artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネル『私がこれまでに体験したセックスのすべて』

会期:2021/03/26~2021/03/28

京都芸術センター[京都府]

プロのパフォーマーではない60歳以上のシニアを公募し、「性(体験)」を軸に彼ら自身が自らの人生を語るというドキュメンタリー演劇。世界各国で上演を重ねてきた作品の日本版が、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGで上演された。なお、出演者と、後述するように作品中で発言する観客、双方のプライバシーを守るため、上演冒頭で観客全員に「ここで聞いた話は公言しない」という誓約が行われる(本評では個人を特定できないよう配慮し、企画・制作を行なった株式会社precogの許諾を得ている)。

最年長の出演者が生まれた1946年を起点に、一年ごとに「私は○歳です」とのカウントで年齢を重ねながら、具体的な短いエピソードがモノローグ形式で語られ、積み上げられていく。生まれた地域や出生時の状況に始まり、幼少期の記憶、異性の親との身体構造の違いやジェンダーで区別された衣服など「性(別)」への意識の芽生え、マスターベーションの発見、第二次性徴期の心身の変化、性的指向や性自認についての周囲の同級生とのズレ、それを理由とするいじめや疎外感、初体験、ワンナイト、結婚や子どもの誕生、浮気や離婚、かつて惹かれた人との再会、闘病……。マイクの前に一列に座った出演者5名が観客と対面するというシンポジウムのような構造は静的だが、ピンクやパープルの照明や華やかなセッティングが「一般の人々」の人生を表舞台にあげてセレブレーションする。彼らの両脇を司会役のサウンドデザイナーとリモート参加の演出家陣、手話通訳者たちが挟み、10年ごとの区切りで当時流行した楽曲がかかると、出演者ともどもノリノリで踊るパーティータイムとなる。また、要所要所で性生活に関する具体的な質問が観客に投げかけられ、応じた観客と演出家のやり取りも作品の一部を構成する。



[撮影:吉本和樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


語られるエピソードの一つひとつは短く切り詰めて構成されているが、一瞬を切り取ったディティールのなかに情景や心情を喚起させる余韻が埋め込まれており、同時並行で展開する5つの映画を、切断と視点の切り替えを挟みながら早回しのカットで再生して見ているような感覚になっていく。『私がこれまでに体験したセックスのすべて』というタイトルは刺激的だが、生々しい体験について露悪的に語るというのではなく、「性(体験)」を軸に半世紀以上の人生について振り返るというのが作品の核である。そこで浮かび上がるのは、「性」とは他者との関係性であるということであり、嫌悪感や違和感を抱かずに鑑賞できた理由のひとつとして、「性」を消費の対象として扱わない態度がある。

また、本作は、昨年開催予定だったTrue Colors Festival─超ダイバーシティ芸術祭─(日本財団主催)の演目として制作された経緯があり、障害・性・世代・言語・国籍の多様性をフェスティバルテーマに掲げているため、その趣旨にそったさまざまな当事者が出演している。後半生では、90年代のエイズパニックへの不安、2003年に日本で戸籍上の性別変更が法制化されたこと、東日本大震災について言及され、マイノリティをめぐる社会的な出来事や法制度の変化、障害者の性に抑圧的な日本社会など、より大きな枠組みと関連づけて自身のセクシュアリティが語られていく。フェミニズムのスローガンに「個人的なことは政治的なこと」という言葉があるが、「性」は最も個人的なものであると同時に社会的事象や構造と密接に関わって成立するものであることが示される。

初め何者ともわからぬまま現われた5名の出演者は、語りとともにそれぞれの社会的属性を開示し、やがてそれらは後景に退き、最終的にはただ強く美しいそれぞれの輪郭が立ち上がる。2020年を通過し、語りは最年長の出演者が100歳を迎える2046年の未来まで続く。そこで語られるのは、老いや年齢に関わらず、性を主体的に享受したいという思いや夢だ。「性」とは死ぬまで続く生そのものであり、「どう生きたいか」を肯定的に選択して描きながら私たちは生きていけるという希望が込められたラストだった。



[撮影:吉本和樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]


