artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
川島小鳥「明星」
会期:2015/02/27~2015/03/15
パルコミュージアム[東京都]
写真集ではよくわからなかったことが、写真展を見ることによってくっきりとあらわれてくる場合がある。渋谷パルコ・パート1のパルコミュージアムで開催された川島小鳥の「明星」についていえば、それは「台湾であること」の重要性だったのではないだろうか。
川島は前作『未来ちゃん』(ナナロク社、2011年)の発表後、台湾を主な制作の場とするようになり、7万枚以上の写真を撮り下したのだという。主にユース世代を撮影したスナップ写真を中心とする、今回の「明星」展を見ていると、彼がその地に固有の空気感に深く魅せられ、被写体とシンクロするように、いきいきとシャッターを切っていることがよくわかる。台湾も急速に近代化が進み、消費文化が浸透することで、ここに登場する若者たちは、見た目は日本人とほとんど変わらないように見える。だが一方で、南国の気候・風土、植物、果実、食べ物などは、われわれから見るとかなりエキゾチックな雰囲気でもある。また現代のアニメキャラと、やや時代遅れの家具や電気製品とが共存する部屋の様子も、独特の雰囲気を醸し出す。つまり現在と過去、共通性と異質性が適度に、まったりとブレンドされているのが、まさに「台湾であること」であり、川島のカメラは実に的確にそのあたりの機微を捉えきっているのだ。
仮設のベニヤで会場を仕切り、カラフルな遊園地のように仕上げた写真のインスタレーション(会場構成=遠藤治郎)もとてもよかった。なお、この展覧会は5月~8月に台湾各地に巡回するという。現地での反応が楽しみだ。
(本稿執筆中に、川島が本作で第40回木村伊兵衛写真賞を受賞したというニュースが飛び込んできた。もう一人の受賞者は『絶景のポリフォニー』『okinawan portraits 2010-2012』の石川竜一だった)
2015/03/05(木)(飯沢耕太郎)
山崎弘義『DIARY 母と庭の肖像』
発行所:大隅書店
発行日:2015年2月25日
山崎弘義は森山大道に私淑し、ストリート・スナップを中心に発表してきた写真家だが、2001年9月4日から母親のポートレートを撮影し始めた。少し後には自宅の庭の片隅も同時に撮影し始める。母が86歳で亡くなる2004年10月26日まで、ほぼ毎日撮影し続けたそれらの写真の総数は3600枚以上に達したという。本書にはその一部が抜粋され、日記の文章とともにおさめられている。
山崎がなぜそんな撮影をしはじめたのか、その本当の理由は当人にもよくわかっていないのではないだろうか。認知症の母親の介護と仕事に追われる日々のなかで、「止むに止まれず」シャッターを切りはじめたということだろう。だが、時を経るに従って、その行為が「続けなければならない」という確信に変わっていった様子が、写真を見ているとしっかり伝わってくる。単純な慰めや安らぎということだけでもない。むしろ、カメラを通じて、日々微妙に変貌していく母親、人間の営みからは超然としている庭の植物たちを見つめつづけることに、写真家としての歓びを感じていたのではないかと想像できるのだ。あくまでも個人的な状況を記録したシリーズであるにもかかわらず、普遍性を感じさせるいい仕事だと思う。
なお、発行元の大隅書店からは、昨年『Akira Yoshimura Works/ 吉村朗写真集』が刊行されており、本書は第二弾の写真集となる。あまり評価されてこなかった、どちらかといえば地味な労作を、丁寧に写真集として形にしていこうという姿勢には頭が下がる。
2015/03/01(日)(飯沢耕太郎)
今井祝雄「Time Collection」
会期:2015/02/14~2015/03/11
Yumiko Chiba Associates/ viewing room shinjuku[東京都]
今井祝雄といえば、あの凄みのある「デイリーポートレイト」をまず思い浮かべる。1979年5月30日から、前日に撮影したポラロイド写真を手に持った自分の姿を撮影し続けているこのシリーズは、世紀をまたいで現在も継続中である。写真とは時間をスライスするメディアであるというのは、よくいわれることだが、まさにその物質的な厚みを可視化するという不可能な試みを成し遂げつつあるこのシリーズには、誰もが畏敬の念を抱かないわけにはいかないだろう。
