artscapeレビュー

山下残『庭みたいなもの』

2011年10月01日号

会期:2011/09/22~2011/09/25

KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]

日常のもの(廃物)が言葉を発話させ、発話が動きを引き出す。90分ちかい上演中、7人のパフォーマーは、代わる代わる、互いにかかわり合いもしながら、ほぼ一貫して「もの」→「発話」→「動き」の連鎖を繰り返した。一貫しているぶん、大きな展開はなく、単調で、退屈と言わざるをえないところもあった。けれども退屈なぶん、一貫した方法それ自体がクリアに舞台上で示されることとなった。例えば冒頭、男女2人が向かい合い、男の掲げたTシャツを見て女は「てぃーしゃつ」と言い、男は「てぃんしゃつ」と口にする。訂正するかのように、女は「てぃーしゃつ」と語気を強めながら「てぃー」のとき腕を横にすーっと伸ばし、次に「てぃん(しゃつ)」と言うときは腕を「ん」のところで急降下させる。この腕の動きを「発話に誘発されたダンス」と呼んでみたくもなるのだけれど、これが「ダンスか否か」はさほど重要ではないだろう。ものや言葉からこぼれでてくる動きをともなったかたちはドローイングになぞらえてみたくなる感触もある。ただし、ならばひとつ気になるのは、この「ドローイング」に強い個性あるいは妄想とでも呼ぶべき要素が希薄なことだ。一つひとつの出来事の発端に置かれた「もの」の選択理由が曖昧なところに、その希薄さの一因がありそうだ。舞台は仮設された木製の床で、その下に地下倉庫のような空間があり(観客は着席する前にその空間に通される)、ものはその地下空間から各パフォーマーによって舞台に持ち上げられるわけだが、なぜいまこのものがこのパフォーマーの手で選択されたのかが、観客にはよくわからない。わからないまま、大量のものたちが現われ、また引っ込められる。そのわからなさ、その抽象性が、作品鑑賞を方法論へ集中させるわけだけれど、同時に、パフォーマーの発話のあり方や動きのあり方そのものに観客(少なくともぼく)が興味をもつ意欲を削いでしまったのではないかと思うのだ。

2011/09/23(金)(木村覚)

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