*本稿は公開後、 株式会社precogから、本作品の説明についての情報の過不足についてご指摘を受け、一部を改稿して再掲いたしました。(2021年4月19日、artscape編集部)


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING:https://kyoto-ex.jp

2021/03/28(日)(高嶋慈)

劇団ドクトペッパズ『ペノシマ』

会期:2021/03/25

花まる学習会王子小劇場[東京都]

劇団ドクトペッパズの新作人形劇『ペノシマ』が2020国際子どもと舞台芸術・未来フェスティバル参加公演として上演された。以前「アジア児童青少年舞台芸術フェスティバル2018」で上演された『うしのし』と同様、子ども向けの枠組みでの上演ながら、影絵や映像を組み合わせつつ人形劇というメディアならではの趣向を凝らした舞台は、子どもだけでなく多くの観客に見られるべき完成度となっている。

「ストーリー」として事前に公開されていた情報は次の通り。「遠い海の向こう、ポツンと浮かぶ南の島に、小さな洞穴が一つ。その中を覗くと、バラバラの『骨』が落ちていた。一体これは誰の骨で、なぜこんなところにあるのか? 物語の時間は逆転を始め、骨たちが動き始める…」。舞台は洞窟内部のような設え。スクリーンのようになっている舞台奥の壁面に洞窟内部に分け入っていくような影絵が映し出されたかと思うと二匹の蝶が舞い、Welcomeとピンクのネオンサインが点灯して上演がはじまる。





ブラックライトに照らされ光る骨は舞台上をコミカルに動き回りながら自らのパーツを収集し、ほぼ完全な(しかし一方は片腕の)二人分の骸骨となる。やがて上空を鳥の群れが通過し大量の糞が降り注ぐと、一方の頭蓋骨がパカっと開き、糞の中の種が芽吹くように人間の頭部が現われる。その後、頭上から降り注いだ肉片を組み合わせることで人間の形をなした二人は果実を食べることで言葉と恥の概念を獲得しますます人間らしくなっていくが、自分たちが何者かを思い出すことができない。洞窟内で発見された将棋盤の裏には「花園」と「前野」の名。どうやらこれが自分たちの名前らしい。将棋に負けた前野が食糧の調達に出かけていくが、戻ってきた彼は軍服を着ていて──。



こうして、この作品はどうやら太平洋戦争を背景としたものだということが明らかになる。劇中で明示されるわけではないがタイトルの『ペノシマ』はペリリュー島を指すものだろう。パラオ諸島に位置するペリリュー島では太平洋戦争中の1944年の9月から11月にかけ、日本軍とアメリカ軍との陸上戦があった。洞窟などに潜みつつゲリラ戦を展開した日本軍は2カ月の戦闘の末に敗北。しかし日本軍の生き残りはその後も島内の洞窟に潜伏し続け、1947年になってようやく帰順することになる。

洞窟に残された人骨が自らの来歴を「思い出す」過程とはつまり、戦争によって失われた個人の生を「再生」する過程であり、だが同時に、死に向かう彼らの最期の時を「再生」する過程でもある。自分たちが何者であるかを彼らが思い出すとき、影絵の鳥は反転して戦闘機となり、再生のきっかけとなった鳥の糞は死をもたらす爆撃となる。表裏一体の生と死。

ところで、劇中にはしばしば、Welcomeのネオンサインが点灯するとともに時間が巻き戻り、パラレルワールドのように異なるバリエーションの短いシークエンスが展開される場面が挿入される。それは何とか生き残ろうとする彼らのあがきのようにも見えるが、いずれにせよ死という最終的な結末は変えられない。だが、この作品の上演自体がWelcomeのネオンサインの点灯とともにはじまったことを考えれば、そこに働く想像力は彼らのものではなく私のものだと考えた方がよさそうだ。残された骨は何も語らない。遺品や遺された証言もすべてを語るわけではない。想像は想像でしかない。だがそれでも、欠落を埋めることは決して叶わないと知りながら、なお繰り返し想像しようとしてみること。



