artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

あごうさとし×能政夕介『フリー/アナウンサー』

会期:2021/06/23~2021/06/25

THEATRE E9 KYOTO[京都府]

俳優とは異なる領域で「声」に関わる仕事をする「アナウンサー」という存在を、実際に舞台の上に乗せた演劇作品。劇場が位置する東九条に近年引っ越したフリーアナウンサーの能政夕介が出演する。演出はあごうさとし。日本のアナウンスの歴史を辿りつつ、能政自身の個人史、スポーツ実況中継やコミュニケーション講座の実演、「アナウンサー」の仕事に対する思いを織り交ぜ、東九条という地域の実況的な語りが交差していく重層的な構成は、ドキュメンタリー演劇的でもある。

序盤では、1925年に日本で最初に放送されたラジオ放送「あーあー、聞こえますか?こちらは東京放送局であります」に始まり、1930年代、50年代、60年代と時代を辿って2020年代まで、炭坑事故、大阪万博、半導体の輸出戦争、バブル崩壊、BSデジタル放送開始、パンデミックなど時代を象徴するニュースが、当時の発声の抑揚やスピード感を再現して読み上げられていく。戦前から戦後にかけては、語尾を上げた調子で畳みかけるような発声が特徴で、日本語だが異質に聞こえる。



[撮影:金サジ]



[撮影:金サジ]


次に、一転して能政は、普段のスポーツ実況中継を実演しつつ、仕事上の心がけや普段は表に出さない思いを語っていく。どちらのチームにも偏らないバランスを心がけていること。特に声が良いわけでもキャラの面白さが強みでもない自分は、現場で一歩引いて気を配る役割に徹していること。「情報を正しく伝える」だけで良いのかという自問。SNS上での視聴者からの一方的な批判。そこに「対等な関係」はないという苦い思い。

中盤では、東九条を歩いて見える風景が、実況的に素描されていく。フェンスで囲われた空き地、路上に放置された車。再開発による新しい景色と古い歴史が重なり合った土地だと能政は言う。路上で拾った、公園の整備に関する住民アンケートの紙と、多様な住民の声。過去の(負の)歴史を切り捨てず、未来を開拓することは両立するのか。後半では、1978年の京都市による「世界文化自由都市宣言」が祈願の舞いの奉納のように読み上げられ、京都市立芸術大学の移転に伴って進む再開発と新たな文化芸術の発信地となることへの期待が込められる。スーツ姿に樹木が絡み付いた能政自身が「ご神木」となり、この町を末永く見守るというラストシーンだ。



[撮影:金サジ]


本作が秀逸なのは、「声(とその抑圧)」をめぐる重層性のなかに、回復への希求を込める点にある。媒介者である「アナウンサー」は、感情や自己主張を出してはならない(能政自身が語るように、ネットで叩かれてしまう)。「全体のバランスを重視し、空気を読み、自分を出さない」という仕事上の指針は、個人の声を封殺する日本社会、そしてコロナ禍で子どもの声が消えた公園の風景とも重なり合う。繰り返される「聞こえますか?」という呼びかけは、「アナウンサー/視聴者」の一方的な関係を超えた、対話への切実な希求だ。

「声」を公共に届ける仕事だが、個人としての「声」を奪われた存在としてのジレンマは、自身の思いを吐露していく終盤で一気に解放されていく。そこでは、中盤で実演された「コミュニケーション講座」がリテラルに実践される。「自分が何を言いたいのか」の自己理解が最も重要であり、スキル(滑舌)はあくまでその上に乗っかるものに過ぎないと述べていた能政。「何を考えているのかわからないからこそ、互いを知るために、対話と問いかけていくことが必要だ」と自身の考えを語りながら、アナウンサーとして日々鍛えているスキル(滑舌)を自ら手放していく姿は、感動的ですらある。「濁りなき」を文字通り濁点を消し去り、「私はにこりなきフリーアナウンサーの能政夕介てす」と、濁点の消えた日本語で語り続ける能政。「正しい日本語の発音」という規範や抑圧から解放され、「フリー」になった「アナウンサー」は、私たちにとって未知の、だが力強い言葉で、対話への希求を投げかけ続けるのだ。

