artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

金村修「System Crash for Hi-Fi」

会期:2015/06/23~2015/07/04

The White[東京都]

金村修の新作は、あいかわらずのクラッシュした都市光景のモノクロームプリントによる再構築だが、いい意味での開き直りが感じられて、楽しんで展示を見ることができた。
壁に5枚×6段、6枚×7段、8枚×7段で(他にフレーム入りの写真が1枚)、びっしりとモザイク状に貼られたプリントには、暗室作業中のアクシデントの痕がちらばっている。現像液や定着液のムラ、染み、光線漏れなどが原因と思われるこれらの傷跡が、半ば意図的に作られたものであるのは明らかだろう。つまり、被写体となる都市の物質性が、暗室作業を通過することで、印画紙の物質性に置き換えられているわけであり、その手続きは職人技といえそうな巧緻さに到達している。ノイズの取り込み方、活かし方が、視覚的なエンターテインメントとして充分に楽しめるのだ。
それにしても、昨今の若い写真家たちの、デジタル化した都市の表層を「つるつる、ピカピカ」に撮影した写真群と比較すると、金村の展示のあり方はもはやクラシックに見えてくる。だが、それを否定的に捉える必要はないと思う。プリントのそこここから、血液ならぬ現像液が滲み出てくるような金村の写真には、「TOKYO2020」に向かって画一化、パッケージ化を加速させつつある都市の状況に対して、全身で抗う身振りが刻みつけられているからだ。なお、ギャラリーの奥の小部屋では、カラー写真のプロジェクションと動画作品の上映がおこなわれていた。こちらはまだ試作の段階で、発表のスタイルが定まっていない印象だった。

2015/06/25(木)(飯沢耕太郎)

村上仁一『雲隠れ温泉行』

発行所:roshin books

発行日:2015年6月1日

「雲隠れ」という言葉を辞書で引くと「人が隠れて見えなくなること。行方をくらますこと」とある。失踪、蒸発、遁世、いろいろと言い換えられそうだが、社会的なしがらみから逃れて、どこか見も知らぬ土地を、気の向くままに漂泊してみたいという欲求は、日本人のDNAに刻みつけられているのかもしれない。そしてその欲求にぴったりと応えてくれる場所こそ、地方のひなびた湯治場ということになるのだろう。
村上仁一にも、どうやら20代後半の一時期に「俗世間からの失踪願望」があったようだ。休みを利用して全国各地の温泉をほっつき歩いては「とりとめもなく」写真を撮り続けた。それらは2000年の第16回写真ひとつぼ展でグランプリを受賞し、2007年には第5回ビジュアルアーツフォトアワードを受賞して、写真集『雲隠れ温泉行』(発売=青幻舎)が刊行された。村上はその後、カメラ雑誌の編集者として仕事をするようになるが、「温泉行」のシリーズは撮り続けられ、じわじわと数を増していった。それを再編集してまとめたのが、今回roshin booksから刊行されたニューヴァージョンの『雲隠れ温泉行』である。
白黒のコントラストを強調し、粒子を荒らした画像は、1960年代後半の「アレ・ブレ・ボケ」の時代から受け継がれてきたもので、もはや古典的にすら見える。だが、それが時空を超越したような湯治場の光景にあまりにもぴったりしていることに、あらためて感動を覚えた。村上がここまで徹底して「途方もない憧れの念」を形にしているのを見せられると、単純なアナクロニズムでは片づけられなくなってくる。僕らの世代だけではなく、つげ義春や『プロヴォーク』を知らない世代でも、ざらついた銀粒子に身体的なレベルで反応してしまうのではないかと思えてくるのだ。

2015/06/25(木)(飯沢耕太郎)