『ペノシマ』は今回、フェスティバルの枠組みのなかでの1回のみの上演であり、残念ながら限られた人数の観客しか目撃することができなかった。ドクトペッパズのほかの演目と同じようにレパートリーとして再演されていくことを期待したい。Welcomeのネオンサインが点灯するたび、魂は蝶となって還り彼らは動き出すだろう。

「ペリリューの戦い」については、近年では武田一義が史実を参照したフィクションとして漫画『ペリリュー─楽園のゲルニカ─』を描き2017年度の日本漫画家協会賞優秀賞を受賞、2021年4月の連載終了(最終巻は7月末発売)とともにアニメ化が発表されている。大川史織編著『なぜ戦争をえがくのか』には武田と担当編集者の高村亮のインタビューも収録されており、フィクションを通して戦争に触れることについて考えるためのさまざまな示唆を与えてくれる。


劇団ドクトペッパズ:https://dctpeppers.wixsite.com/mysite

関連レビュー

劇団ドクトペッパズ『うしのし』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年04月01日号)

2021/03/25(木)(山﨑健太)

高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』

会期:2021/03/04~2021/03/11

ニュー新橋ビルおよび新橋駅周辺[東京都]

シアターコモンズ'21で上演された高山明/Port B『光のない。─エピローグ?』は東日本大震災の翌年、フェスティバル/トーキョー12でPort B『光のないⅡ』として上演された作品の「リクリエーション再演」。10枚組のポストカードとポータブルラジオを手にした観客がひとりずつ新橋の街を巡るというツアーパフォーマンスの形式とそれが辿るおおよそのルートは初演と変わらなかったものの、観客が立ち止まることになるポイントとそこで対峙するものの変化は作品の印象に大きな違いをもたらすことになった。それは同時に、震災から10年という時間が否応なく私にもたらした変化でもあっただろう。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

10枚組のポストカードにはそれぞれ表面に報道写真が、裏面に次のポイントまでのルートが記されていて、観客はそれを見ながら新橋駅周辺の10のポイントを巡っていく。ポイントに着いた観客はポストカードの裏面に記された周波数にラジオを合わせ、そこから聞こえてくる音声に耳を傾ける。聞こえてくるのはオーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクが震災と原発事故に応答するかたちで発表した一連の戯曲の一作、『エピローグ?』[光のないⅡ]を読み上げる訥々とした声。クレジットによればそれはいわき総合高校演劇部の生徒の声らしい。

10のポイントで待っているのは潜在する不可視の声だけではない。例えば、福島のものと思われるひび割れた地面を写したポストカードは私を東京電力本社の向かいにある内幸町広場に導く。そこには特別なものは何も置かれていないのだが、広場のタイルは報道写真に写る地面と似た、ひび割れたような文様を描いている。その類似が私のいる新橋と遠く福島とを無理矢理につなげてみせる。あるいは雑居ビルの一室には、報道写真に写るもぬけの殻の布団が敷かれた暗い和室の様子が「再現」されている。ある種のインスタレーションのようなその空間はしかし、報道写真に写る光景を模したものであることは明らかなものの、最初からリアルな再現は目指されていないようなおざなりな作りであり、その「再現できてなさ」が私に自らのいる新橋と福島との距離を、そこにある断絶を突きつける。

しかしこれらは私の記憶に残る初演の話だ。今回の再演では空間の再現はなく、各ポイントにはポストカードに印刷されたものと同じ報道写真、あるいはそこに写し出された場面を含む動画が配置されていた。あるものはショーウインドウの中に、あるものは引き伸ばされて高架下の壁面に、またあるものは駅前のSL広場のディスプレイに。ひとつを除いて公共の空間に配置されたそれらは行き交う人々の注目を集めることもなく街に溶け込み、ラジオを持った観客に「発見」されるのを待っている。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

異物であるはずの報道写真が街に溶け込んで見える理由のひとつは、そこに写っているマスクをした人々の姿や防護服が、2021年の東京を生きる人々にとっては見慣れたものになってしまったからだろう。たまたまそこを通りがかった人々の目には、それらの写真は単に「現在」を写したものと見えたのではないだろうか。

