artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

福井裕孝『デスクトップ・シアター』

会期:2021/07/02~2021/07/04

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「デスクトップ・シアター」というタイトルを聞いて想起されるのは、Zoomや動画配信サービスを利用した「オンライン演劇」の四角い画面だろうか。だが本作は、劇場というフレームを問い直すことなく映像の再生フレームに移植しただけの多くの「オンライン演劇」の凡庸さとは異なり、通常は不可視の基底である「舞台のフレーム」それ自体を複層的に問う、優れてメタ演劇的な思考を提示していた。

会場に入ると、計7台の「テーブル」がコの字型に設置され、文庫本、小さな植物の鉢、動物や人型のフィギュア、マグカップ、ペットボトルなどが置かれている。観客はテーブルの外側に「着席」し、アクティングエリアとなるコの字型の内側の空間およびテーブル上で行なわれる、「もの」と出演者のふるまいとの交差を目撃することになる。ここで「テーブル」は、アクティングエリア/観客の領域を区切る境界であると同時に、両者が共有する界面でもあり、両義的な機能を帯びている。



[撮影:中谷利明]


出演者たちは無言で1人ずつテーブルにつき、日常的な/日常を逸脱した「もの」の使用と再配置に興じはじめる。几帳面に整列されていく「もの」たちは街路の整備や拡張を思わせ、角を揃えて積み上げられる本のタワーもまた、擬似的な街並みを形成し、仮構的な「風景」を出現させる。ペットボトルやマグカップ(=建物)、小さな鉢植え(=街路樹)、ミニカー、人型のフィギュアのあいだを縫って、紙袋をゆっくりと移動させていく、ヘルメットを被った男がいる。「Uber Eatsです」という静寂を破る声は、彼が仮構された街を進む配達員であったことを明かす。「テーブル」=舞台、もの=俳優や舞台美術、ものを動かす人間=黒子や演出家によって、「擬態」としての演劇と、それを支える不可視の基底面の露出がまずは提示される(ただし、テーブルの縁に沿って交互に差し出される人差し指と中指が演じる「フィンガー・シアター」や、出演者に実際の「黒子」が混ざる事態は、この単純な図式を攪乱させる)。加えて、複数のテーブルで同時並行的に「出来事」が進行することは、「視線の一点集中」という劇場機構の支配的力学に対するアンチとして機能する。一方、例えばテーブルの前の椅子に座って本を読む、トランプを並べて神経衰弱のゲームをするなど、「テーブル」それ自体も、「概念としての舞台」と「日常的な使用」とのあいだを曖昧に揺れ動く。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


静謐な進行に秘かに亀裂を入れるのは、モノローグの挿入だ。ひとりの出演者が、「壊れた旧式の電気コンロの上に、新しく買ったIHコンロを置いて使用している」と語り出す。一見たわいのない日常的な話だが、「層構造」の示唆を端緒に、物理的な高低差においても「もの」の水平的な移動においても均質な水平レベルを保っていた「テーブル」のあいだに、レベル差が生じ始める。ローテーブルが持ち込まれ、「もの」はテーブル上から床の上へ降ろされ、垂直移動を開始する。ただし、「ものの置かれた秩序」は生真面目に厳密に保たれたままであり、「秩序の再インストール」が可視化される。食器やナイフ、フォークが配置されたテーブル上で語られる「テーブルマナー」についてのモノローグもまた、「テーブル=秩序・ルールが支配する場」であることを示唆する。

後半では、盤石で不動に見えた「テーブル」自体が分割され、切り離された一部が移動を開始する。それは本土から切り離された島か飛び地の領土のように空間の中に新たな位置を占め、床の上に再構築された「もの」の配置の上にも覆い被さる。一方、床ではなく、「テーブル」の上を歩いたり、「テーブル」の上に椅子を並べる者も現われ、テーブル/床の弁別が等価になり、垂直というレベル差がもつ階層秩序も攪乱・上書きされていく。



[撮影:中谷利明]