2021/06/24(木)(高嶋慈)

ほろびて『あるこくはく [extra track]』

会期:2021/06/19~2021/06/22

SCOOL[東京都]

5月の第11回せんがわ劇場演劇コンクールでグランプリ、劇作家賞(細川洋平)、俳優賞(吉増裕士)を受賞したほろびての短編『あるこくはく』が、新作短編『[extra track]』を加えた二本立て公演『あるこくはく [extra track]』としてSCOOLで上演された。

第11回せんがわ劇場演劇コンクールは新型コロナウイルス感染症拡大の影響を受け、劇場での一般観覧を中止。私は配信でコンクールの様子を視聴したが、解像度も十分とは言えない引きの固定カメラを通しての映像は大いに物足りないものだった。また、日本では短編演劇作品を上演する機会はきわめて限られており、このようなコンクールで上演された短編はしばしばその後、二度と日の目を見ないままに終わってしまう。グランプリ受賞作の生での観劇の機会を提供するという意味でも、短編作品の上演機会を創出するという意味でも、今回のほろびての公演には大きな意義があったと言えるだろう。


[撮影:渡邊綾人]


『あるこくはく』は愛海(鈴政ゲン)が恋人(藤代太一)を連れて実家の父(吉増)を訪ねる話。ところがその恋人というのは石で──。家の中に突如として線が出現する『ぼうだあ』、人を操るコントローラーが日常を狂わせていく『コンとロール』と同じく、ひとつの奇妙な設定を起点に物語は極めてシリアスな主題を展開していく。

定石通り、父は娘の結婚を認めようとしない。恋人が石であるということに最初は戸惑う父だったが、やがて怒り出し、「日本の憲法では石に人権は与えられてないし日本国民にもなってない」と言い放ったうえ「石蹴り」と称して石を蹴りつける。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


藤代演ずる石は石の被りものをすることで石であることを表現しているが、しかし見た目はもちろん人間である(これはどうやら物語の設定上もそうらしい)。ゆえに、父の行動は暴力を伴なう直球の差別に見える。だが、恋人が石であるというあまりに奇妙な設定は、私にそれを差別だと断じることを僅かにためらわせる。石だったらそれはまあ蹴ってもよいのでは……?

ここに、人間が石を演じるという企みのねらいがあるだろう。「差別をしてはいけない」という当然のことをお題目として反復するだけではそれを演劇としてやる意味はない。実際に差別をしていてもそれを差別と認識していない人、「差別をしてはいけない」と思っている人は多くいるはずだ。むしろ、だからこそ差別はなくならない。おそらく、ただの石を蹴ることに抵抗を覚える人はほとんどいない。だがこれが虫だったら? 人形だったら? あるいは、舞台上で蹴られているのが本物の石だったら私はそこで起きていることを差別だと断じることができただろうか?

結局、父は付き合いを認めず、愛海も一度距離を置こうと言い出す。彼女は「先に進むための考え」として「石が人間になる」ことを提案しもするが、それが石にとってはアイデンティティの放棄を意味することには無頓着だ。ここにも無意識の差別があり、石は深く傷ついてしまう。一方、石が人間になるといういかにも荒唐無稽な提案は、ではどのようなアイデンティティならば自らの意思で変えることができるのかという問いを私に突きつける。

ところで、この物語には登場人物がもうひとりいる。三者の対面の場に同席しながら、しかしその存在を無視され続ける女(橋本つむぎ)は、実は愛海にしか見えていないらしい。終盤になってようやく、四葉と呼ばれるその女が愛海の(あるいは父の?)祖母の妹であること、関東大震災のときに避難した先で石を投げつけられて亡くなっていたことが明らかになる。「わたしはそこで、日本人じゃなかったみたいで」という言葉からは彼女が朝鮮人だと思われて(事実そうだった可能性もある)石を投げられたらしきことが推察される。その意識はなくとも、石もまたかつて差別に「加担」し、愛海の血縁の命を奪っていたのだ。

