artscapeレビュー

パフォーマンスに関するレビュー/プレビュー

チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』(エクストラ音声「山がつぶやいている」/配信版『消しゴム山は見ている』)

会期:2021/02/11~2021/02/14

あうるすぽっと[東京都]

チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』東京公演では、通常の上演に重ねて音声によるもうひとつの「上演」が行なわれていた。「エクストラ音声」と呼ばれ「山がつぶやいている」とタイトルが付されたそれは、公演会場のあうるすぽっとのホワイエで音声を聴くための機器(受信機とイヤフォン)を借り受けることで聴取可能になる。作・演出の岡田利規が書き下ろし、俳優の太田信吾が読み上げるテキストは舞台上の出来事に新たなレイヤーを付加し、舞台上のそれとは異なる光景を私の脳裏に描き出した。

演劇公演における音声ガイドは一般的に、視覚障害者などへの情報保障として舞台上の出来事を音声で描写し伝達するものとして導入される。「山がつぶやいている」もまた(貸出の受付で情報保障のための音声でないことはアナウンスされてはいるものの)、開演前から冒頭にかけては舞台上の情景の描写のように聞こえる。「舞台は 一面 剥き出しの 更地」。「モノたちで 埋め尽くされている」。「舞台には 巨大な直方体が 三角形が 筒が (中略) 粘土が 透明な液体で満ちた 透明なボトルが などなどが」。なるほど、舞台上には金氏徹平の手による無数のオブジェが並んでいる。やがて「登場しました ヒトたちが 舞台に 六人」。

だが、次のテキストはどうだろうか。「舞台上を 眺め回しつつ うろうろ モノたちを 検討しています 材質 形 大きさ」「これだという ひとつ定めて その モノと 佇まいの波長を 照らし合わせている それを グループの残りの ヒトたちは 見ている」。たしかにそれは俳優たちのふるまいを描写したものではあるのだが、テキストは舞台上で起きている出来事=外面の描写というラインを越え、行為の意図の記述にまで踏み込んでいる。それが可能なのは誰か。もちろん作者である。「エクストラ音声」はまず第一に『消しゴム山』の「解説」として機能し、観客に作品の「理解」を促す。

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]

そう考えると、冒頭で聞こえてきた「更地」という言葉にも舞台面という以上の意味を読み込むことができるだろう。『消しゴム山』はもともと、岡田が岩手県陸前高田市で津波被害を防ぐための高台の造成工事を目撃したことからスタートしている。周囲の山を削った土で地面の嵩上げが行なわれ、驚異的な速度で人工的につくり替えられていく風景を目にした岡田は「人間的尺度」を疑う作品を構想し始めたのだという。「更地」という言葉は津波によって一変した風景を、さらに工事によって再び一変する風景を舞台上に呼び込む。

「舞台の地面 その上を 撫でる風 土埃」「舞台は 工事現場」。もちろん舞台上に「地面」はなく「土埃」もない。そこは「工事現場」ではない。つるりと黒い舞台面には無数の色鮮やかなオブジェが置かれているばかりだ。しかし無数のオブジェに囲まれ壊れた洗濯機をめぐって会話する人々は、同時に工事現場にも立っている。それは例えば、首都圏に住む私の生活が、福島の原子力発電所から来る電気によって支えられていたということと重なってはいないだろうか。

「空がひろがっている」。「雲が浮かんでいる」。「地平線がひろがっている」。もちろん舞台上には空も雲も地平線も、あるいはそれらを表象する何かさえない。だがそれでも「そこに向かって ヒトは せりふを言っている」と声は語る。私が劇場で目撃しているものとは異なる景色が「そこ」には広がっている。声はそうして、私の意識を私には見えていないものへと向けさせる。

[撮影:高野ユリカ]