ツアーパフォーマンスの観客もまた、現在の磁場から逃れることはできない。受付でラジオとポストカードを受け取った私が最初のポイントで出会うのは、防護服を来たジャーナリストと思われる人物が鏡に向き合うかたちで自分を撮影した写真だ。浪江の文字が刻まれた鏡越しには住民が避難した後と思しき民家の光景が見える。写真が置かれたカメラ屋のショーウインドウは奥の壁面が鏡になっていて、写真を見る私は自然と写真の人物と同じように鏡に対峙することになる。そこに映し出されるのは写真の人物と同じようにマスクをした私自身の姿だ。このことは、報道写真に写る光景と2021年現在の私を取り巻く状況との「類似」を強烈に印象づける。ラジオから聞こえる「目に見えない」「触れるのも余計なこと」などの言葉がさらにその印象を強化する。放射能について述べたものであるはずのそれらの言葉を現在の自分を取り巻く状況に引きつけるほどに、福島第一原発事故は遠ざかる。

今回の再演では内幸町広場は立ち止まるポイントに指定されていなかった。第3のポイントに向かう私は最短経路ではなく、マップの指示通りに大回りのルートを通る。かつて大勢の警備員を目撃した東京電力本社前を通り過ぎ、福島の遠さに愕然とした内幸町広場を通り抜ける。そうやって「通り過ぎさせられる」ことで私は、通り過ぎてしまったことすら意識してこなかった場所を、時間を、ものごとを思う。

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]

© シアターコモンズ ’21[撮影:佐藤駿]


『光のない。─エピローグ?』:https://theatercommons.tokyo/program/akira_takayama/
Port B:http://portb.net/

2021/03/06(土)(山﨑健太)

フロレンティナ・ホルツィンガー『Apollon』上映会

会期:2021/03/05~2021/03/06

ロームシアター京都[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRINGの公式プログラム。コロナ禍を受けて映像上映会となったが、作品の熱量をあますところなく見せつけた。

釘や刃物を身体に突き刺す、剣を飲み込むなどの芸を見せるサイドショー(見世物)×バレエ×マシン・トレーニング×ボディビル×ロデオ・マシンにまたがるエロティックなパフォーマンス×スプラッター×緊縛・SMプレイ×自傷行為×スカトロの融合。タトゥーやピアッシングなど身体改造、肉体を鍛え上げることと破壊すること、痛みと渾然一体の快感とそれを眺める消費の快楽のありとあらゆる実例が、全裸の女性パフォーマー6人によって次々と展開されていく。悪趣味なエログロの極みのような作品だが、その根底には、(女性の)身体が「規範的な美」「エロスの対象」として消費されることへの抵抗という強靭な知性が支えている。

自身も出演するフロレンティナ・ホルツィンガーは、ウィーン出身の気鋭の振付家。サドやバタイユといった「タブーの侵犯と快楽」をめぐる思想的系譜と同時に、「裸体の饗宴による血と痛みとエロティシズムの祭儀」という性質は、ウィーン・アクショニズムの系譜上にあると言える。そこに、『スター・ウォーズ』の引用などポップカルチャーやサイドショーの要素を総動員しつつ、ウィーン・アクショニズムの男性作家たちにおいて看過されてきたジェンダーの問題を問い直す点に、ホルツィンガーの企図と意義がある。


冒頭、タトゥーの入った全裸の肉体を晒した女性パフォーマーが登場し、長い釘を舌で舐め、ハンマーで叩いて鼻の穴の奥へと貫通させていく。その後ろでは、同様に全裸の女性2人が、ウォーキング・マシンの上で淡々と歩行に従事している。鼻、すなわち「穴」の中へ侵入する「釘」は疑似的なペニスであり、薄ピンク色の細長いバルーンを指でしごきながら喉の奥へ押し込んで飲み込む、尖った剣を飲むといった芸が、疑似的なセックスとして幾度も反復される(飲み込んだバルーンがしぼんだ塊となって肛門から引っ張り出される芸は、後半の排泄芸とスカトロを予告する)。舞台中央には、雄牛をかたどったロデオ・マシンが鎮座し、全裸でまたがった女性たちがエロティックに腰をくねらせている。別の女性パフォーマー2名が相対し、バーベルを持ち上げ、ボディビルダーよろしくポーズを決め、アクロバティックな組体操を見せる。中盤では、首にロープをかけて宙吊りになる危険な曲芸の練習が繰り返され、その両脇では、トウシューズを履いてポワント(爪先立ち)で長時間足踏みをし続ける女性たちが、苦痛の表情は一切見せず、なまめかしくも力強いポーズを彫像のように取り続ける。スポーツやバレエというスペクタクルがはらむ、「視線に供せられる」身体とその消費。その「高尚さ」が、サーカスの曲芸やフリークショーと同質であることを、本作は淡々と暴き出す。