石と四葉が愛海を介して手を伸ばし合い、「はじめまして」と自己紹介を交わすところでこの作品は終わる。父の態度は過去の経緯に起因するものだろうか。だが、死者の姿をきちんと見ているのは父ではなく愛海の方だ。最後に手を伸ばし合う二人とその手探りを仲介する愛海の姿には、そこに未だ困難があるとしても、希望を見たい。


[撮影:渡邊綾人]


『[extra track]』は『あるこくはく』と同じ4人の俳優が順にモノローグを語っていく構成の作品。マチュピチュ、バンコク、阿佐ヶ谷と異なる場所について語る人物はそれぞれの場所で「石」を拾い、次の語り手となる俳優に手渡していく。語り手となる俳優は代わっていくが、そこで語られているのは連続した「私」であるようにも思われる。

最後のひとりは「残した記録を消すことを命じられ」「もうこのような仕事を続けられないために、命を終える」と語る。だが、それは「語り手とは違う、文字としての『私』」なのだと。2番目の語り手は、自殺した大学時代の同級生の葬式に出向きながら、線香も上げずに帰ってきてしまったと語っていた。3番目に語られる、阿佐ヶ谷で石を拾ったという「私」は「あるこくはく」の愛海のようでもある。世界を構成する無数の「私」は異なっていて、しかしどこかでつながっている。そのそれぞれが無意識に積み重ね手渡したイシが、投擲された石のごとくひとりの「私」の命を奪う。だが同じように、言葉に宿るイシは、俳優を介して観客である私にも届けられてもいる。財務省の決裁文書改竄に関与させられ自殺した近畿財務局の赤木俊夫氏が遺した「赤木ファイル」が開示され遺族のもとに届けられたのはこの公演の最終日、2021年6月22日のことだった。


[撮影:渡邊綾人]


[撮影:渡邊綾人]


10月27日(水)からはほろびての新作『ポロポロ、に(仮)』がBUoYで、8月5日からは細川が戯曲を書き下ろしたさいたまネクスト・シアター『雨花のけもの』が彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演される。


ほろびて:https://horobite.com/
第11回せんがわ劇場コンクール:https://www.chofu-culture-community.org/events/archives/456


関連レビュー

ほろびて『コンとロール』|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2021/06/22(火)(山﨑健太)

イキウメ『外の道』

会期:2021/05/28~2021/06/20

シアタートラム[東京都]

劇作家・前川知大の、そして劇団イキウメの新たな代表作が誕生した。

二十数年ぶりに再会を果たした寺泊満(安井順平)と山鳥芽衣(池谷のぶえ)。偶然にも同じ町内に住んでいたことに驚きつつ近況を報告し合う二人は、それぞれに不可思議な事態に巻き込まれていた。

二人が住む金輪町には県外からも客が訪れるほどの人気でなかなか予約がとれない喫茶店がある。客の目当てはマスター(森下創)の手品。海外の一流マジシャンにも引けを取らない彼の手品だったが、しかしそのいくつかはあまりにも現実離れしていた。客の500円玉を未開封のコーラ瓶にするりと差し入れてしまう手品を見た寺泊は、かつてあるパーティーで目撃した政治家の死を思い出す。パーティーの最中、突然倒れてそのまま亡くなった政治家の脳からは、会場に用意されていたビール瓶の欠片が見つかったらしい。外傷はなし。寺泊はふと思う。あれはもしかしてこのマスターの仕業ではなかったか。タネを教えてくれと迫る寺泊にマスターは、タネも仕掛けもない、あるのは「世界の仕組み」だけだと答える。自分には分子レベルの物質の隙間を見通す目があるのだと。寺泊はその言葉に取り憑かれたかのようになり、以来、妻(豊田エリー)が以前とは別人のような輝きをまとって見えるようになる。いや、妻だけではない。世界のすべてが違って見える。やがて寺泊は宅配便ドライバーの仕事で誤配を繰り返すようになり──。


[撮影:田中亜紀]


