artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

我妻恵美子『肉のうた』(大駱駝艦・壺中天公演)

会期:2014/09/13~2014/09/21

壺中天スタジオ[東京都]

最初の約30分くらいまでは、わくわくしてみていた。冒頭の秀逸なこと! 幕が開くと、少し傾いた壁がさほど大きくはない舞台を占めていて、5人の女たちがほとんど裸という出で立ちでその壁に寝そべっている。女たちはサランラップなのか透明のビニールに包まれている。その様は、スーパーで売っている肉のパックにとてもよく似ていて、薄気味が悪くしかしエロティックだ。少女たちを食らう会田誠の絵画を連想させる。主体性を奪われた、肉としてのみ存在価値を認められている女たち。白塗りの肌にビニールの輝きが重なる。ここと、そのすぐ後に、赤い網に吊るされた4人の女たちの前にあらわれた異形の怪物の場面は、ともかく惹き付けられた。怪物は毛むくじゃらの棒状の体で、棒の下部に我妻恵美子が入っているのだけれど、愛嬌ゼロのグロテスクな着ぐるみが、囚われた女たちの周囲をしばらく徘徊するその様といい、女たちとの関係性といい、妄想性に溢れていてその後の展開に期待を抱かせるのに十分だった。ただ、この毛むくじゃらの怪物から我妻がすぽんと産み落とされると、舞台はそれまでみたいには転がらなくなっていった。ビニールに包まれていた5人の女たちと赤い網に吊るされた4人の2組は、交代で群舞を踊る。その踊りはそれぞれエロティックでクレイジーでコミカルで、壺中天公演らしい質がある。ただ、その群舞と我妻との関係がぼくには簡単に把握できなかった。故に曖昧に映った。転がらなさの原因はそこにあるように思われた。我妻はその場を仕切る女王的な存在にも見えるが、その場から疎外されている傍観者のようでもある。ほぼでずっぱりだった我妻に舞台上で誰一人つっこみらしいことをしないのが気になった。自由なのだが、そのぶん不自由にも見えた。男性ばかりの壺中天公演では嬉々としてぼけたり突っ込んだりしているのとは対照的だ。女性ばかりの空間において「ぼける」「つっこむ」とはどんな意味があるのか、あるいはそもそも意味がないものなのかどうなのだろう……などと考えながら吉祥寺の帰路を歩いた。

2014/09/19(金)(木村覚)

core of bells『コメント・メメント・ウィスパーメン』(「怪物さんと退屈くんの12ヵ月」第九回公演)

会期:2014/09/17

SuperDeluxe[東京都]

これはある種のミュージカルだろう。ただし、通常、ミュージカルは音楽(とくにメロディ)に発話が呼応するものだ。けれども、この上演の場合その正反対で、発話が音楽に寄り添うのではなく音楽が発話に寄り添うのだ。メンバーの吉田翔が早口でひとまとまりの台詞を繰り出す。すると、その何度目かから、ドラム、ベース、ギターがその台詞のリズムに合わせて演奏をはじめた。音楽は、言葉の持つ独特のグルーヴを掴まえ増幅させる。それだけで十分聴きごたえのある演奏なのだが、さすがにcore of bellsの場合、そうことは簡単ではない。これにはもともとの設定があり、心霊映像のテレビ番組のなかで、心霊映像を得意とするコメンテイターが映像に相応しいコメントをあれこれ試しているあいだに、暗礁に乗り上げてしまう。コメンテーターを演じていたのは最初、山形育弘だったはずなのだが、いつの間にか吉田がその座を占めてしまう。それも奇怪なのだが、二つの心霊映像(これが結構凝っているのだ。ギャグ度70%、心霊映像度30%といったところか)に付けるコメントは、曖昧なラインをぐいぐい進んでいく奇妙な言葉たちの連なりで、すなわち、台詞は心霊映像とぴったり密着せずに、違和感はどこまでも消えずに漂う。さて、いまのところあげた要素だけでも、心霊映像+コメント+バンド演奏と多層的なのだが、そこにさらに心霊映像とは別のスタジオで彼らが演奏している最中の映像も重ねられる。台詞の内の30%はこの映像とリンクしているようだ。こうして、冒頭であげたような音楽と台詞の関係が反転したミュージカルの要素を基軸と見なせば、その周りに、複数のフリンジが執拗に飾り付けられてゆく。異常な組み合わせが、ほとんど嘔吐感さえも催させるが、それは不意の爆笑も喚起させる。

2014/09/17(水)(木村覚)

六甲ミーツ・アート 芸術散歩2014

会期:2014/09/13~2014/11/24

六甲ガーデンテラス、自然体感展望台六甲枝垂れ、六甲山カンツリーハウス、六甲高山植物園、六甲オルゴールミュージアム、六甲山ホテル、六甲ケーブル、天覧台、六甲有馬ロープウェー(六甲山頂駅)[兵庫県]

六甲山上のさまざまな施設にアート作品を配置し、ピクニック感覚で山上を周遊しながら作品を体験することで、アートと六甲山双方の魅力を再発見できるイベント。今年で5回目を迎えることもあり、もはや円熟味すら感じさせる盤石の仕上がりになっていた。ただし、円熟味=予定調和ではない。たとえば、バス1台をサウンドシステムに変換させた宇治野宗輝、鉄人マラソンを控えてトレーニング兼パフォーマンスを行なった若木くるみ、会期中ずっと被り物スタイルで作品制作を続ける三宅信太郎など、こうした場でなければ出会えないタイプの作品が多数ラインアップされており、現代美術の尖端性もフォローされているのだ。昨今は地域型アートイベントが全国的に乱立し、アートが地域振興のツールに堕しているとの批判もあるが、「六甲ミーツ・アート」は双方のバランスを上手に保っていると思う。昨年は台風の影響でケーブルカーが長期間不通になるアクシデントがあったが、今年は天候に恵まれて滞りない運営が行なわれるよう期待している。また、今年は「ザ・シアター」と題したパフォーマンス系プログラムが多数予定されている。それらの反応も気になるところだ。

