artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

島尾伸三『じくじく』

発行所:USIOMADA

発行日:2015年2月1日

2014年9月に開催された個展「Lesions/じくじく」の時に予告されていた同名の写真集がようやく刊行された。展覧会では『野生時代』に2007年から連載していたシリーズの、ごく一部が展示されていたのだが、今回の写真集で、一筋縄では捉えきれないその全体がはじめて見えてきた。
今さらながら、強く興味を喚起されるのは、島尾の写真とそこに付された言葉(テキスト)との関係である。島尾の父が、作家の島尾敏雄であることはよく知られているが、軟体動物のように伸び縮みする「です・ます」調で綴られる彼の文体は、父のそれとも明らかに違っている。そこで語られるのは身辺雑事としかいいようがない出来事の集積であり、しかも常に彼自身の感情や生理が、まさに「じくじく」と絡みついている。たとえば、身近にある時計を撮影した「時計」のパートのテキストには「頭を左右に振ると首がミシミシいいます」「耳元で血管が収縮しているらしいジンジンという音」「聞こえるはずのない手足の血管が、プクプクという音を立てながらピクピク動いていたり」といった表現が頻出する。
だが、そのような低く、薄く伸び広がっていくような文章を読み、その横のほんのりと微光に照らし出されているような写真(テキストと写真にはあまり直接的な関係はない)を眺めていると、次第次第に島尾の描写に引き込まれ、包み込まれていくように感じてくる。その、半透明の糸にぐるぐる巻きにされて、繭か蛹に化してしまうような感触には、どこかうっとりとさせられる気持ちのよさがあるのだ。「雲」「審判の日」「墓参」「駅舎」「死者への旅」「声」「時計」「街気」「ネコの死」「温泉」「線路の輝き」「敵意」「顔」「悪魔の家」「祈り」「空虚の街」「電灯」。全17章を辿り終えたとき、上質の短編集を読み終えたような気がしてきた。

2015/01/12(月)(飯沢耕太郎)

加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸2015

会期:2015/01/10~2015/01/18

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]

画家の加川広重が東日本大震災の被災地を描いた巨大絵画を神戸で展示することにより、阪神・淡路大震災を経験した人々が当時を思い出し、同時に今困難な状況にある人たちと思いを共有しようとするプロジェクト。加川のほか、建築家・宮本佳明の《福島第一原発神社》の展示、写真家・山岸剛の個展をはじめとする写真展、コンサート、ダンス、パフォーマンス、トーク、ワークショップ、朗読、映画上映など多彩なイベントが行なわれた。筆者自身、まさかこれほど大規模なイベントだとは知らずに会場に赴き、その充実ぶりに驚かされた。会場のデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)は、デザインを基軸にした市民の交流と実践と情報発信の場として2012年に開設された施設だが、こうしたプロジェクトの現場として機能しているならつくった甲斐があるというものだ。

2015/01/11(日)(小吹隆文)

石原友明展「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」

会期:2014/11/29~2015/01/18

MEM[東京都]

デジタル化の進行により「写真」と「写真ならざるもの」との境界が溶解しつつある。石原友明の新作展に展示された6点の作品は、白いジェッソの下地を塗ったキャンバスに、重なり合った曲線が描かれたドローイングに見える。ところが、それらは「作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフポートレート」なのだという。たしかにそれらをよく見れば、データ化された髪の毛の画像を微妙にずらして「特殊なインク」でプリントしたものであることがわかる。ただし、これを「写真」と見るにはかなりの違和感がある。カメラやレンズを媒介することなく、「スキャニング」によって直接転写された画像だからだ。だが、明らかに手描きのドローイングでもない。このような宙づりのイメージが提示されると、観客としては戸惑いと居心地の悪さを感じざるを得ない。
だが、石原がかつて発表した小説「美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ」(1993年)で、髪の毛についてユニークな見解を打ち出していたことを知ると、一見素っ気ない画面が違って見えてくる。石原の記述では、透明人間になった自分から髪の毛が抜けて床に落ちると「徐々に透明では無くなって」いく。さらに「死んで、もはや自分の一部ではなくなってしまった髪の毛を見つめると、なぜかそれこそが自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚」が生じてくるというのだ。この感覚は、たしかに身に覚えがあるもので、抜け落ちた髪の毛は、不気味であるとともにどこか生々しいものだ。石原の今回の作品は、その「反転した感覚」をスキャニングした画像データの転写という手法で、再構成しようとするものだろう。そのことを踏まえて作品を見直すと、抽象的なパターンの画面が、にわかに血なまぐさく思えてきた。