『消しゴム山』は配信版がオンライン型劇場「THEATRE for ALL」で2021年4月30日まで配信されている。「エクストラ音声」と同じように別途付されたタイトルは『消しゴム山は見ている』。もともと、映像の収録に使われるカメラやマイクは人間の視聴覚が捉えきれない情報も拾い上げる非人間的なデバイスであり、その意味で『消しゴム山』のコンセプトを体現する存在でもある。『消しゴム山は見ている』ではさらに、舞台を真上から捉えるカメラやモノの視点を体現するカメラなどによって撮影された映像を組み合わせることで、劇場の客席からヒトの観客が観るそれとは異なる『消しゴム山』を立ち上げている。『消しゴム山は見ている』はコンセプトを理解するという意味では劇場版『消しゴム山』よりもわかりやすくさえあり、劇場版を見た観客にとっては自分のそれとは異なる視点を体感できる映像作品となっている。

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]

[撮影:高野ユリカ]


『消しゴム山』:https://www.keshigomu.online/
チェルフィッチュ:https://chelfitsch.net/


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没入するモノたち──チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』|池田剛介(美術作家):フォーカス(2019年10月15日号)

2021/02/12(木)(山﨑健太)

シアターコモンズ’21

[東京都]

昨年はシアターコモンズのプログラムに参加したのを最後に、コロナ禍によってかなりの期間、観劇する機会が失われた。そうすると、パフォーミング・アーツをめぐる状況が変わってから丸1年たったわけである(ちなみに、初めてマスクをつけて展覧会に行ったのは、昨年2月の「第12回恵比寿映像祭」だった)。前回もVRによる小泉明郎の『縛られたプロメテウス』や、壇上の二人が発話しないジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレの『快適な島』など、すでにポストコロナを予感させる作品はあったが、今回は社会の動向を見すえたうえで、VRやARを本格的に活用した作品を用意しながら、新しい可能性に挑戦していた。

以下、空間に着目して、体験した作品をまとめておく。ツァイ・ミンリャン『蘭若寺(らんにゃじ)の住人』は、六本木のビルで椅子に座って、HMDを装着し、VR映像の空間に没入する。病の男が佇む廃墟の美を彩るのは、水と光と緑だ。本作を演劇の延長と捉えるなら、壁はあっても、普通の舞台なら、見えない/つくらない天井の染みを自由に眺められるのが興味深い。

スザンネ・ケネディほか『I AM(VR)』も、完全なVRの映像だが、少しだけ体を動かすことができる。最初の閉鎖的な空間から、どんどん世界が広がり、かなり没入感の高い体験だった。あえてゲーム的な空間を創造したようだが、ここまでできるなら、建築、インテリア、ランドスケープのデザインをもっと洗練させる余地があるのではないか。

一方で、中村佑子『サスペンデッド』は、東京ドイツ文化センターに付設された家の中を歩き、病の親をもつ子供を主題とするAR映像を体験する。各部屋で実際に窓から光が差し込み、影が揺れるのだが、それと仮想の映像スクリーン(=もうひとつの窓)の共存が印象的だった。この効果は、晴れた日の昼頃がベストかもれない。

そしてもっともハイブリッドな作品だったのは、小泉明郎『解放されたプロメテウス』である。これはAR(横たわる仮想のベトナム人が5名出現)と、VR(それぞれが実際に見た夢の世界への没入)が切り替わるタイプの体験を味わう。一部の場面では、会場がSHIBAURA HOUSE 5階のガラス張り空間であることも効果的だった。さらに、帰りにもらうプリントのQRコードから、動画「もう一つの夢」にアクセスし、鑑賞するまでが小泉の作品と考えるべきだろう。別の視点から、自らの体験を振り返ることになるからだ。