畠山直哉『陸前高田 2011-2014』

発行所:河出書房新社

発行日:2015年5月30日

本書の巻末におさめられた畠山直哉のエッセイ「バイオグラフィカル・ランドスケイプ」を読んで、東日本大震災の過酷な体験が彼に与えた傷口の大きさと、それを契機にした彼自身の変化についてあらためて思いを巡らせた。「大津波によって、僕は自分が、なんだか以前より複雑な人間になったと感じている」と彼は書く。このややシニカルにも聞こえかねない言い方は、当然彼の写真にもあらわれてきている。写真もまた「より複雑」になり「気むずかしい」ものになっているのだ。
一見すると、震災後の故郷、岩手県陸前高田市の風景を淡々と記録し続けた写真の集積のようだが、「20110319」から「20141207」まで、日付が小さく右下に付された写真集のページを繰っていくと、写真家が何を見てシャッターを切っているのか(逆にいえば、何を写さないようにしているのか)、その選択の積み重ねが、息苦しいほどの緊張感をともなって感じられてくる。震災直後の凄惨なカオスの状況は、半年も経つと日常化し、「ほっかほっか亭」や「希望のかけ橋」が出現し、2012年8月には「気仙川川開き」の行事が復活してくる。とはいえ、むろん故郷が震災前に戻ったわけではない。視界には根こそぎすべてが流失してしまった海沿いの土地と、低い土地から移転するために山を崩して造成されつつある空虚な空間が、黴のように広がっている。それらを見ながら、われわれもまた畠山とともに「わからない。わからないけど……」と自問自答せざるを得ない。いや、むしろ「わからない」ことを何度でも確認するために、過去の記録として整理され、忘れ去られていくことを潔癖に拒否し続けるためにこそ、この写真集が編まれたといってもよいだろう。
震災という大きな出来事と畠山自身の「個人史」、それらを「膠着」させ、分かちがたいものとし、彼にとっても読者にとっても「手に負えないもの」として保持し続けようという強い意志が本書には貫かれている。震災が決して終わらない(続いている)のと同様に、この陸前高田を舞台とする「バイオグラフィカル・ランドスケイプ」もまだ続いていくのだろう。それを見続け、考え続けていきたい。

2015/06/24(水)(飯沢耕太郎)

《フンデルトヴァッサー・ハウス》《クンストハウス・ウィーン》

[オーストリア、ウィーン]

《フンデルトヴァッサー・ハウス》と《クンストハウス・ウィーン》を再訪した。前者は朝からすごい観光客が集まっていた。しばしば彼はウィーンのガウディと呼ばれるけれど、個人的には「建築的」ではないと思うので、抵抗がある。クンストハウスで絵をまとめて鑑賞すると、素人的な画材のせいもあるが、アウトサイダー・アート的だ。また《クンストハウス・ウィーン》では、ちょうど川内倫子展(3/20~7/5)が開催されていた。いろいろな写真のシリーズを紹介している。建築と全然テイストは違うのだけど。数十年経って、振り返ると、ああ21世紀の初頭って、こういう感じのアートだよね、と思い出されるであろう現代とのシンクロ率が高い作品群である。

写真:上=《フンデルトヴァッサー・ハウス》、下=《クンストハウス・ウィーン》

2015/06/22(月)(五十嵐太郎)

金サジ「STORY」

会期:2015/06/16~2015/06/21

アートスペース虹[京都府]

斬られた首から溢れんばかりの赤い花がこぼれ落ち、傷口から新たな生命を生み出すニワトリ。斧を構える半裸の男は、縄やワラ、垂れ下がる白い紙で頭部を覆われ、半人半神のような呪術的な雰囲気をまとって立つ。美しい刺繍の髪飾りとチマチョゴリを身に付けた少女は、クマの頭をしている。不気味な形の枝を持ってたたずむ、中性的な容貌のシャーマン。セミの抜け殻の山から生え出た、一輪のハスの花。黒い背景に浮かび上がる彼らは、生/死、動物/植物、人間/動物、人間/神、男性/女性など、二つのものを媒介する使者のような存在だ。
写真家の金サジは、緻密に構成した神話的世界を、西洋絵画における肖像画や宗教画を思わせる図像として差し出す。フレスコジクレープリントという特殊なプリント技法によるマットな質感が、絵画的な効果をより高めている。一方で、克明に写し取られた布地の陰影や細部のディティールにより、彼女の描く物語世界の登場人物たちは、黒い背景のなかから強い実在感とともに浮かび上がる。これら象徴性と謎を合わせ持ったイメージは、さまざまな連想を誘い、いくつもの神話や民話のなかのイメージと断片的に響き合いながら、汎東洋的とも言うべき混淆的な世界を形づくる。作家によれば、直感や夢で見たイメージ、かつて読んだ物語の記憶などが混ざり合った、自身のための「創世の物語」であるという。
「神話」や「民話」は、ある共同体の形成と密接に関わるものであり、時にナショナリズムを強固に構築する母体ともなってきた。だが金は、自身が身を置く複数の文化の記憶に触れながら、そこに私的な記憶や空想を織り交ぜることで、特定の「国」「民族」の枠組みに囚われることのない、死と生命、再生についての根源的な物語を紡ぐことの可能性を告げている。そこでは、さまざまな境界が混じり合ってイメージの強度を立ち上げ、生と死もまた反転しながら繋がり合っているのだ。

2015/06/20(土)(高嶋慈)