今回のYumiko Chiba Associates/ viewing room shinjukuの展示では、やはり写真やヴィデオ映像を使って、時間の画像化を試みた作品が並んでいた。全裸の男性を連続的に撮影したポラロイド写真をモデルの体に貼り付けていく「時間の衣装」(1978年)や、時間をデジタル表示しているテレビの画面を、その数字が変化する1分以内に多重露光で撮影する「タイムコレクション」(1981年)などは、コンセプトが先行した頭でっかちの作品に思われがちだ。だが実際にそれらを見ると、その物質化の手続きが意外なほど生々しく、画像そのものの劣化もあって、見る者の記憶や感情を揺さぶる奇妙な魅力を放ちはじめているように感じる。1970年代に制作された高松次郎、榎倉康二、若江漢字などのコンセプチュアル・アートの写真作品もそうなのだが、まさに時の経過にともなう生成変化が、そこに具体的に生じてきていることが興味深い。デジタル化以降のメディアでも、同じような作品を制作することは可能だが、ポラロイド写真のような、魅力的な物質感は期待できないのではないだろうか。
2015/02/25(水)(飯沢耕太郎)
宇佐美雅浩「Manda-la」
会期:2015/02/13~2015/02/28
Mizuma Art Gallery[東京都]
思いがけない角度から「震災後の写真」のあり方を照らし出す作品といえるのではないだろうか。宇佐美雅浩は1990年代半ばから、友人の部屋などをその人の私物や関連する人物を配置して撮影するというプロジェクトを進めてきた。ところが、東日本大震災以降、その作品の方向性が大きく変わってくる。より社会性の強い人物や場所が選ばれるようになり、制作のプロセスも数ヶ月から数年を要する大規模なプロジェクトへと発展していったのだ。
今回展示された20点余の作品は、どれも練り上げられたコンセプトで、大変なエネルギーを傾注して作り上げられている。実際に震災を直接的に扱っているのは、大津波で気仙沼の市街地に打ち上げられた共徳丸の前で撮影された「伊東雄一郎 気仙沼(宮城)2013/ワインバー風の広場 マスター」と白い防護服を着た人々が花見に興じる「佐々木道範 佐々木るり 福島 2013/浄土真宗大谷派真行寺住職、同朋幼稚園理事長、妻」の2点だが、広島の「原爆の子」執筆者の会、アイヌ民族運動家、秋葉原の書店経営者などをモデルとした他の作品からも、震災後の社会状況を見据えて制作していることがヴィヴィッドに伝わってくる。作品のスタイルもその指向性も、これまでの日本の「写真家」たちとはまったく異質のものであり、それだけに、このシリーズがこれからどんな風に展開していくのかという期待が膨らむ。
ただ、物や人物たちが、過剰に画面の隅々まで埋め尽くしていく視覚的効果はたしかに目覚ましいものだが、これでもか、これでもかと同じような趣向を見せつけられるとやや食傷気味になってくる。テーマによっては、やや異なる画面構築のやり方をとってもいいのではないかとも思う。個人的な嗜好と社会性とをよりラジカルに噛み合わせていくと、さらにユニークなプロジェクトに成長していくのではないだろうか。
2015/02/24(火)(飯沢耕太郎)
プレビュー:PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
会期:2015/03/07~2015/05/10
京都市美術館、京都文化博物館、京都芸術センター、堀川団地(上長者町棟)、鴨川デルタ(出町柳)、河原町塩小路周辺、大垣書店烏丸三条店[京都府]
京都市美術館と京都文化博物館を主会場に、京都市内の7会場で開催される大規模なアートイベント。河本信治(元京都国立近代美術館学芸課長)が芸術監督を務め、蔡國強、サイモン・フジワラ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、笠原恵実子、森村泰昌、ピピロッティ・リスト、田中功起、ヤン・ヴォー、やなぎみわなど約40組のアーティストが参加する。あえて統一テーマを設けず、現場で自律的に生成されるサムシングに重きを置いているのが特徴で、昨今流行りの地域型アートイベントとは明らかに一線を画している。また、会期中に市内の美術館、ギャラリー、アートセンター等で行なわれる展覧会や企画と幅広く連携しているのも特徴で、3月から5月初旬にかけての京都は、「PARASOPHIA」を中心としたアートのカオス的状況になるはずだ。
2015/02/20(金)(小吹隆文)