きわめて具体的な「もの」(テーブル自体も含む)を用いながら、抽象的なレベルにおいて、不可視の基底面の可視化、再物体化、水平/垂直のレベル移動、複層化とその弁別の攪乱、「秩序」の構築と解体の政治学を示した本作。終盤では、「床/ローテーブル/テーブル/床面として使用されるテーブル」のレベル差の複数性とその混乱は保持したまま、「日常の事物の秩序」が回復されていく。リュックを背負って現われた者に、ホテルの設備について説明するフロント係。飛沫防止のアクリル板が置かれたテーブル。マイムでパソコン作業する者。テーブルを挟んで椅子が並べられた、会議室の光景。

食卓の配膳、食器棚や本棚の並び順、デスク上の書類やパソコンの配置から「デスクトップ」上のアイコンの整列まで、私たちの日常生活は「もの」とその秩序化によって成り立ち、そこに微細な政治性が宿っている。それは微視的なレンズで見れば「日常の事物を構成する秩序」だが、より巨視的なレンズで抽象化すれば、「秩序のインストールや上書きによる、国家や共同体の成立/排除」へと変容する。福井は過去作『インテリア』においても、「部屋」という個人の私的領域における日常的な「もの」とその再配置を通じて、空間の私有化や(再)領土化の政治学を浮かび上がらせていた。興味深いことに『インテリア』では、「部屋の住人」のルーティンを規定する起点=中心が「テーブル」であったが、本作はさらに、この「テーブル」それ自体を入れ子状に「舞台」のメタファーとして扱い、垂直移動や分割といったより複雑な操作を通して、優れてメタ演劇的な省察を内蔵させていた。


関連レビュー

福井裕孝『インテリア』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年04月15日号)
福井裕孝『インテリア』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)

2021/07/04(日)(高嶋慈)

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声(後編)

会期:2021/04/03~2021/07/04

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

映像鑑賞後のVR体験空間では、鑑賞者は「茶室」「監獄」「空」そして「座禅室」の空間に入り込み、実際の音読を聴くことになる。4つのVR空間の移動は、「座る=茶室/座禅室」「横たわる=監獄」「立つ=空」というように、鑑賞者の身体の位相に連動する。加えて特筆すべきは、「VR空間への没入=身体と現在時の忘却」ではなく、「鑑賞」に身体的な負荷がかけられ続ける点だ。茶室での座談会の発言を聞くためには、不在化された「5人目の同席者」である「速記者」の身体となり、VRの鉛筆を握る右手を紙の上で動かし続けねばならない。手を止めると座談会の声は消え、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ歌集『アジアの砂』(1971)から、凄惨な戦場の光景や京都学派への辛辣な批判を詠んだ短歌が聴こえてくる。その凄惨さに身じろぎできずにいると、茶室の光景がすっと遠のき、無限に続くような「座禅室」が現われ、自らも座禅で思想鍛錬した西田幾多郎の講演を読む声が響いてくる。床に身を横たえると、汚れた床を蛆虫が這い回る狭い独房に閉じ込められた囚人となり、三木清と戸坂潤の言葉を読む声がそれぞれ左右から聴こえてくる。

「声」を聴く「私」は、次々と異なる身体に憑依し続ける。戦争を正当化する机上の論理を書き留める速記者の身体に、既に中国戦線を経験した彼の脳裏で響く悔恨のフラッシュバックに、超越的な時空間で沈思黙考する思想家に、自由を奪われた虜囚に。



会場の様子[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで、使用されたソースが、(戸坂をのぞき)「座談会や講演」すなわち元々は目の前の聴衆や対話相手に向けて肉声で語りかけた声であることと、映像内のナレーションで「出典情報」に言及していることに留意したい。(西田と田辺をのぞき)これらの講演やテクストは彼らの全集から除外され、座談会の収録本は復刻もなく、現在は一般に流通していない。ホーは、「かつて生身の身体から発せられた肉声」であり、「『戦争協力』として忘却された声」に、二重の意味で再び「声」を与える。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