ところで、新橋エリアで開催された高山明による「光のない。─エピローグ?」は、ラジオというアナログなメディアを使いながら、個別にセルフツアーによって、街に埋め込んだ福島と重なる場をたどるという意味で、実は三密を回避し、もともとポスト・コロナにもぴったりの上演の形式だったのは興味深い。むろん、これはコロナ以前から実践していたものだが、コロナ禍によって、ポスト・シアターの意味が鮮明になったと言えるかもしれない。なお、詩の朗読を聴くために耳は奪われるものの、視覚は解放されているので、せんだいスクール・オブ・デザインのスロー・ウォークのように、普段はじっくり見ないビルの細部も思わず観察することになった。改めて、電線と配線の多いことに気づかされるが、これらも本作がテーマとしていた東京電力が供給する電気が、こうした街の風景をもたらしている。

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/


2021/02/11(木)(五十嵐太郎)

DULL-COLORED POP 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』、第二部『1986年:メビウスの輪』、第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

会期:2021/02/09~2021/02/11

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

福島県双葉町の農家に生まれた三兄弟をそれぞれ主人公に据え、原発誘致の決定から東日本大震災における原発事故までの50年間を、一家族の大河ドラマと重ね合わせて描く三部作。2018年に第一部、2019年に第二部と第三部が上演され、2020年に岸田國士戯曲賞を受賞した。DULL-COLORED POP主宰の谷賢一は福島県生まれで、原発で働く技術者を父に持つ。モデルとなった実在の双葉町町長、東電社員、被災者たちへの2年半にわたる取材を元にした合計約6時間の大作が、TPAM 2021で一挙上演された(筆者はオンライン配信を観劇)。

第一部『1961年:夜に昇る太陽』では、東大で物理学を学ぶ長男の穂積孝が主人公。地元の顔役である祖父の元に、東電社員や双葉町町長、県庁職員が土地の売却を持ちかけ、原発誘致の決定までを描く。「夜」すなわち「貧しい東北地方の中でも最貧県」と言われた福島に、産業の発展と経済的恩恵をもたらす「明るい未来のエネルギー」である原発への夢が、明治以降の福島が被ってきた政治的不遇と経済格差、日米安全保障の陰に潜む核武装への欲望といった政治史的背景とともに語られる。


第一部 [撮影:前澤秀登]


第二部『1986年:メビウスの輪』では、かつて原発反対運動のリーダーだった次男の忠が主人公。原発稼働から15年経った双葉町では、住民の1/4が原発関連産業で働き、税収の半分も原発に依存する。「原発建設で土建屋が儲かり、税収が増え、公共施設が建ち、工事を請け負う土建屋が儲かり、さらに税収が増える」という依存のサイクルから抜け出せなくなった町。だが、安定した原発関連工事の供給がなければ、この先も現在の経済状況を維持できないことは明らかだ。そんななか、第一部で原発誘致を働きかけた町長の汚職が発覚。地元の政治家たちは忠に町長選出馬を持ちかけ、「元原発反対運動のリーダーだからこそ、原発の危険性を東電や国に強くアピールし、引き換えに補助金と安全対策の補修工事費のカネを引き出せ」と迫る。「原発反対だが推進する」という矛盾した立場を引き受けた忠は見事当選するが、チェルノブイリ原発事故が発生。ロックミュージックに乗せ、記者会見で「日本の原発は安全です」と連呼する姿は道化のようだ。



第二部 [撮影:前澤秀登]


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』では、地元テレビ局の報道局長となった三男の真が主人公。県民への取材を通して、放射能の風評被害、被災者どうしの分断や差別の再生産があぶり出されると同時に、視聴率(資本主義)と報道の使命とのジレンマが描かれる。また、原発事故後、精神を病んで入院した兄の忠に対して、元町長としての言葉を引き出そうとする真の、家族への思いと使命感との葛藤も描かれる。

それぞれが唱える「正論」「正義」「理想」の対立がドラマの推進力となるオーソドックスな作劇手法であり、感情をぶつけ合う俳優たちが「クライマックス」で泣き笑い絶叫する演技も王道である。また、「科学技術」「政治経済」「報道」という三つの視点を三兄弟に担わせ、史実や取材を元に膨大な情報を台詞に落とし込みつつ「家族ドラマ」としてのツボもしっかりと押さえる構成は、よく練り上げられている。三部作全体をとおして、田舎/都会、地方/国、原発推進/反原発、搾取/依存、父(家父長)/息子といった二項対立的構図を描きながら、最終的には第三部で「単純な二項対立ではすくいとれない多様な声に耳を傾けること」が提示される。