2014/09/12(金)(小吹隆文)

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プレビュー:日本パフォーマンス/アート研究所「Tokyo Experimental Performance Archive」

Super Deluxe[東京都]

本レビューでも先月紹介した大友良英/contact Gonzoの回(7月18日)室伏鴻/伊東篤宏の回(8月30日)は終了していますが、このイベントを紹介したいと思います。会場に多数のカメラを用意してパフォーマンスを記録し、ハイ・クオリティな状態でアーカイヴ化するこのイベントが意図しているのは「継承と創造のサイクル」の確立。ダンスやパフォーマンス的表現など舞台上演を基本とする表現活動では、音楽におけるCD(あるいは音源)、映画におけるDVDなどのプロダクトが乏しい分、過去の表現にアクセスすることが難しいところがあります。ゆえに、舞台表現が過去への参照・批評をともなっている割合は他の表現に比べ少なく、仮に表現が個性的であるとしてもコンテクストが形成されにくいということがあります。その点で「アーカイヴ」は喫緊の課題なのです。昨今、ダンスの創造環境のなかで「アーカイヴ」という言葉は一種の流行語になっています。この言葉に向けた思いは多様でしょうが、とくに日本パフォーマンス/アート研究所の取り組む「創造」へと向かっていく意味での「アーカイヴ」は、未来の作家たちに大きな刺激となることでしょう。ただし課題も山積しています。どのように撮影・編集すると「継承」の活動としてふさわしい映像になるのか?あるいは、アーカイヴ化された映像群を次のクリエイションの刺激剤にするにはどんな仕掛けが必要なのか?など。こうした課題にどんな知恵が注がれるのか? キャッチーでも派手でもないけれども、こうした取り組みこそいまダンスやパフォーマンス的表現のなかでもっともホットで先端的なイシューなのではないでしょうか。残るパフォーマンスは山崎広太/恩田晃の回(9月23日)。9月15日にはカンファレンスがあり、ぼくもBONUSが目指すことについて説明する予定です。


otomo yoshihide Tokyo Experimental Performance



contact Gonzo Tokyo Experimental Performance

2014/08/30(土)(木村覚)

core of bells『子どもを蝕む“ヘルパトロール脳”の恐怖』(「怪物さんと退屈くんの12ヵ月」第八回公演)

会期:2014/08/20

Super Deluxe[東京都]

開演前、会場は入口の前に押し込められた観客で溢れていた。観客はあらかじめ「ゲームタイトル『ヘルパトロール』」と記された指示書を受付で渡されていた。そこには観客が「鬼」チームと「罪人」チームに分かれて戦うことなど、ゲームのルールや進行が事細かに書かれてある。しかし、いくら読み返しても頭に入らない。複雑なのだ。しばらくすると、青い鬼と赤い鬼が、遅れて顔が半分赤く半分青いミックスの鬼が現われ、ゲームの説明を始めた。軍手が渡される。内側に「鬼」か「罪人」かが記されているという。見ると「鬼」だ(知人たちと確認した限り、すべて「鬼」だった)。ゲームの開始が告げられる。閉ざされたエリアに入ると、会場のSuper Deluxe内に迷路と六カ所の部屋ができている。観客は、ルールに従い暗号を探し読み、メモをとる。「鬼」は「罪人」の振りをし、「罪人」は「鬼」の振りをする(そう指示書に促されていたままに)。昼の時間が終わり夜になる。暗い中で部屋に閉じ込められ、その場で足踏みするよう指示される。目を瞑って結構長い間歩く(夜なのに歩かされている!)。足踏みのあいだ、結構複雑なやりとりがなされているはずだが、目を瞑っているので何が起きているのかはよくわからない。この昼の時間と夜の時間が5-6回繰り返された。そして新たな昼が来るたびに、半透明パネルでできた部屋はひとつずつ解体される。最後は、大きな部屋に観客全員が集められ、夜の時間を過ごす。つまり、ひたすら足踏みさせられる。ただでさえ暑いのに、足踏みの疲労でくたくたになるが、足踏みの音はやまない。「ようやくか!」と心で叫び、昼が訪れる。照明で周囲が明るくなった。すると、core of bellsのメンバーたちは、それまで何事もなかったかのように、このシリーズで毎回行なっているアフター・トークを始めていた。観客は、ゲームがよくわからぬまま終了したことはわかるのだが、だからといってこの取り残された状況がつかめないと、怪訝な表情で眉間にしわを寄せたまま、一文字に並びトークを続ける彼らを見つめる。けれども、彼らのトークの話題はラーメン屋に行った行かないとか身内の揉めごとばかりで、聞いてもいっこうに当を得ない。狸に化かされた、なんて言い回しがあるが、まさにそんなぽかんとした空気が会場を埋め尽くした。「煉獄プランナー」の肩書きで参加した危口統之は、ゲーム中の指示をマイク越しにずっと行なっていたけれども、彼の参加は今回のアイディアに大きく作用しているようだった。それにしても、観客は目を瞑ってはいけなかったのだ。目を瞑っては何が起きたのかも何が起きなかったかもわからない。〈観客にもかかわらず目を瞑ってしまう〉というこの事態を引き起こしたところに、今回の上演の成功はあったというべきだろう。見るために目を瞑り、目を瞑ったがために見られなかったというこの矛盾、絶望! 観客を巻き込む仕掛けの施された舞台上演は最近多いが、観客を絶句させる力の点で今作は図抜けていた。

2014/08/20(水)(木村覚)