この声の聴取と「憑依」体験が、メタVR論的な省察と交差する秀逸な極点が、「空」のVRである。ガンダムの「量産型ザク」を思わせる戦闘ロボットのモビルスーツを装着し、青い海上を駆ける「私」の周りでは、仲間の機体が次第にバラバラに分解し始める。視点を下に落とすと、「私」の機体も同様に分解し、ゆっくりと粉々の破片に粉砕され、死への怖れの克服と「国家のために死ぬとき、人は神となる」という田辺の講演が聴こえるなか、塵となって空に消えていく。もはや何もない虚空に浮かぶ、身体のない「私=特攻兵士」。「VR世界への没入=身体の一時的消滅」のリテラルな実践が、「英霊」になる擬似体験と戦慄的に重なり合う。「VRにおける身体の一時的消滅」について、「魂が浮遊する天上的空間での一種の臨死体験」と「拘束や重力の負荷」の落差を批評的に突きつける作品として、小泉明郎『縛られたプロメテウス』(2019)が想起されるが、本作にもVR自体に対するメタ的な批評性が胚胎する。



VR映像の一部[提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


ここで本作を別の角度から見ると、「アニメーションと戦争」という批評軸が浮上する。本作で「アニメーション」という形式が選択された理由として、戦争協力、ロボットアニメ、セル画の構造という複数の点が絡み合う。《旅館アポリア》でも、漫画家・横山隆一による海軍プロパガンダアニメーション映画『フクチャンの潜水艦』(1944)が引用されていたが、小資本の家内制手工業だった戦前の日本のアニメーション業界は、日中戦争勃発後に戦時色を強めるとともに、軍部の資本提供により産業化の土台が形成された。また、アジア太平洋戦争と「ロボットアニメ」(が描く虚構としての戦争の娯楽的消費)の批評的な重ね合わせとして、藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943)の死闘図の兵士たちを量産型ザクに置き換えた会田誠の《ザク(戦争画RETURNS 番外編)》(2005)が連想される。VR「空」と同様、「特攻」「玉砕」の美学が「量産型ザク=匿名の消費財」に置換されることで、「戦闘ロボットアニメが繰り広げる虚構の戦争」を娯楽として「消費」する私たち自身の眼差しこそがそこでは問われている。

一方、「セル画アニメ」の形式性への言及は、映像「左阿彌の茶室」の重なり合う2枚のスクリーンに顕著だ。セル画アニメは、背景やキャラクターが描かれた透明のセルを重ねる層構造で表現する。視点を斜めにズラすことで出現する「背景=茶室」のスクリーンと「別の視点の語り」は、歴史に対してつねに複層性と視差を持って眼差すことの重要性を指し示す。

このように本作は、単に一枚岩の「戦争協力」として糾弾するのではなく、戦争遂行の背後で駆動していた構造の力学をあぶり出し、アニメとVRという使用メディア自体に対する批評性とともに、複雑に交錯するその力学を立体的・身体的に展示空間に再インストールすることに成功していた。



会場の様子「左阿彌の茶室」[撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]]


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2021/07/03(土)(高嶋慈)

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TRASHMASTERS vol.34『黄色い叫び』

エル・パーク仙台 スタジオホール[宮城県]

同じ作品を東京でも見ることはできたのだが、東日本大震災を受けて、2011年4月に発表された作品の再演ということもあり、せっかくなので、仙台にいるタイミングで観劇した。同市では、チェルフィッチュでさえなかなか満席にならないので、観覧者を増やす意味もある。

さて物語は、台風が近づくなか、地方の公民館において青年団の会議が紛糾したあと、土砂崩れの発生によって事態が激変するという展開だ。当初、TRASHMASTERSでは3.11から10周年として、別の作品の上演も検討していたらしいが、セットが大がかりなため、『黄色い叫び』を選んだ。結果的に2021年の7月の出来事を予見したかのようだ。