一方、山鳥はある日、品名に「無」と書かれた宅配便を受け取る。開けた段ボール箱の中身は空っぽ。数日後、山鳥は自分の部屋に不自然な暗闇の塊のようなものがあることに気づく。日に日に広がっていく闇に部屋は飲み込まれ、足を踏み入れた山鳥は暗闇を彷徨う。やがて闇に朝日が射し込むと、山鳥は見知らぬビルの屋上に全裸で立っていた。さらに、闇に飲まれた自室に突然、見知らぬ少年(大窪人衛)が現われる。驚いた山鳥が呼んだ警察はしかし、三太と名乗るその少年は山鳥の息子だと言い出す。山鳥は上司で恋人の行政書士・日比野(盛隆二)に助けを求めるが、卒業アルバムや写真など、三太の存在を証明する記録は無数に存在し、挙句には山鳥と三太が5年前に養子縁組をした記録までもが発見されるのだった。それでも三太との関係を否定し続ける山鳥と周囲の人々との間には溝ができはじめ──。


[撮影:田中亜紀]


それぞれに無関係に展開する寺泊と山鳥の物語はしかし、世界がそれまでとは異なる仕方で見えるようになってしまった者の末路を描いている点において共通している。居場所を失った二人はいまいる世界に「限界なのよ」と見切りをつけ「ここを出る」ために暗闇へと踏み出す。狂っているのは二人か世界か。誰がそれをジャッジできるのか。


[撮影:田中亜紀]


二人が語るさまざまな場面はすべて、打ち捨てられたホテルのラウンジのような舞台美術(土岐研一)の中で演じられ、俳優は全員がつねに舞台上にいる。主役の二人の語りに合わせてほかの俳優たちは役を演じ、群衆となり、あるいは舞台美術のような役割を果たしながら物語を進行させていく。語りの主体は寺泊=安井と山鳥=池谷のはずだが、ときにほかの俳優たちまでもが寺泊や山鳥であるかのように物語を紡ぐ。あるいは、その他者の語りこそが舞台上に寺泊と山鳥を存在せしめ、世界をそのようにあらしめているとしたら。ある人物の存在は、そして世界の存在は何によって保証されるのか。物語の問いと演劇としての表現は分かちがたく結びついている。

暗闇に踏み出した二人は無から新たな、美しい世界をつくり出そうと想像する。やがて舞台奥の窓いっぱいに射し込む光。舞台上の、どこにも行けない閉じられた世界。その外に光は広がっている。闇をくぐり抜けて光を見るのは寺泊と山鳥だけではない。バトンは観客に手渡された。閉じられた劇場から外の世界へ。舞台上にさまざまな光景を描き出した想像力で、世界の未来を描くことはできるだろうか。SFのようでも、ホラーのようでも、不条理劇のようでもサイコスリラーのようでもあるこの作品は、狂気のような正気でもって世界と対峙し変革しようとする者たちの物語だ。


[撮影:田中亜紀]


今作にはもともと、2020年の5月から予定されていた公演がコロナ禍により中止となり、代わりに実施されたワークインプログレスを経て今回の公演が実現したという経緯がある。公演延期は苦渋の決断だったと思われるが、ワークインプログレスを経ての創作は十二分に実を結んだと言えるだろう。ウェブサイトではワークインプログレスの様子や台本の一部、各種設定やイキウメの代表作である『太陽』『獣の柱』の映像も公開されており、より深く、あるいは初めてイキウメワールドに触れるには最適のガイドとなっている。

なお、本作は7月3日(土)には穂の国とよはし芸術劇場での、11日(日)には北九州芸術劇場での上演が予定されている。


イキウメ:https://www.ikiume.jp/
『外の道』W.I.P.:https://sotonomichi.jp/

2021/06/01(火)(山﨑健太)

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

シンガポールを拠点とするアーティスト、ホー・ツーニェンの新作《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》は3対6面のスクリーンとVRによって構成されるインスタレーション。そこで扱われるのは哲学者の西田幾多郎や田辺元を中心に形成され、1930年代から40年代の日本の思想界で大きな影響力を持った「京都学派」の哲学者に関連するいくつかのテクストだ。

会場は「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」の四つの空間に分かれており、観客は最初の三つの空間でそれぞれ一対の映像を鑑賞したあと、「座禅室」でのVR体験に臨む。「座禅室」は蝶番のような役割を果たしており、VR空間内にはもうひと組の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」が待っている。観客はスクリーンで鑑賞した映像のなかにVRを介して入っていくことになる。