ただ、戦後日本社会の構造的歪みを徹底して描出する本作だが、もうひとつの「歪み」が(おそらく無自覚に)戯曲に内在化しているのではないか。それは、「それぞれの正義と理想を胸に生きた男たちの熱いドラマ」の脇に配された、女性の表象のあり方である。ドラマの構造もテーマ自体も「男性の領域」であるからこそ、その男性中心主義性をどう批評的に捉え直すかが鍵となるはずだ。だが、第一部・第二部で登場するのは、「肝っ玉母さん」「故郷で待つ恋人」「背中を押してくれる妻」という「対立しつつも最終的には理解し、傍で支えてくれる」応援団的な役割である(ちなみに、第二部で町長に担ぎ上げられる忠を見守るのも、「モモ」という名の忠実な雌犬の魂だ)。


第三部 [撮影:前澤秀登]


そして、それ以外の女性登場人物が「増えた」第三部で提示されるのは、「無垢な犠牲者」と「産む性」への還元という二極への収斂である。テレビ局員に取材されるのは、「放射能に怯える妊婦」、「妻と娘を津波で流された男」である(「無垢な犠牲者」は「女性」でなければならない)。また、放射能汚染を動画で訴える女子高校生に対して「差別を広げるだけだからやめろ」「放射能がうつるから口をきくな」と差別感情をぶつける若い女性の対立が物語の軸のひとつとなる。両者が共有するのは「出産への不安」であり、彼女たちを取材した女性テレビ局員の「原発事故後、女性社員のみ自宅待機命令が出た。本能的に怖いと思った。生理なんて鬱陶しいと思っていたのに、自分が産む性であることを自覚した。女性にはそういう得体の知れない直感がある」という台詞は、「産む性」としての一方的な本質化にほかならない。


第三部 [撮影:前澤秀登]

このジェンダーをめぐる本質主義が物語の帰結において必須であることが露呈するのが、病室の忠が最期を迎えるラストシーンだ。寄り添う老いた妻は「あんたは、ただ町の発展のために尽くしてきただけ。他人が悪く言おうとも、私だけは愛している」と呼びかける。「死は(再)生への新たな出発」であると語られるなか、「この道はいつか来た道」の童謡を優しくあやすように歌う妻。それは、死を看取りつつ、再び誕生へ向かって送り出す「母」の二重化された存在であり、本作が最終的に希求するのは「すべてを赦し、癒し、そして自分を再び産み直してくれる大いなる母」である。ここで、忠を看取って(再)生へと送り出す彼女が、第一部では長男の恋人、第二部では次男(忠)の妻と、役割を変えながら三部作すべてに登場していたことに留意しよう。それぞれ別の女優に演じられ、別人のようにも見える彼女こそ三部作を貫く影の主人公であり、そこに投影されているのは、「戦後日本の構造的病理がもたらした傷を、男性中心主義への反省を欠いたまま、癒しと赦しの役割を女性に求める」という幻想の物語である。

TPAM 2021
公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2021/


2021/02/09(火)(高嶋慈)

TPAM ホー・ツーニェン『Voice of Void』/アイサ・ホクソン『Manila Zoo』ほか

会期:2021/02/06~2021/02/14

[神奈川県]

今年のTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)は、当然ながら、コロナ禍における舞台芸術のあり方を探るプログラムが目立った。言い方を変えると、オンライン、もしくはヴァーチュアル・リアリティをいかに導入するか、である。もちろん、すでにテクノロジーの進化によって、こうした兆候がなかったわけではないが、今回は一気に加速した、いや、せざるをえなかった。