まず、前半における青年団の会議では、災害の根本的な対策を主張する一部の意見を顧みず、町長の意向を受けながら、祭りを強行する決議がなされる。これはもともと復興のあり方をめぐる議論を踏まえたものなのだが、2021年という新しい特殊な状況下で、コロナ禍にもかかわらず、オリンピックという巨大な祭りに突進していく日本政府とぴったりと重なりあう。本来、意図しなかったことにもつなげて解釈できることは、演劇を含む表現の醍醐味であり、作品がもつ普遍性の証だろう。また7月は日本各地で集中豪雨が発生し、熱海が土石流災害に襲われたが、『黄色い叫び』の後半の展開を思い出した。なお、今回、長野県でも上演されたのは、2019年の千曲川氾濫という自然災害の地でもあるからだ。

『黄色い叫び』はポスト3.11の演劇だが、人の嫌らしさも込めた通常と違う角度からの視点が新鮮だった。特に後半において重症者が運びこまれたあとの、生と性がせめぎあう一連の展開は見所である。それはアフタートークでも述べていたように、災害のあと、作・演出の中津留章仁が石巻へボランティアにいった経験が大きいのだろう。メディアが切り取って見せたい被災地のステレオタイプのイメージと、それを凌駕する出来事が続出する現場。そこでは欲望が渦巻き、キレイゴトだけではないだろう。本作では、さまざまな矛盾を抱えたわれわれの姿が描き出されている。

TRASHMASTERS vol.34『黄色い叫び』:http://lcp.jp/trash/next.html

2021/06/30(水)(五十嵐太郎)

ロロ『とぶ』

会期:2021/06/26~2021/07/04

吉祥寺シアター[東京都]

「いつ高」シリーズのラストを飾るvol.10『とぶ』はなにもない空間からはじまる。上演前の10分間を使った舞台美術の仕込みも全国高等学校演劇コンクールの出場ルールに則ってつくられた「いつ高」シリーズの特徴のひとつだが、vol.9と2本立て上演されたvol.10の上演前の時間に仕込みは行なわれず、やがてそのなにもない空間が体育館のステージらしいことがわかってくる。客席側に広がっていると思しき運動エリアではバスケ部が練習をしているようだ。群青(板橋駿谷)がそれを眺めていると、そこに将門(亀島一徳)が机を運んでくる。それはどうやら映画の撮影の準備で、少しずつ運ばれてくる机によって舞台は教室へと姿を変えていく。「いつ高」という架空の高校を舞台にした青春群像劇連作演劇シリーズのおしまいは、演劇のはじまりをなぞるようにしてはじまる。


[撮影:伊原正美]


机を運んできた将門も一緒になってバスケ部の練習を眺めていると、二人の友人のシューマイがフリースローを決める。のみならず、将門が思いもしないほど飛んだりもしているらしい。それを見て「あんな飛ぶ人だっておもわなかった」と言う将門は「勝手に飛ばない人だって決めつけてた自分がすごい、やだ」とちょっと落ち込んでしまう。『とぶ』はそんな誰かの想像の外を象徴するようなタイトルで、群青が初めて舞台に登場し将門やシューマイらと過ごす時間を描いたvol.4『いつだって窓際でぼくたち』でも実はすでにキーワード(?)になっていた。シューマイの姿は舞台上にないが、将門が想像もしなかったその姿を観客はたしかに想像することになるだろう。

なりゆきから撮影の準備を手伝っていた群青は、将門からこのあと太郎(篠崎大悟)が来ると聞いて動揺してしまう。実は群青と太郎は中学時代、同じ「サイキック運動部」の部員同士だったのだ。いまもサイキック運動部に唯一の部員として所属する群青とは異なり、かつてのエースだった太郎は今はもうサイキック運動はやっておらず、一方的に気まずさを感じている群青は逃げるように去っていく。


[撮影:伊原正美]