2015/01/09(金)(飯沢耕太郎)

中藤毅彦『STREET RAMBLER』

発行所:ギャラリー・ニエプス(発売:ソリレス書店)

発行日:2015年1月1日

中藤毅彦は1970年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部中退後、1994年に東京ビジュアルアーツ写真学科を卒業し、ストリート・スナップを中心に精力的に作品を発表してきた。今回刊行された200ページ近いハードカバー写真集『STREET RAMBLER』には、2002年からここ10年ほどの期間に撮影された、ニューヨーク、ハバナ、モスクワ(サンクト・ペテルスブルクを含む)、上海、ベルリン、パリ、東京の7都市の写真がおさめられている。
よく指摘されるように、中藤のストリート・スナップの感触は、東京ビジュアルアーツで師事した森山大道の写真を思わせる。むしろ開き直って、森山の撮影やプリントの手法を、そのまま取り込んでいるといえるだろう。だが、写真集のページを繰っていくと、そこに自ずと違いがあらわれてくるようにも感じる。じっとりと湿り気が滲み出てくるような森山の写真と比較すると、たとえ東京を撮影していたとしても、中藤の写真はドライで切り口が鋭利であるように見える。そこに写っている人物たちも、森山のように不気味で翳りを帯びているわけではなく、よりポジティブな印象を与える。見方によっては、森山よりも白黒のコントラストを強調したグラフィック的な処理の仕方が徹底しているようでもある。
とはいえ、中藤もそろそろ次のステップに踏み出す時期に来ているのではないかと思う。7つの都市の写真が、ほとんど同じに見えてしまうのが気になる。より細やかに、被写体となる場所の地域性に即して、アプローチの仕方を変えていってもいいのではないだろうか。なお、写真集の刊行に合わせて2015年1月10日~18日に、ギャラリーLE DÉCOの6Fで同名の展覧会が開催された。

2015/01/08(木)(飯沢耕太郎)

タカザワケンジ「CARDBOARD CITY」

会期:2015/01/06~2015/01/17

The White[東京都]

タカザワケンジは2014年の晩夏に、とある街を訪れた。そこは「決められた場所を歩くことしか」できないので、いきおい撮影した写真は「バスの窓越しに見たもの」がほとんどになってしまった。それらを見直しているうちに、ある「発見」があったのだという。そのことを元にして「写真展として構成」したのが、今回の東京・神保町のギャラリーThe Whiteでの展示である。
タカザワが撮影したのは、街の様子から見て明らかに北朝鮮(おそらく平壌)である。北朝鮮を撮影した写真のほとんどは、かの国の特異な政治体制や社会状況にスポットを当てているのだが、ここではまったく異なるアプローチがとられている。タカザワが注目したのは「窓越し」に撮られた写真に特有の「書き割り効果 cardboard effect」である。「書き割り効果」というのは、「写真になったときに立体感が失われた状態」のことで、たしかに会場に展示された写真群には、それがくっきりとあらわれていた。つまり、画面の手前から奥まで全部ピントを合わせたパンフォーカスと、窓枠があることによる切り取りの効果によって、画面全体が平板な、舞台の「書き割り」のように見えてくるのだ。さらにいえば、そのことは北朝鮮の街並自体が、どこか人工的で薄っぺらな「書き割りの街」であることも浮かび上がらせているといえるだろう。
タカザワは普段は写真関係の記事を執筆するライターとして活動している。写真を撮るだけではなく、それについて分析し、思考する態度が身についているということで、今回の展示にもその彼の独特のポジションがよくあらわれていた。さらなる探求と実践を期待したいものだ。

2015/01/08(木)(飯沢耕太郎)