ホー・ツーニェンの『Voice of Void』は、形式的には4人で参加するものだが、相互のインタラクションはなく、また演者はいない。ゴーグルを装着して、リアルな畳の上で動くと、世界が切り替わる。すなわち、じっと静止していると、SF的な空間の広がりをもつ座禅室/少し動くと、茶室における京都学派の座談会/立ち上がると、モビルスーツが漂う空中/寝そべると、監獄という4つの空間だ。初日に体験したせいか、機材の設定トラブルが続き、何度かゴーグルを装着し、おかげで付け方が上手くなったのだが、おそらく、この技術の未来は、舞台の内部に入り込む体験だろう。

さて、6年前にポールダンスを観たアイサ・ホクソンの『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』はKAAT 神奈川芸術劇場で観劇したが、やはりホストをのぞくと、そこに生の演者はいない。それぞれの個室で動物を演じるフィリピン人のダンサー陣の映像、ならびにドイツの電子音楽をリアルタイムで横浜に配信し、大きな画面で観るからだ。コロナ禍ゆえに、家にこもる人間と檻の中の動物が重なり、さらにきちんと機能しない政治への怒りが表明される。もちろん、ただ鑑賞するだけなら、あらかじめ録画された映像を流せばよい。だが、ダンサーが激しい運動を続けた後の休息をかねて、会場のホストと観客を交えたインタラクティブな演出(質問タイム、記念写真、アクション、照明など)が挿入される。そのとき、これが遠い場所だけれども、同時進行のライブであることを痛感した。

ほかのTPAMのプログラムでは、オンライン配信によって、谷賢一(DULL-COLORED POP)の福島三部作を鑑賞した。原発誘致前夜の「反対しなかったな/日本の原発は安全です/寝た子は正しく起こせ」など、各パートにおいて、印象的な言葉が突き刺さり、国外や記憶が薄れる未来に対して意義をもつ作品である。だが、家にいながら画面に向かうだけの視聴だと、途中で映像が止まったり、集中力が散漫になりやすい。以前、第一部の『1961年:夜に昇る太陽』のみは、駒場の小劇場で鑑賞していたが、やはり生で観たい作品だった。

ホー・ツーニェン『Voice of Void』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=voice-of-void
会期:2021/01/24〜2021/02/06
会場:BankART Temporary

アイサ・ホクソン『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=manila-zoo
会期:2021/02/09〜2021/02/11
会場: KAAT神奈川芸術劇場

2021/02/09(火)(五十嵐太郎)

屋根裏ハイツ『パラダイス』

会期:2021/02/05~2021/02/09

STスポット[神奈川県]

『パラダイス』(作・演出・音響:中村大地)は『私有地』(2019)に続く屋根裏ハイツの「シリーズ:加害について」の第二弾。人口減少と高齢化の結果、老人ホームのような機能も担うようになった郊外の団地を舞台に描かれる日常の風景から浮かび上がるのは、分かちがたく触れ合い溶け合うケアと加害の境界領域だ。

住民の憩いの場となっているらしき集会室。職員の高知(村岡佳奈)がいるところに住民の沢崎(瀧腰教寛)がやってくる。二人のやりとりから沢崎には認知症のような症状があるらしいことが窺われる。さらに住民の清水(和田華子)がやってくる。どうやらその朝、清水の部屋の隣に住む遠藤さんという寝たきりだった住民が入院していったらしい。遠藤の世話をしていた子の「ケイさん」は2日前から行方不明のようだ。清水が出て行ってしばらくすると高知は、昼食を食べ損ねているので食べに行きたい、その間、沢崎がここにいるつもりなら鍵をかけさせてもらいたいと言い出す。ケイのことがあったので、一部の住民には安全のため、集会室の利用の際に職員の送り迎えをつけることになった、そのことはまだ決まったばかりで周知はされていないのだが、ひとまずの暫定的な措置として、万が一のことがあるといけないので、自分がいまここを離れるにあたって鍵をかけておきたいのだ、と。沢崎は了承し、高知は昼食のために出て行く。沢崎がひとりでいる間に住民の日高(村上京央子)が集会室を訪れ、鍵がかかっていることに驚く。沢崎は事情を説明しようとするがうまく伝えられず、日高は高知を呼びに行く。戻ってきた高知の説明で日高は一応は納得するが、沢崎に改めて確認すると沢崎は鍵を閉められていたこと自体忘れてしまっている。沢崎は煙草を吸いに出ようとするが、ふと「ひとりで、行っていいの?」と高知に問いかけ、高知とともに出て行く。