やってきた太郎と将門は撮影に備えてセリフ合わせをはじめるもののなかなかしっくり来ない。「二人でおんなじ景色、想像できたらいいのかな」という将門の言葉をきっかけに、脚本に書かれた人物たちのことを想像しはじめる二人。しかしまだあと一歩、というところに不意に戻ってきた群青は「それでもサイキック運動部の元エース、テレパスの太郎かよ!」と太郎を挑発し、「ちょっと、みてろ」とサイキック運動をしはじめる。サイキック運動とは「存在しないものを念の力で具現化させて闘う競技」、らしい。やがてサイキック運動は太郎、将門を巻き込み、三人のあいだで想像の共有が果たされるのだった。


[撮影:伊原正美]


ところで、vol.1『いつだって窓際であたしたち』では将門が太郎にはじめて声をかける瞬間が(舞台の外/観客の想像のなかで)描かれていたのだが、太郎に好意を寄せる将門にとっては嬉しく驚くべきことに、太郎はそれ以前から将門のことを認識していたらしい。それどころか、太郎も将門自身も知らなかった、運命的と言ってもよいつながりが二人のあいだにはあった。

話は中学時代に遡る。生徒たちの希望によって給食のメニューが決まるリクエスト給食の日、大人しくて声の小さい国語教師の通称「淳二先生」は校庭で「回鍋肉」と書かれたアドバルーンを打ち上げていた。その出来事は将門に強い印象を残し、教師を目指すきっかけにさえなったのだが、強い風に一瞬で飛ばされてしまったアドバルーンを目撃したのは将門しかいなかったと思われた。だが同じ日、太郎の中学では卒業アルバムの集合写真の撮影が行なわれており、そこにはなんとアドバルーンの姿がしっかり映り込んでいた。しかも、アドバルーンの「回鍋肉」の文字に刺激された二人はその夜、同じバーミヤンで回鍋肉を食べていた── 。

くだらないと言えばくだらないエピソードだが、想像を共有するまでもなく、すでに太郎と世界を共有していたのだという事実は将門にとって運命以外のなにものでもないだろう。見える範囲、知れる範囲、想像の及ぶ範囲は限られているが、世界はその外側にも広がっている。見えなくとも、知ることができなくとも、想像できなくとも世界はつながっている。だから、そのことさえ忘れなければ世界はあらかじめ共有されているのだ。演劇は、人の集う劇場は、そのことを繰り返し思い出させてくれる。


[撮影:伊原正美]


「いつ高」シリーズはこれでひと区切りとなるが、作・演出の三浦直之は高校演劇の枠組みに縛られない番外編の制作を予告している。また、この10月には東京芸術祭の一環として『フランケンシュタイン』を翻案したロロの新作公演『Every Body feat. フランケンシュタイン』も控えている。オンライン配信もあるとのことなので劇場公演と合わせて楽しみに待ちたい。


いつ高:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』(いつ高シリーズ9作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
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ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2021/06/26(土)(山﨑健太)

ロロ『ほつれる水面で縫われたぐるみ』

会期:2021/06/26~2021/07/04

吉祥寺シアター[東京都]

「ロロが高校生に捧げる新シリーズ」として2015年にスタートした「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校シリーズ」、通称「いつ高シリーズ」がついにファイナルを迎えた。作・演出の三浦直之が審査員として立ち会った高校演劇の上演に感銘を受けたことをきっかけにはじまったこのシリーズは、全作品が全国高等学校演劇コンクールの出場ルール(上演時間60分以内、舞台美術の仕込みは上演前の10分間、などなど)に基づいて創作されており、そのままコンクールで上演することも可能なフォーマットとなっている。今回のファイナルではvol.9『ほつれる水面で縫われたぐるみ』とvol.10『とぶ』が2本立てで上演された。

「いつ高」は当初から戯曲の無料公開を掲げており(2021年8月末時点でvol.7まで公開)、そうして高校生に戯曲の上演機会を提供するのみならず、過去作を観ていない観客も遡ってその世界に触れることができるようになっている。今回はそれに加えvol.1『いつだって窓際であたしたち』とvol.2『校舎、ナイトクルージング』の記録映像も期間限定で無料公開され、さらに、ファイナルの前売りチケットを購入した観客にはvol.8までのすべての作品の記録映像が期間限定で公開された。長い間続いてきたシリーズに新たに触れようとする観客のハードルを下げるのみならず、ファイナルで初めて「いつ高」に触れた観客にもその世界の広がりを体感できる嬉しい特典だ。