[Photo by Radovan Dranga]


皮下注射針を腕に貫通させ、先端に挿したロウソクに火をつけた「人間バースデーケーキ」が歌い踊る、緊縛プレイ、血しぶき舞う自傷とスプラッター、ガラス瓶への排泄、その黒い固形物を皆で食べるスカトロプレイを経て、終盤では、裸身に降りかかる火花をものともせず、雄牛をかたどったロデオ・マシンをチェーンソーで斬り、解体する。剥き出しになった機械の上にまたがり、なおも腰を振るパフォーマー。女王のように君臨する彼女の周りに、互いの肛門に指を突っ込んで列をなしたほかのパフォーマーが集まり、勝利と栄光のポーズを決め、幕となる。



[Photo by Radovan Dranga]




[Photo by Radovan Dranga]


上演中、舞台中央で玉座のように鎮座し続ける「角の生えた雄牛」は、ゼウスの化身であり、女性をまたがらせて快楽を与え続けるロデオ・マシンは男根の謂いである。舞台上では不在であるからこそ、支配力を及ぼし続ける男性性の象徴。それは、本作中の台詞でも「バランシンをともに倒すのだ」と言われるように、『アポロ』(1928)を振付け、バレエ界に父として君臨するジョージ・バランシンも示唆する。その雄牛=神=男性性の象徴=「父」としてのバランシンを文字通り解体し、「ハリボテ」であることを暴くために、ありとあらゆる「逸脱的」な快楽のプレイが延々と召喚され続けていたのだ。冒頭の前口上で「紳士淑女、そしてその中間にいるすべての皆さん」と呼びかけていたように、本作はまた、規範的なジェンダーの境界にも攪乱を仕掛ける。ピンマイクに仕掛けた変声機で「低い男声」に変換してしゃべり、口ひげを付けたパフォーマーたちは、ドラァグクイーンやクィアなパフォーマンスを想起させる。「男性の性の対象」および「生殖に結びついた正常な性愛」に対する反旗が、最終的に「性別のない機械」とのセックスを称揚するという提示自体は(見かけのショッキングさに反して)じつは妥当だとも言えるが、女性の肉体の強靭さと「舞台上のパフォーマー自身が主体的に楽しむんだ」という強い意志が、爽快さと圧倒的な熱量をたたえていた。



[Photo by Radovan Dranga]


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING:https://kyoto-ex.jp

2021/03/06(土)(高嶋慈)

百瀬文『鍼を打つ』

会期:2021/03/06~2021/03/10

SHIBAURA HOUSE 5F[東京都]

「喉の奥に痛みがある」「頭痛がある」「ため息が多い」「頭の中が雲で覆われているような気分になることがある」「平熱が37.0°C以上である」。問診票の言葉を読む私は一行ごとに「さてどうだろうか」と自分自身の状態を省みる。即答できる項目もあればしばしの検討を要するものもあり、あるいはときにそんなことは考えたこともなかったという予想外の問いが含まれていたりもする。それらは普段は意識していない「自分」の姿を浮かび上がらせる。

百瀬文『鍼を打つ』のメインビジュアルとして使用されていたイラストには、水に浮かんだ裸体のあちこちにピンが刺さっている様子が描かれていた。それはもちろん鍼の施術を思わせるものではあるのだが、水面からのぞく体の部分は同時に海に浮かぶ島のようでもあり、イラストの全体が地図のようにも見えてくる。小さな赤い球体を頭につけたピンは地図上の一点を指し示す印だ。だとすれば鍼の施術は、問診票によって把握された「状態」を人体へとマッピングしていく作業だということになるだろう。問診票の言葉は私の体の任意の点へと変換され(実際には単純な一対一の対応ではないのだろうが)、鍼によってそこには印が刻まれていく。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