会場の様子[撮影:三嶋一路/写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


「座禅室」でヘッドマウントディスプレイを装着し床に座った観客はまず、VR空間内の「座禅室」へと誘われる。そのまま動かずにいると「座禅室」の風景が続くが、座ったまま身動きすると空間は「左阿彌の茶室」へと移り、立ち上がればゆっくりと「空」へと上昇、横たわれば「監獄」へと沈んでいく。観客の動きや姿勢が空間の移動をもたらし、その移動する先々で観客は哲学者たちの「声」に耳を傾ける。

「声」といってもそれは哲学者たちの肉声ではなく、彼らが遺したテクストを現代の人間が読み上げたものだ。現実空間の「左阿彌の茶室」「監獄」「空」ではそれぞれ、VR空間で読み上げられることになるテクストの背景が説明されているのだが、それらはすべて、声と字幕による次のようなナレーションで始まる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」。

一体どういう意味だろうか、と思っている間に説明は「この作品では、アジアにおける日本の軍事行動が激化した1930年代から40年代にある日本の知識人グループが生み出したいくつかの理論的テクストを舞台に上げます。読んでいただくのは」と続き、どうやらこれを聞く「私」(?)は何らかのテクストを読むことになっているらしいことが了解される。「左阿彌の茶室」で重なり合う2枚のスクリーンではそれぞれ1941年に西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高によって実施された座談会「世界史的立場と日本」と西田幾多郎『日本文化の問題』が、「監獄」で背中合わせになった2枚のスクリーンでは三木清『支那事変の世界史的意義』と戸坂潤『平和論の考察』が、向かい合う2枚のスクリーンによって構成される「空」では田辺元『死生』が「読んでいただく」テクストとして示され、それぞれの背景の説明が続く。


VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


なぜテクストを読むのかという疑問に答えは与えられぬまま、観客は「左阿彌の茶室」から「監獄」を経て「空」へと至り、「座禅室」のVRで哲学者たちの「声」を聞くことでようやく、自分がこれまで聞いてきたものが「声優」への指示だったのではないかと思い当たる。「左阿彌の茶室」「監獄」「空」の映像作品はその意味でも「座禅室」のVR作品の「背景」を見せるものになっているのだ。そう考えると、現実の「座禅室」で観客が見るべきものはVRではなく、ヘッドマウントディスプレイを装着して現実を遮断し、VRに没頭して奇妙なふるまいを見せるほかの観客の姿なのかもしれない。


会場の様子[撮影:三嶋一路/写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


スクリーンの「左阿彌の茶室」「監獄」「空」で指示されるテクストは(スクリーンでは「左阿彌の茶室」に登場した西田幾多郎『日本文化の問題』がVRでは「座禅室」で読み上げられることを除けば)、VR内のそれぞれ対応する空間で読み上げられているのだが、しかし同時に、観客の立ち位置は奇妙にスライドし、二重化されることになる。当然ながら、実際には観客はそれらのテクストを読み上げることはなく、聞き手の位置に留め置かれるからだ。

聞き手といってもその内実はさまざまだ。「監獄」で観客は独房に横たわり隣室から聞こえてくるらしい二人の哲学者、三木と戸坂の声に耳を傾ける囚人となる。「空」に昇った観客はモスグリーンの機体に赤いモノアイの(量産型ザクを思わせる)ロボットの群に囲まれ、気づけばその一体となって同じ方向へと向かっている。学徒動員が拡大されようとするなか京都帝国大学の公開講座として実施された田辺元『死生』を聞くうち、ロボットの機体はゆっくりと分解していき、私の(機)体もまた、宙に舞う塵のように消えていく。


会場の様子[撮影:三嶋一路/写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


「左阿彌の茶室」での観客は座談会「世界史的立場と日本」に速記者として立ち合った大家益造の立場に置かれ、卓上の紙に筆記をしている(ように観客が手を動かす)間は座談会の声が聞こえてくる。だが、その手を止めると、今度は大家自身が1971年になって発表した歌集『アジアの砂』から引用された短歌を読み上げる声が聞こえてくる。読み上げられる短歌のなかには戦時を振り返ったものも多く含まれており、戦争を正当化しようとする「世界史的立場と日本」との対比は痛烈なアイロニーをなす。