『ほつれる水面で縫われたぐるみ』の舞台はプール開き前日で水が抜かれたプール。泥が溜まり、さまざまなゴミが落ちているそこでは瑠璃色(森本華)が何かを探しており、プールサイドにはなぜかモツ(重岡漠)が横たわっている。そこに茉莉(多賀麻美)がやってくるが、プールの脇に掘られていた穴に落ちてしまう。どうやらモツも同じようにその穴に落ちたらしい。ラブレターで呼び出されたのだというモツの話を聞き、茉莉はドッキリ(?)を仕掛けた犯人を探し出そうとするが捕まえた将門(亀島一徳)は犯人ではなくて──。


[撮影:伊原正美]


タイトルの「ぐるみ」はモツが持ち歩いている「やきそば」という名のぬいぐるみに由来する。小さい頃から持ち歩いていて、辛いときにはいつも話を聞いてもらっているというそのぬいぐるみはボロボロでつぎはぎだらけなのだが、そのつぎはぎの一つひとつ、たとえば紙やすりや崎陽軒のシウマイ弁当の包み紙はどれもが思い出の品で、モツはそんなやきそばを自分のメモリーカードなのだという。一方、瑠璃色もまた、水着にさまざまな思い出を縫いつけ、それを自らの「戦闘服」として制服のシャツの下に着込んでいたのだった。

モツたちの「現在」はたくさんの「過去」から成り立っていて、しかし「現在」がどのような「未来」につながっているかは誰にもわからない。やがてほつれた「現在」は思いもしない「未来」の一部になる。vol.8までは高校2年生だった登場人物たちもvol.9では高校3年生になっていて、そこには高校時代という「現在」がやがて「過去」になっていくのだという予感が忍び込んでいる。セブンティーンアイスの「皮」のように脱ぎ捨てられた17歳も、やがて18歳の一部になるだろう。


[撮影:伊原正美]


[撮影:伊原正美]


結局、校庭の穴は落とし穴ではなく、群青(板橋駿谷)がタイムカプセルを埋めるために掘ったものだったということが明らかになる。高校生活にあまり楽しい思い出がなかったという群青は「だったら作っちゃえ」と楽しい思い出を偽造し、「未来の誰かを誤解させるため」にタイムカプセルを埋めようとしていたのだった。そもそも、モツが持っていたラブレターも、群青がタイムカプセルに入れるつもりで恋人と文通をしている設定で自ら書いたもので、モツはそれをたまたま拾った、ということだったらしい。

それを聞いた茉莉たちも未来人を誤解させようと、プールの底に落ちているものを拾っては「楽しい思い出」を妄想し、そして群青とともにタイムカプセルを埋めることにする。プールの底に沈んでいた「過去」は茉莉たちによって「誤読」され、さらに「未来」へと送り出されることになる。それは同時に、ともにタイムカプセルを埋めるという現在を思い出として未来へ送り込むことでもあるだろう。いまこの瞬間、その「現在」だけはたしかなものとして共有されている。だが、それぞれの未来に思い出がどう届くかは誰にもわからない。観客である私はそのことを知っているからこそ、なんでもないラストシーンをかけがえのない瞬間として胸に刻むのだ。


[撮影:伊原正美]



いつ高:http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/
ロロ:http://loloweb.jp/


関連レビュー

ロロ『とぶ』(いつ高シリーズ10作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月01日号)
ロロ『心置きなく屋上で』(いつ高シリーズ8作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2020年10月01日号)
ロロ『本がまくらじゃ冬眠できない』(いつ高シリーズ7作目)|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年12月01日号)

2021/06/26(土)(山﨑健太)