artscapeレビュー

奥山ばらば(大駱駝艦)『磔 ハリツケ』

2013年10月01日号

会期:2013/09/13~2013/09/21

「壺中天」スタジオ[東京都]

まるでオーソン・ウェルズの『フェイク』みたいだ!と言ったら大袈裟すぎるだろう。けれども、そんな賛辞を口にしそうになるくらい、今回の大駱駝艦・壺中天の公演は飛び抜けて面白かった。
冒頭、闇から現われたのは、柱に磔にされた奥山ばらば(作・主演)。車輪のように巨体がぐるぐる回される。被虐的な光景は、しかしよく見ると、腕や足に縛られたり釘で打ちつけられたりといった様子がない。ということは、自分で率先して磔にされている? 受動と能動、加虐と被虐がはっきりと線引きされず、曖昧なまま浮遊した状態、この作品の決定的に秀逸なところは、この点に集約される。ほかにも例えば、奥山がほどかれて(自らほどいて)舞台奥に行くと、村松卓矢扮する「磔の先輩」のごとき男がやはり磔にされている(自ら磔になっている)その脇で、柵に体を巻き込んで何度もポーズを変えながら柵に絡まれる(自ら絡まる)シーン。あるいは、この2人をこらしめる古代ギリシア風「奴隷の監視人」らしき男が現われ、鞭を打ち鳴らし2人を怯えさせるのだけれど、自分で振っている鞭の音に自分で驚き「ビクッ」と狼狽えるなんてシーンがある。こうしたシーンはたまたまではなく明澄な知性が生んだものだ。舞踏の創始者・土方巽は死刑囚に「舞踊の原形」を見た。「生きているのではなく、生かされている人間」という「完全な受動性」に舞踏の根源があるなんて言葉を残している。しかし、そうだとしても、それを意図してなんらかの策を講ずるならば「完全な受動性」は途端に揺らぐ。受動を能動的に求めるという矛盾あるいは嘘。これは、舞踏に限らず、およそすべての舞台芸術が共通に出くわす隘路だろう。嘘を嘘と知りながら真に受けてくれる観客の「不信の宙づり」に支えられて、舞台表現は生き存え、同時に問うべき問いが先送りされる。大抵はそんな感じでことなく進むのだが、ウェルズは希有なことに『フェイク』その他の映画のなかで、この嘘の問題に真っ直ぐフォーカスしたのだ。奥山も今作でこの「嘘」という圏へと果敢にもアクセスした。
こうしたコンセプトも素晴らしかったのだが、もう一点言及しておきたいのは、踊りが純粋に面白かったことだ。奥山のソロの動きは、まるで逆再生した映像をトレースしているかのような、不思議な浮遊感があって、次の動作が読み取れず、そのぶん目が離せない。それも魅力的だったのだが、一層重要なことであるのは、大抵の舞踏的な動きとは対照的に、奥山をはじめ、登場するすべての踊り手から内向性をほとんど感じなかったという点だ。ようするにカラッとしていたのだ。観客は踊り手の内の秘めた部分を察知する面倒から解放されるがゆえのことだろう。そうだからか、踊り手の身体は奥山の与える数々の振付で奴隷のように弄ばれているのだが、被虐的ではなく、弄ばせているのだよと言いたげな軽さがある。その点でとびきりだったのが、「磔の先輩」と「奴隷の監視人」が舞台に横並びにさせられたとき、他の踊り手たちが彼らの両手、両足、口、頭などに次々と小道具を握らせ、履かせ、銜えさせ、被せるシーンだった。右手に位牌、左手に裸の人形、眼にはサングラス、頭にはかつら、例えばそんな小道具が盛られると、2人の踊り手はその事態にあわせたポーズを恐る恐るとるのだが、すぐに小道具は別のものに変えられてしまう。そうなると、変化したバランスに対応しようとして、2人はまたポーズを恐る恐るゆっくりと切り替えねばならない。ポーズをとっているようでとらされているようで、なんともいえない、能動と受動のあわいに突っ立った体が、じつに生き生きとしていて面白い。
大駱駝艦・壺中天公演では、しばしば、踊り手の体がちゃんと遊びの道具になっている。まるでゲーム上の体のように、まるでニコニコ動画上の体のように。今作は、そんな彼らの遊び心が躍動しまくっていた。脱帽です。

2013/09/19(木)(木村覚)

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