『鍼を打つ』ではまず、6枚の問診票に回答するように言われる。冒頭に記したのはその最初の五つだ。「問い」の多くは体調や生活習慣に関する一般的なものだが、なかには「よく黒い服を好んで着る」「他人に迷惑をかけてはならないと強く思う」など、鍼治療にどのように関わるのかよくわからない問いも含まれている。「過去と未来を行き来している」「時間をかけてようやく思い出す」などに至っては意味も判然としないが、いずれにせよ私は当てはまるものにチェックマークをつけていく。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

ひと通り回答を終えると施術台に置かれたイヤフォンを装着し、鍼師が来るのを待つ。しばらくするとイヤフォンから声が聞こえてくる。それは先ほど私が記入した問診票の言葉だ。しかし語られる順序は問診票のそれとは違っている。「心臓がドキドキすることがある」「風邪をひきやすい」「咳が止まらなくなることがある」。やがて鍼師がやってきて、横たわるよう促され施術が始まる。声はときに沈黙を挟みながら、施術が終わるまで淡々と続く。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

問診票では一行ずつ独立していた言葉たちは、異なる順序で語られることでときに物語のようなものを浮かび上がらせる。「視界がぼやける」「かつて海にいたことがある」「耳がつまり、くぐもって聞こえることがある」「ものの輪郭より、色のかたまりがまず先に見える」「国境はなくてもいいと思う」あたりは海中の世界を思わせるし、「地図がないと道がわからない」「点と点のあいだに線を結びたがる」「大地が揺れているように感じる」「歯がぐらぐらする」という言葉の連なりは地図を媒介に大地と私の身体の感覚とを直結させる。

しかしそのような連想はあくまで事後的に生じたものに過ぎない。声に耳を傾けているその瞬間ごとの私にできるのは、「問い」の一つひとつに改めて向き合うことだけだ。私はすでに、いくつかの「問い」に対してどのように答えたかを忘れてしまっていることに気づく。答えた記憶さえない「問い」もある。私は声が語り直す問診票の言葉に導かれ、すでに失われてしまった少し前の私を探しているような気分になる。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]

鍼を初めて体験する私はひどく緊張していて、施術箇所に意識を集中するあまり、気づけばしばしば声の語る言葉を聞き逃している。その都度、意識を声へと向け直すのだが、すると今度は体への意識が疎かになり、いつしか施術箇所は移っている。『鍼を打つ』はそのような、声への意識と体への意識の綱引きの体験として私には感覚された。

ところで、問診票の言葉は厳密には「問い」ではない。誰かによって用意されたその言葉は疑問文ではなく、断定のかたちで書かれていた。問診票はその形式によってそこに記された平叙文に「問い」としての機能を付与する。だが、声によって語られる言葉をそのまま受け取るならば、主語こそ欠落してはいるもののむしろそれゆえに、それは声自身についての言明として解釈されるはずだ。「他人が何を考えているのかわからないことが多い」「青あざができやすい」「特定の職業に対する偏見がある」。自問自答を引き起こす私への問診は、一方で見知らぬ誰かと同調するポイントを探る作業でもある。

誰かによって用意された問診票の言葉は私のすべてを把握するにはまったく十分ではなく、そうして捉えられる私の姿は夜空の星を結ぶことで浮かび上がる星座程度の解像度しかない。だが一方で、それはたしかに私には見えていなかった私自身の一端を示してもいるのだ。「他者がいなければ自分のかたちを決められない」。「上から自分を見下ろしているような気分だ」。声は最後に私を突き放す。「時間をかけてようやく思い出す」。「これは自分の体ではない」。

[©シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿]


『鍼を打つ』:https://theatercommons.tokyo/program/aya_momose/
百瀬文:http://ayamomose.com/


関連レビュー

百瀬文「I.C.A.N.S.E.E.Y.O.U.」|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年02月01日号)

2021/03/06(土)(山﨑健太)