artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
大森克己「"When the memory leaves you"-sounds and things vol.2」
会期:2015/07/11~2015/08/09
MEM[東京都]
大森克己がMEMで「sounds and things」展を開催したのは2014年2月~3月だったということを聞いて、軽いショックを受けた。ずいぶん前の展覧会だったような気がしていたのだ。それだけ多くの出来事が、目の前を通過し続けているということであり、逆に日々の出来事を記録(記憶)していくスナップショットの持つ意味について、もう一度考えてみたいとも思った。
前回の個展でも感じたのだが、大森にとってのスナップショットの意味合いが、かなり変わってきているように思う。以前は彼の周辺の現実を全身感覚的に受け止め、切り取っていくことに精力が傾けられていた。彼自身もそれが何を意味しているかわからないままに、出来事の断片を撒き散らしていたのではないだろうか。ところが、「sounds and things」のシリーズでは、むしろ「事後」に写真を選択、プリント、配列していく過程で育っていく思考と認識に大きく比重がかかってきている。スナップショットを、世界のあり方を考察していくための材料としてとらえることを、自然体でやりきっているように思えるのだ。
それをよく示しているのが、写真1枚1枚につけられたタイトル(むしろキャプションに近いものもある)である。石に刻まれた「LEHMAN BROTHERS」の文字を、モノリスのように撮影した写真には「“When the memory leaves you”」というタイトルが付され、祭りの法被を着た一団の写真には「すべての女は誰かの娘である」と記されている。千葉県浦安市の駅前のショットにつけられたのは「鳥と魚は恋に落ちることができるのか?」という謎めいたメッセージだ。写真が言葉を触発し、奇妙にユーモラスな画像とテキストとのアマルガムが形をとる。それらは確実に、この2010年代の、「震災以後」の世界の像を浮かび上がらせつつあるように思える。
なお、同時期に山梨県高根町のギャラリートラックスでは、「#soundsandthings」展が開催された(2015年7月4日~26日。iPhone6で撮影して、ハッシュタグをつけてInstagramで公開している写真による展示である。
2015/07/16(木)(飯沢耕太郎)
木村友紀「THUS AND SO RATHER THAN OTHERWISE」
会期:2015/07/04~2015/08/01
タカ・イシイギャラリー東京[東京都]
清澄白河から北参道に移転したタカ・イシイギャラリーで開催された木村友紀の展示について、会場に置いてあった解説シートに以下のように記されていた。やや長いが、作品の内容をとても正確に伝えているので引用しておくことにしよう。
「天井から床まで垂れたスクリーンには、引き延ばされたテニスコートのイメージがプリントされている。それが4枚あり、3カ所に分けて掛けられている。大中小に額装された写真は、3段に積み重ねて馬脚の上に置かれている。それらの写真はどれも同じで、階段が写っている。白いペデスタルの上の大理石の台には、大小同じ銘柄の飲みかけのテキーラが置かれている。そのボトルとボトルの間に、ハーフミラーが置かれている。床に置かれたアタッシュケースの中から、蛇腹状のパネルが垂直に伸びていて、それに小さい写真が置かれている。それが2つある。」
説明が一切ないので、観客は木村の展示意図を推し量るしかない。「テニスコートのイメージ」、「階段が写っている」写真、「小さな写真」などはいかにも意味ありげで、木村はそこに写っている視覚的な体験を、拡大・増幅・変換して伝達しようとしているように見える。だが、それらの写真が木村自身の撮影によるものではなく、「ファウンド・フォト」であることを知ると、より混乱が大きくなるだろう。にもかかわらず、作品全体から受ける印象はあまり違和感がなく、どちらかといえば心地よい。名も知らぬ他者の経験が、自分自身のそれと重なるような普遍性を持ち始めるのだ。それは何とも奇妙な、夢と覚醒の間に宙づりになってしまうような気分をもたらす。