映像作品のなかには『アジアの砂』に関する情報も含まれているため、短歌を聞く観客はすぐにそれが大家自身の「声」だと気づくことになるだろう。だが奇妙なことに、作中で大家に「声」を提供した「声優」に「この作品に声を貸してくださることに感謝します」という言葉が捧げられることはない。そもそも、大家はすでに速記者として自らは沈黙し、哲学者たちの言葉を届けるというかたちで「声を貸し」ている。「声を貸」すものは自らの言葉を奪われるのだ。では、この作品に立ち会い現在を生きる観客はどうか。


会場の様子[撮影:三嶋一路/写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


さて、この作品には「声」を提供しながら謝辞を捧げられていない人物がもうひとりいる。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」と語る当の本人である。文脈を考えればこれは作家自身の言葉だが、それが観客に届くまでには翻訳者と「声優」が介在している。透明化されたその存在は、しかし言うまでもなく「透明」ではあり得ないということも指摘しておかなければならないだろう。作家の来日が不可能になったためフルリモートで制作されたという《ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声》には、さらに多くの「透明」な存在が介在している。


公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2021/voice-of-void/


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ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)

2021/05/16(日)(山﨑健太)

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アカシアの雨が降る時、ファーザー

認知症をめぐる2つの対照的な作品に出会った。ひとつは鴻上尚史作・演出『アカシアの雨が降る時』(六本木トリコロールシアター)、もうひとつはアンソニー・ホプキンズが第93回アカデミー主演男優賞を受賞した映画『ファーザー』である。

前者の演劇は、認知症になり、反ベトナム戦争が盛んだった1972年の20歳のときに戻った祖母の妄想を否定しないために、孫が恋人(=祖父)役を、息子であることが忘れられた父も他のさまざまな役を演じる悲喜劇だ。正直、横浜の村雨橋でアメリカ軍の戦車をしばらく通さないことに成功した市民運動が実際に起きていたことを知らなかったが、社会や政治の問題に対する諦観の念が広がった現代の状況を踏まえると、この半世紀のあいだの日本の変容に批評的な作品にもなっている。

もっとも、それだけでは観客の心を動かすことはできない。むしろ、目標を喪失した孫と仕事に忙殺された父が、祖母の世界観にあわせるためのドタバタを通じて自分の人生を見つめ直し、一度は壊れてしまった家族の関係が再生する過程が描かれた、見事な物語だった。なお、タイトルは1960年の日米安保闘争時に流行した歌謡曲「アカシアの雨がやむとき」にちなみ、劇中ではハイライトで歌われる。

一方、後者の映画『ファーザー』は、父が認知症になる話だが、家族が再生するどころか、アンソニー・ホプキンズの怪演による哀しい物語だった。ポイントはやはり認知症になった父の視点から、時間が歪み、状況が不可解になっていく世界が描かれたことだろう。その結果、映画は謎が増幅してゆくサスペンス仕立てになり、ときにはホラーのようだ。

したがって、筆者が映画館で鑑賞したとき、冒頭の数分間にずっとおかしなノイズが左側から鳴り続け、それが館の機器の不調なのか、監督による音の演出なのか、わからなかった。普通の映画なら、トラブルだと断言できるのだが(以前、劇場で『デビルマン』を鑑賞したとき、途中から音が消え、しばらくたって上演中止となり、代金が払い戻されたことはある)、認知症の映画だと、当事者にこういうノイズが聞こえるという設定なのかもしれないと思い、結局よくわからなかったという恐るべき作品である。


舞台『アカシアの雨が降る時』
会期:2021/05/15~2021/06/13
会場:六本木トリコロールシアター
公式サイトhttp://www.thirdstage.com/tricolore-theater/acacia2021/

映画『ファーザー』
公式サイト:https://thefather.jp/

2021/05/16(日)(五十嵐太郎)