューを行なった。これもレビューとあわせてご覧ください。


BONUS 篠田千明インタビュー「機劇」(Aプロ)をめぐって

2014/07/11(金)(木村覚)