タカ・イシイギャラリーでの木村の個展は、今回で7回目になるそうだ。彼女の作品は癖になる。そのインスタレーションは洗練の度を加え、真似のできない領域に入りつつある。もう少し大きな会場で、近作をまとめて見てみたい。
2015/07/15(水)(飯沢耕太郎)
《写真》見えるもの/見えないもの #02
会期:2015/07/13~2015/08/01
東京藝術大学大学美術館陳列館[東京都]
東京藝術大学美術学部写真センターを中心とする実行委員会が主催する「《写真》見えるもの/見えないもの」展は、2007年以来8年ぶりの開催になる。ただ、その前身といえる「写真で語る」展が1988~95年に4回にわたって開催されているので、25年以上の歴史を含み込む展示となっていた。
東京藝術大学写真センターは1980年代以来、写真表現の「アート化」の一翼を担って、ユニークな写真作家を輩出してきた。今回の展覧会には、佐藤時啓、鈴木理策、今義典、佐野陽一、下村千成、塚田史子、永井文仁、野村浩、村上友重、安田暁といった、写真センターにかかわりを持つ教員、スタッフが、クオリティの高い作品を出品していた。また韓国のArea Park、アメリカ在住のOsamu James Nakagawa、中国と日本のカップル榮榮&映里という「海外にベースをおきながら。日本をテーマとした作品を発表してきたアーティスト」が加わることで、より重層的な、広がりのある展示が実現した。
「写真で語る」の頃から本展を見続けている筆者にとっては、とても感慨深い展示だった。かつては、写真をアート作品として制作・発表すること自体に、乗り超えなければならないハードルがあったのだ。それが四半世紀を経過して、むしろこの種の展覧会はあたり前になり、クラシックな趣さえ呈するようになった。さらに1990年代半ば以降は「デジタル化」というもうひとつのファクターが加わり、「新たに生まれたデジタル技術の様々な可能性とともに、現在における「写真」を再考する必要」が生じてきた。25年の歴史をもう一度ふりかえりつつ、それぞれの写真作家の未来像を提示していく時期に来ているということだろう。
2015/07/14(火)(飯沢耕太郎)
吉田重信「2011312313」
会期:2015/07/11~2015/07/26
ギャラリー知[京都府]
ギャラリーに展示されているのは、新聞記事を極端に露出アンダーな状態で撮影し、大きく引き伸ばした写真作品4点と、真っ黒なタブロー状の平面作品。前者は、2011年に起きた東日本震災の翌日3月12日とその翌日の13日に発行された地元新聞2紙で、福島県双葉郡浪江町(福島第一原発から10キロ圏内で現在も放射線量が高く帰宅困難地域に指定されている)の販売所に放置されていたものだ。後者にはその新聞の実物を鉛で覆った容器が入っており、作品表面には震災が起こった日時が刻印されている。紙面を見ると当時の緊迫した様子が伝わるが、画面が暗すぎて判読できない部分も少なくない。これは薄れゆく記憶の暗喩であり、それに抗おうとする作者の意志の表われでもある。吉田は福島県いわき市在住の作家で震災の被災者でもあるが、これまでも折に触れ東日本大震災をテーマにした作品を発表してきた。そのブレない姿勢、継続する意志を前にすると、こちらも襟を正さざるをえない。
2015/07/14(火)(小吹隆文)
東學女体描写展──戯ノ夢
会期:2015/07/10~2015/07/24
乙画廊[大阪府]
女性の裸体に墨絵を描き、撮影した写真作品の連作を出品。まず墨絵が素晴らしい。描かれているのは動物、魔物、植物、花、骸骨などだが、それらが身体のフォルムにそって装飾性豊かに配置されている。おそらく短時間で制作したと思われるが、その画力には驚かされるばかりだ。また、モデルの女性たちの表情、ポージングも作品と調和しており、東のディレクション能力の高さが窺える。写真も本人が撮影しており、紙の選択や特殊な印画法(色分解して出力しているのか?)が効果的だった。すこぶる魅力的な作品なので、一度限りの実験作ではなく、今後も継続してシリーズ化することを望む。
2015/07/13(月)(小吹隆文)