2019年06月15日号
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artscapeレビュー

大橋可也&ダンサーズ『OUTFLOWS』

2011年10月01日号

会期:2011/09/17~2011/09/19

こまばアゴラ劇場[東京都]

冒頭の数十分が印象的だった。コンクリートの床の一部。そこにすぐ脇にいる、後ろから抱きしめられる女が映された。もまれる胸が床に拡大される。映像の身体と生身の身体が並べられた。目の前の生身の二人よりも映像に、ぼくの目は向かってしまう。映像の近さと生身の遠さ、そんなことを感じさせられる。大橋の企みはさらに続く。斎藤洋平による映像の上に、10人ほどのダンサーたちが倒れる。さらに1人の男が現われ、手の映る小さなプロジェクターを使い、ダンサーの体をなでてゆく。映像の身体(手)が生身の身体に重なる。官能的で、陵辱的にさえ見える。大橋はまず、映像の身体と対比させつつ生身の身体をもてあそび、それによって、ヒエラルキーの下位に生身の身体を位置づけた。丁寧なイントロダクションがこうして置かれた故だろう、その後は、目覚ましい新展開は見られないものの、十分に見応えのある舞台となった。人間存在のどうしようもなさが現われている。それがいい。「OUTFLOWS=流出」というタイトルが「震災」を意識しているのは間違いないだろう。いま、日本の舞台表現には、そうした「震災」に関連した表現が溢れ、その溢れ具合は「ブーム?」と揶揄したくなるほど甚だしい。そのなかで、舞踏をルーツにもつ大橋の身体へ向けたアプローチはすがすがしい。がれきのような、見捨てられた家畜のようなダンサーたち。土方巽は、舞踏は「立てない」ところからはじまる、と言った。この「立てない」を十分に噛み締めることからしか、「震災」以後(常ならぬ世)を生きる勇気は生まれないような気がする。

OUTFLOWS [Excerpt]

2011/09/19(月)(木村覚)

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