集会室に鍵をかけた高知の行為はケアか加害か。日高はそれを一旦は加害だと判断し、事情を聞いてケアであったことを了解しつつ、同時に釈然としない様子でもある。事情の有無にかかわらず、行為の内実は変わらない。自由を奪う行為は加害であり、同時にケアともなり得るという現実があるだけだ。では、高知が昼食を抜けばよかったのか。しかしそれは高知に対する束縛、加害ではないだろうか。鍵をかけて昼食にいくという選択は、自他のケアを秤にかけた高知の落としどころだったはずだ。

作品の冒頭、外で遊ぶ子供たちを見た沢崎と日高は「学校無いのかな」「保育園の子かも」「先生とかいないっぽいですけど」と言葉を交わす。ふたりの「心配」もケアの一種だが、それは束縛や禁止へとエスカレートする種ともなり得る。どこまでが妥当なケアか。高知は保育園で使われる散歩用の子供を載せる台車を見る度に「ドナドナ」の歌を思い出し、運ばれる子供たちが「自由がない動物みたいに見える」のだと言う。小学校の塀と刑務所の塀の違いは何か。無用心だからと鍵のかかっていない部屋から財布と携帯を勝手に持ち出すことは犯罪か。「健康に悪いから」と煙草を禁止することはできるか。散りばめられたエピソードがケアと加害の違いを問う。その問いは老人ホームや病院といった場所をも射程に収めるものだろう。

鍵をかけて出て行った高知と鍵もかけずに出てったケイさん。果たしてどちらが「正しかった」のか。鍵がかかっていたら遠藤さんは人知れず亡くなっていたかもしれない。鍵のかかった集会室で沢崎は突然倒れてしまったかもしれない。沢崎が高知とのやりとりを忘れてしまったせいで、高知は何らかの責任を問われることになったかもしれない。無数の「かもしれない」と折り合いをつけ続ける作業としてしかケアはなし得ず、しかしそこにどのような「かもしれない」があり得たかを第三者が推し量ることは難しい。断罪はなおのことだ。

『とおくはちかい(reprise)』とも共通する、他者の事情を十分には知り得ないというテーゼは、本作では上演の構造としても採用され、観客にも体感されるものとなっていた。沢崎がひとりになると、集会室に保管されていたケイさんの電話に着信があり、沢崎はそれに出てしまう。沢崎はその後、およそ20分にわたりケイさんの友人の久保田(宮川紗絵)と電話越しに会話をし続けるのだが、久保田の言葉は劇場にいる観客には聞こえない部分も多い。実は、この電話越しの会話は音声のみのオンラインパフォーマンスとしてリアルタイムで公開もされており、それを聞くと(あるいは公開されている上演台本を読むと)久保田がどのような言葉を発していたかを知ることができる仕組みになっている。しかしそこにも、通話中に久保田に話しかけたはずの「同居人」の声は入っていない。「観客」が全てを知ることはできない。

『パラダイス』の最後の場面はこうだ。清水と日高が集会室で話し込んでいると沢崎が外を通りかかる。「どこいくんだろう」と気にする日高は「わたしも行ってみようかな」と言う。「沢崎さん見がてら」「何処もいかないなら、戻ってくればいいし」と二人は出て行く。


公式サイト:https://yaneuraheights.net/
『パラダイス』上演台本:https://yaneura-heights.blogspot.com/2021/02/blog-post.html


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2021/02/09(火)(山﨑健太)